桜に間夫ができたかこいつはめでたいな。
さて、9月も終わろうとしたある日、俺は桜に呼び止められた。
「若旦那、ちょっと時間を取っていただきたいのでありんすがようござんすか?」
「おう、桜どうした?」
桜の表情には前に岩ができたことを打ち明けられたような深刻さはない。
「ここでは話しづらいんで、わっちの部屋に行きやしょう」
「おう、わかったぜ」
俺は桜の個室へ一緒に向かった。
そして、部屋に入ってから桜が言った。
「実はわっちにいい人ができたんでありんす」
桜の告白に俺は念のため聞いた。
「ほう、間夫ができたのか。
念のため聞くがそいつは俺の見世の若い衆じゃねえよな?」
桜はコクリと頷く。
「あい、先日わっちに初で入った米屋の奉公人さんなんしが花見の時にわっちを見かけてそこからずっと おもっていてくだすったそうでありんす」
俺はそれを聞いてうなずいた。
「ああ、なら全然いいんじゃねえか。
置屋や揚屋にタダで間夫をあげたりするのはまずいが開いてる日に出会い茶屋であったりするなら全然構わんぜ」
桜は笑う。
「あはは、そいつは有り難いねぇ」
上野の出会い茶屋は遊郭の遊女や楼主が逢引をする場所でも有った。
うちの親父と母さんみたいな将来一緒になろうと誓った楼主と遊女も表向き見世の中じゃそういったことをするのは許されねえから、出会い茶屋で人目を忍んで逢瀬を重ねたことも有ったみたいだぜ。
そして今回のはなしは落語の紺屋高尾や幾代餅のような話だが紺屋高尾は完全な創作だし、幾代餅も創作が加わってる。
大見世の三浦屋で遊ぶのに引手茶屋を通さずに見世に直接行って高尾を指名しようとしても門前払いされるのが関の山だし、引手茶屋を通して遊ぶ場合は身分を証明する揚屋差紙が絶対に必要なので身分を偽って遊ぶこともできないからな。
それに高尾と遊ぶなら30両は必要だ、本物の太夫というのはそれこそ高嶺の花なんだ。
年期明けに近いとは言え高尾と遊ぶのには10両では全然足らないぜ。
最も安政地震の雪平鍋の話の薫にも年期明け間近に間夫ができたりしてるので、太夫や花魁にも年期明け間近に間夫ができたりするのはそれほど珍しくはないのかもしれないけどな。
島原の吉野太夫に一目惚れした、小刀作りの職人の弟子が、遊ぶことは叶わずともせめてひと目だけでもと島原に通い続け吉野太夫が一晩だけ相手をしてくれたという例もある。
まあこの小刀作りの職人の弟子はもう二度と太夫に会えないならと川に身投げしちまったりするんだが。
ちなみに幾代餅という話のもとになった遊女はたしかにいるが、太夫ではなくて切り見世の女郎だった。
ただ、切見世女郎だからと言っても馬鹿にはできないくらい綺麗な女ではあったらしい。
まあ、年季が明けてのんびりお得意さん相手に女郎商売をしていたのかもしれないな。
幾代餅自体は実在した餅で江戸時代の両国の名物の1つだ。
元は車力頭とも餅の行商人ともいう小松屋喜兵衛という人物に、切見世の女郎幾代が宝永元年(1704)ごろ身請けされて、最初は毎朝一個五文の餡餅を両国の青物市(野菜の市場)で売ったが、やがて両国広小路に店を構えて、餅を売り始めた。
元は吉原の遊女の美女が客の前で餅を焼いて餡を塗って手渡すことや幾代という源氏名がイク~と女の喘ぎ声にも通じることからたちまち大繁盛したと言われる、幾代餅は小松屋喜兵衛と幾代が死んだあとも代々に渡って売り続けられ、両国の名物となるのだが、あんころ餅という簡単な商品だったがゆえに我も我もと類似品を発売し元祖だ本家だ本元だと餅屋で争い合うようになり、ついには大岡越前に訴えるような騒ぎにもなったが幕末頃には売れなくなって姿を消したらしい、なんとももったいない話だが特許だの登録商標だのがない時代だからな。
「まあ、相手が普通の職人だったらお前さん家事をしないとならんが大丈夫か?」
俺は桜にそう聞いてみた。
「うーん、そのあたりはちょっと心配でんな。
なんせわっち料理も裁縫も洗濯もしたことありんせんし」
「まあ、そうだよな」
遊女が身請けされて男のところに行っても必ず幸せになれるとは限らなかった。
まず遊女は教養や芸事には秀でていても家事や育児には疎かったし、現役遊女は子どもをうんではならないとされていたから、嫁になったとしても子どもができないことが多く、正妻の立場を得ても子どもができなければ石女(うまずめ)として後ろ指を刺されることが少なくなかった。
この時代の妻の役割はまずは後を継ぐ子どもを産むことが一番大事とされていたからな。
また奥方というのは家の中のことは全て管理せねばならないが、衣服に至るまで見世から与えられたり、借りたりしている遊女は自力で買い物することすらできない事が多い。
そうすると結局は嫁失格として離縁され吉原にもどらざるをえないことも多かったんだ。
妾として貰われていった場合でも年を取れば当然容色は衰えるからいつまでも目をかけてもらえるとは限らなかった、新しい若い妾ができれば放り出されることもあった。
「とりあえず花嫁授業が必要だな。
料理洗濯裁縫買い物、こういったことを半年以内に身に着けないと駄目なんじゃないか」
桜は俺に言われたことでやっと気がついたようだ。
苦笑しながら桜は言う。
「たしかにそうでありんしょうなぁ」
これが大きな商人の嫁だったらまだいいんだ。
そういったことは下女がやるからな。
商人の嫁は客相手の愛想の良さや読み書き計算が出来ることが随分役に立つ。
まあ、桜の旦那が餅屋をやるんなら桜の愛想の良さと美貌は役に立つとは思うんだがな。
「とりあえず台所で飯炊きを手伝ったり、お針子に着物の仕立て方を習ったり服をほぐしての洗濯の仕方を下女に教えてもらうんだな」
「うーん、なんか複雑な気持ちでありんすなぁ」
「そういうな、結婚したらお前さんがやらないといけないことなんだから。
ああ、岩の様子を話しにたまには戻ってこいよ」
「わかってやんすよ」
まあ、年季が明けて女房になったらそれはそれでまた大変だが、誠実そうな男だったら桜を捨てるようなこともしないだろう。
そんなことを俺と桜で話し合ったその翌日の夜、札差の越後屋の宴席に呼ばれた俺は越後屋からこう言われた。
「三河屋さん、桜太夫を私は見受けしたいのですが
1000両でいかがでしょうか?」
と。
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