母さんや十字屋のみんなと日光に行ったが安くはならなかったよ

 さて、三河屋のみんなが江ノ島詣でから戻ったら次は十字屋のみんなと行く番だ。


 母さんは特に喜んでる。


「草津の湯に入れるのは楽しみだねぇ」


「そっちは本当はついでなんだけどね」


「日光の東照宮はきらびやかだっても聞くしねぇ」


「ああ、もうすぐ実際にみれるよ」


 十字屋についても以前に比べれば三河屋と同じくらいに力を入れている。

 なんだかんだで十字屋の遊女たちも頑張ってるしな。


「じゃ、行こうか母さん、十字屋のみんな」


 俺の声かけに母さんがうなずく。


「あいよ、じゃあ行くとしようかね」


 紅梅もうなずき後ろを見渡す。


「みんな大丈夫でやすな?」


「大丈夫でやすよー」


 三河屋は妙たちに任せておけば安心だろう。


「いってらっしゃー」


「いってくるな清花」


 ただ去年の江ノ島詣ででは母さんのことを考えて吉原から屋根付き船を使って品川湊まで向かったが、今回は最初から歩きだ。


 堂者引の僧侶といっしょに徒歩で日光街道を北側に歩いて千住にまず入る。


 遊女たちは道中記、21世紀現代でいうところの旅行のガイドブックを開いてワイワイ騒いでるな。


 これは仮名草子の一種で江戸千住から日光街道をつたって日光へ至るまでの沿道の宿場町名やその名物、道中の風景や東照宮境内とその周辺の風景などが挿絵付きで記されたものだ。


 名所案内のガイドブックなどはなんだかんだで印刷されて


「千住だと……」


「……っていう店の茶がうまいらしいでやすな」


 まあ、道中の名物というのもやっぱり楽しみなものだ。


「三河屋さんと内儀さん」


 と声をかけてきたのは紅梅だ。


「ん、なんだ?」


「去年よりの内儀さんの教えの御陰で三河屋さんの藤乃太夫に勝ったのに、伊勢で負けてしまいすんまへんでした」


「そりゃしょうがない、お伊勢さんのお膝元だしよくやったと思うぜ」


「そうだねぇ、とはいえ負けたまんまじゃいらんないし、来年は頑張って優勝できるようにするんだよ」


「……はい、がんばりやす!」


 伊勢から戻ってから微妙に晴れなかった紅梅の表情の理由はそこだったのか。


「なるほどな。

 まあ、勝負は時の運もあるし、あんまり気にしすぎないことさ」


「はい、でも来年こそは優勝でやすよ」


 紅梅の芸事教養の仕込みをすると言った後の母さんはなんか嬉しそうだった。


「まあ、藤乃が日本一になったからと言ってぼやぼやしてたら追い抜かれるよって言われたら、あっという間に追い抜かれてたな、俺はそんな簡単には追い越せないだろと思っていたんだけど」


「だからいったろう、そうでもないかもしれないよって」


「まったくもって面目ないよ。母さん」


 紅梅もよほど頑張ったんだろうな。


 ちなみに東海道と違い現状の日光街道には辻駕籠や辻馬、牛追いなどはいない。


 日光街道は基本的に武家の日光東照宮参拝のための道であるので、そのあたりの規制は結構厳しい。


 本来江戸時代は「馬に乗れる資格」というのが厳密に定められていて、馬に乗れるのは基本は武士身分の300石以上の身分のみとされ、駕籠もその外観などが、乗る人間を厳しく格式により制限されていて、乗るための資格も大名、公家、門跡や高僧などと、医者、陰陽師、60歳以上の老人、病人も幕府の許可を得れば乗用が可能とされている。


 だから本来、馬や駕籠を使えるのはそういった者のみで、さらには駕籠に乗ったときは誰が乗っているかわかるようにするため左右の垂れを開けておかなければならなかったのだが、幕府は何度も駕籠の利用を禁じており、実際は禁止令は守られていなかった。


 つまり駕籠に乗る身分の決まりは大方守られていなかったってことだ。


 駕籠の禁止令は出されては破られ、そしてまた出すということを繰り返し、とうとう元禄十三年(1700年)に幕府は町駕籠や辻駕籠を許可し、町人は公認で駕籠に乗ることができるようになったが、吉原通いや道中には使ってはならないという禁令は別途出されている。


 これは犯罪者が吉原へ逃げ込んだり江戸から逃げ出すのを防ぐためであったらしい。


 もっとも駕籠による吉原通い禁止令もいつの間にかうやむやになってしまうのだが。


 このあたりは治安維持要員が少なすぎて自治に頼らざるをえない江戸幕府の限界ではあったろう。

 日光街道にはぜぜちょーだいと群れてくるような子供もいない。


 下手すると武士に斬られかねないからな。


 日光街道をひたすら歩いて日光坊中へたどり着いた。


「けっこう大変だったねぇ」


「まあ山道も多いしね」


 到着したころにはもう夜なので宿坊に泊まって、翌日に案内付きでの参拝開始。


「すごい豪奢なたてものでやすな」


 紅梅達十字屋の遊女が建物を見て感動している。


 俺は最近一度来たばかりなのもあってそれほどでもないが。


「おはようございます、では5名様ずつ分かれてください。

 それぞれ堂者引に対して一人案内賃を100文に拝観料100文をお願いします」


「ああ、それは俺がまとめて払うわ」


 ちなみに俺は日光に来るのは今年2度めだが特に割引などはない。


 このあたりは家光公の代のバブル景気になれてるつけだとは思うがな。


 家光公は徳川の威信を示すためにも日光社参を3年に一度程度のかなりの頻度で行って、それにより多額の銭が街道や日光にもたらされたが、暗殺などが起こるのを防ぐために、街道から2~3町以内の藪、林の枝切り落とし、石塔等の除去、野道の閉め切り、左右の田畑の麦作は1町半を見通せるようにするなど農民の負担も大きかった。


 しかし、日光はめちゃくちゃ潤っていたのが将軍が代替わりすると明暦の大火の影響や武断政治から文治政治への方針転換により大名への負担を強いる方針も転換されたため日光はそれまでに比べて儲からなくなってるので、結構強引に金をとってるっぽいんだよな。


 まあ、案内者につれられていろいろ説明を受けている遊女たちがけっこう楽しそうなんでそれは良いとしよう。


 日光が観光地として衰退していくとしてもそれは俺に関係ないことだしな。


 そして日光の参拝が終わったら草津の温泉に向かう。


 前に三河屋の皆と来たときとおなじように日光裏街道から、真田街道・信州街道・草津街道へ入って草津に到着。


「なんか卵が腐ったみたいな匂いですな」


「ああ、もともと草津は臭水という言葉が元だって話だしな」


 やはり皆同じような感想を抱くらしい。


 まあ温泉地の硫黄の匂いというのはかなり臭いしな。


 前回と同じようにちゃっちゃと手続きをする。


「さて、手続きをしたら早速温泉に入るか」


「そうしやしょう」


 そして宿の番頭と話をしようとしたら向こうは俺のことを覚えていたらしい。


「おや、あなたはこの前来てくださった」


「ああ、また世話になるぜ、後もう一二回来ると思うがな」


「なるほど、でしたら少し安めにしておきましょうかね」


「そうしてくれるとありがたいぜ」


「いえいえ、何度も来ていただいたほうが私達は利益がありますからな」


 ああ、日光の坊主と違って草津の温泉宿の番頭はよくわかってるな。


 必要なものを頼んだら温泉に入る。


「ああ、有名な草津の湯に本当に入れるとはねぇ」


「母さんはやっぱり温泉のほうが良かったかい?」


「日光はたしかに綺麗だったけど、なんだか押し付けがましいというか、私達を見下してるように見えてねぇ」


「まあ、坊さんから見れば俺たちは見下されるんだろうな」


 俺は母さんとそんな話をしてると紅梅もポツリと言った。


「わっちらが遊女であちらさんがお坊さんだからですか」


「まあ、遊女というより一般人だからだろうな」


「なんか、納得いきまへんわ」


「ま、ここでのんびりして忘れようぜ」


「あい、そうしますわ」


 まあ、のんびり温泉に入ってゆっくり寝ればそういったことも気にならなくなったようだけどな。


 とはいえ今の日光のやり方じゃ観光地としての魅力も半減するんじゃなかろうかとは思うが。

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