品川の花火大会の準備をどんどん進めよう
さて、道中奉行に花火大会開催の許可を得て、花火そのものも水戸の若様の協力を取り付けた。
「よし、これでそれなりの花火大会が開けるな。
とはいえ鍵屋にも協力を頼んでおいたほうがいいか」
”たーまやー、かーぎやー”という花火の打ち上げのときに用いられる花火屋である、鍵屋の歴史はものすごく古い。
子供の頃から花火作りが得意だったと言われる奈良の篠原村出身の鍵屋弥兵衛は、自作の花火を売りながら上京を果たし、玩具花火の開発と販売で大成功を収めている。
これは当時はなかった葦の管に丸めた火薬を入れたもので、現在のススキ花火の先駆けの様なものだ。
万治2年(1659年)には日本橋に鍵屋の屋号で店を構え、上京して間もなくで幕府御用達の花火師になったし、その後も代々屋号は受け継がれて21世紀でもまだ残っているのだからすごいよな。
享保18年(1733年)に行われた隅田川で水神祭での川開きは、6代目鍵屋が担当し、客寄せの為に仕掛花火、打ち揚げ花火、たち花火を合わせて二十発前後と言われるがこれでも十分だったようだ。
21世紀の花火大会では何万発という花火が打ち上げられるが、当時は火薬は培養法で作られるだけだったからその量も現代ほど多くなかったし、江戸時代の大名花火は藩お抱えの火術士、砲術士が1つを打ち上げたら打ち上げ筒を倒して中をきれいに掃除してから、また火薬を詰めなおしという大砲の発射と同じ作業をしてから、ようやく2発目が揚がるというものなので、下手すれば半刻(1時間)、短くても一切り(30分)程度はかかるのが当たり前でもあったんだ。
もともと武家花火は、砲を用いた戦に用いる信号弾のようなものが進化したものであったので、その運用の仕方は変わっていないのだな。
縄に火薬を練り込んで、形を楽しむ仕掛け花火などを中心とした、町人花火とは基本的な方向性が異なるのだけど、双方を共に取り入れたのが、打ち上げ花火などの21世紀現代の日本の花火技術なわけだ。
というわけで俺は鍵屋のもとへ赴いた。
「ちょっくら失礼するぜ、俺は吉原の三河屋戒斗。
手持ちの花火をたくさん売って欲しくて来た」
「ん、花火をたくさんだって?」
「ああ、できれば500から1000くらいは欲しい」
「1000だって?」
「ああ、今度品川で花火大会をやるんでな。
見に来たやつにできるだけ玩具花火を楽しんでもらいてえんだ」
「そいつで1000か。
まあできねえことはねえが金は……まあ大見世の楼主にそんなことを聞くのは野暮だな」
「まあ、そのためにはいくらでも出すとは言わんがな。
ちなみに一ついくらだ」
「1つは16文(およそ400円)だな」
「じゃあ1000個で40両ってところか」
「そんな金額をあっさり言えるたあ羨ましいねぇ」
「こういったことにかけた金は最終的には戻ってくるさ」
「まあ、うちに宣伝にもなりますし、やらせていただきましょう」
「そいつは助かるぜ。
別途金は出すから仕掛け花火も派手に頼むぜ」
「それは腕がなりますな」
ちなみに亨保の頃に打ち上げ花火が盛んになったときですら、船を仕立てると5両(およそ50万円)、打ち上げ花火1発1両(およそ10万円)だったそうだから打ち上げ花火は結構高い。
ただ東海道の最初の街である品川で派手に花火を打ち上げれば、江戸幕府の武威を示すこともできるだろうから、これも無駄じゃねえと思うぜ。
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