第5話
歩くこと一時間弱。私はすっかり歩き疲れていた。
電車なら一駅の距離も、この時間では自分の足で歩くしかなかったのだ。こんなに距離があるなら自転車に乗ってくればよかった、と思ったものの、それは後の祭り。
たどり着いたのは、古い大きな洋館の前だった。
門から館まではかなりの距離がありそうだ。
花見といえば、どこかの公園かなにかだと思いこんでいたので、ちょっと意表を突かれた感じだった。
こんなところに、それほどすばらしい桜があるんだろうか?
うららは手慣れた様子で重い門扉を開き、館につづく歩道を歩いていく。
「ここ、誰んち?」
小声でたずねると、
「知らなーい」
と、悪びれもせず、うららはケラケラと笑う。
「知らないって、あんた。これって、不法侵入……」
「とも、言うね」
「とも言うねって──」
あぁ、たばこも吸わない、お酒も飲まない、この私が不法侵入なんて……。
頭を抱える私の肩をうららが叩いた。
「──あれだよ」
私は顔を上げた。
指さす方向を見て、私は息を飲んだ。
確かに──絶景だった。
狂い咲き、というやつなのかもしれなかった。
樹齢どのくらいの木なのか見当もつかない。恐ろしくがっしりと太い幹。大きく広げた枝。
そしてそこには、一面真っ白になるほどの花、花、花、花。
薄紅色に色づく花びらを、月光が照らし出す。
ザッと風が鳴り、花びらは高く舞い上がり、風景を桃色に滲ませる。
ずっと見ていると、桜に体ごと取り込まれてしまいそうな錯覚を起こしてしまいそうだ。
綺麗だ──。
だけど、それは言葉にならず、私は、ただ立ちつくしていた。
「──気に入った?」
そううららに声をかけられて、我に返る。
「すごいね」
ため息と一緒に言葉を吐き出した。
「でしょ? こんな桜はめったに見られないよ」
「かも知れない」
「うららのおとっとき、だからね」
言うなり、たたっと駆け出して幹にしがみつく。
木のぬくもりを味わうように頬をあて、うららは眼を閉じた。
しばらくそうしてから、うららは顔だけこちらに向ける。
「この木のこと教えたの、緑子が初めて」
そうして、軽く微笑む。天使の笑み。
そこには昼間の変人うららはいなかった。
なんて──なんて無垢に笑うんだろう。
「宝物の木だから、滅多な人には教えられないんだよ」
「じゃあ、なんで私を連れてきたの?」
「そんなの決まってるよー」
うららは、体ごと振り返り、私を見た。
そして、何か呟いた。
「何?」
だけど、ちょうどその時吹いてきた風の音に紛れてその声は聞き取れなかった。
「なんて言ったの今?」
「──なんでもないよ」
聞き返す私に、うららはうつむいて答えた。
「ねー、なんて言ったのよ」
「なんでもないよっ」
いきなり顔を上げると、にぱっと笑った。
「それより──」
そう言うと、うららはバッグをごそごそとかき回し何かを取り出した。
「じゃーん!」
「うらら、それ!」
「えぇ。そうでございます。幻のお酒『月下桜水』でございます」
うやうやしく両手に捧げ持ったそれは、お酒なんて飲んだこともない私ですら知っている幻の日本酒、『月下桜水』だった。
「なんでそんなものっ!」
「パパのをちょっとくすねてきたのだ」
うららは、愛おしそうに『月下桜水』の瓶に頬ずりしている。
「そーじゃなくてー、お酒は二十歳になってからって──」
「あれ?」
小首を傾げて、うららはあざけるように笑った。
「あららー、緑子ちゃんて、お酒飲んだことないのかなぁ?」
「な、ないわよっ。悪い?」
「まっ、ちゃいるどちゃんなんだから」
そう言って、にやりと笑ううらら。
「そかー、緑子はお酒飲めない人かぁ。っていうか、お酒バージン?」
ぷぷ、とわざとらしく吹き出してみせる。
「じゃ、いいやー。一人で飲んじゃうもんね。おこちゃまは、ミルクでも飲む?」
その言葉に、私の中で何かがぷちっと音を立ててキレた。
「ちょっと、貸してっ!」
うららから、瓶を奪い取るとおもむろに封を開けてぐいっとあおった。
──あれ?
なんだ、お酒って結構おいしいじゃん。
考えていたほど、変な味じゃなかった。喉元で滑らかに広がる芳醇な香り。
──なんだ、いけるじゃん、私。
と、思った。
結構、お酒に強かったりして。
が、しかし、その後、ふいに体と喉と頭と胃袋がかーっと熱くなった。
地面がぐらりと揺れ、視界が真っ白になった。
あれれ? と思うまもなく私は意識を失った。
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