滴る二人
虹色
第1話
「先輩、それは俺の傘です」
「それはすまんな。間違えてしまった」
先輩は謝罪の言葉を口にするも、手に取った俺の傘を離そうとしなかった。それどころか、そのまま外に出て優雅に傘を広げた。完全に自分の所有物として扱っている。
「どうしたんだ? さっさと帰るぞ」
「いや、それは俺の傘なんですけど」
先輩は傘に視線を移した後、不思議そうな顔で俺を見た。
「そうだな。間違えたからな」
「だったら早く返してくださいよ」
雨足は弱まるどころか強くなってきている。傘無しで帰るのは少々無謀な行為だ。
「だから間違えたと言っている」
「だったらその間違え、さっさと傘を返して正してくださいよ」
俺の悲痛な叫びもどこ吹く風、先輩は呆れたような顔で両手を上げた。
「賢人でさえ、自身の過ちを認め正す事は難しい。たかだが十八年生きてない私にできるわけがないだろう」
屁理屈が飛んできた。本当、面倒くさい人だ。言い訳をさせたら右に出るものはいない。
生物学上、先輩は女性。あまり気は進まないが武力行使させてもらおう。
「あぁっ……あん」
「変な声出さないでください!」
「だって――君がいきなり襲い掛かってくるから」
近づいて強引に奪い取ったら変な声を出された。別に、法律に違反するようなところは触っていない。触れたのは先輩の右手だけだ。
「そういえば先輩、傘忘れたんですか?」
「もちろん。そうでなければ君の傘など奪わないよ」
ない胸を張ってドヤ顔で言う先輩。そんな顔で言うべきことじゃないと思うのだけれど。
だと困ったな。戦闘力が小数点以下の先輩をこの雨の中に放り出せば十中八九風邪をひく。俺は全く悪くなく、悪いのは先輩の情報収集能力なのだけれど……そんな事態になることを思うと罪悪感が込み上げてくる。自分の一存で助けられることは助けてあげなければ。
しかし、俺は濡れて帰りたくはない。だが、先輩を雨ざらしにしたくない。となると俺が提案すべき手段は一つ――相合傘のみ!
相合傘。それは二人の男女が寄り添いあい、一つの傘に入って雨を凌ぐというどきどきイベント。俺と先輩は恋人関係でもないが、その手の行為に恥ずかしがるような関係でもない。
「君も私の脆弱さを知っているだろう? それにこういう場では女の子を優先するべきと思わんのか?」
不機嫌そうに腕を組む先輩。
「そうですけど、俺も濡れたくないんです」
「水も滴るいい男になれるのだからいいじゃないか」
「じゃあ先輩も水も滴るいい女になればいいじゃないですか」
「私は既にいい女だからいいのだよ」
自信過剰な人だった。確かにそれは認めよう。……残念な胸を除いて。
「議論は平行線だな。仕方ない、ここはフェアにジャンケンで決めよう」
「どこがフェアですか! 元々これは俺のですっ!」
既に構えをとっている先輩に対し、改めて無駄と思いながらも傘の所有権を主張してみる。もし先輩が勝利し、傘の権利を奪い取ったならそのまますたこらさっさと帰ってしまうだろう。そうなると俺はただ、無意味に濡れて帰ることになる。だったらここは先輩と相合傘をして帰るというどきどきイベントに進行するのが落しどころだ。
「仕方ないですね。このままでは議論は平行線です。ここは日本人らしく和の心を持って、この傘に一緒に入りましょう」
外に出て傘を広げる。振り返り、先輩に手を差し出そうとしたが……先輩は拒絶の表情を前面に表していた。顔の全神経が引きつっている。学園トップの美貌が台無しである。
「それは無理」
淡白に断られた。さっき俺傘を奪ったときと同じように、一瞬の躊躇のない返事だった。
「しかし、代わりにいい案を思いついたぞ」
先輩は指をパチンと鳴らすと呆然自失状態の俺からするりと傘を奪いとった。
「和の心。その考え方は間違っていない。しかし、真に私たちがとるべき選択肢は――これだ!」
言い終わると同時に重々しい音が響いた。それは傘の断末魔。骨組みが折れる音。
「ちょ――何してんですか?」
「こんな物があるから争いが起こる。元々なければ私たちは争ったりはしない」
先輩はいい笑顔でそう言うと、そのまま外に出た。そして振り返り、俺を見据えた。
「共にいい女、いい男になろうじゃないか」
歌うように言うと、雨の中を駆け抜けた。美しい駆け姿だった。
残された俺は、ただのゴミ屑となった傘を抱えて失意のままに家路に着いた。
その日俺は、傘を失い恋を失い――そして体温まで失った。その代償として、水も滴る男になることができた。
しかし『いい男』であるかどうかは全くもって分からない。
先輩のほうはどうだったのだろう? 無事、いい女になることができたのだろうか?
個人的には、あの人にこれ以上は望まない。ライバルが増えるのは困る。
ただ、風邪をひかずまた学校で会えるなら、それで十分だ。
滴る二人 虹色 @nococox
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