第15話 嗜虐と同情

 気づけば、七瀬は宮殿の廊下を走っていた。


 何も考えずに走っていたので、曲がり角で向こうからやってきた官吏とぶつかりそうになる。

 驚き避ける官吏に、七瀬は問いかけた。


「ディオグはどこ?」

「この時間は執務室だと思いますけれども……」

「ごめん、案内してくれるかな」

「かしこまりました」


 官吏はおそるおそる、七瀬をディオグのいる部屋へと連れて行った。


 七瀬はディオグに会いたかった。

 ディオグは間違っている存在で、裁かれるべきなのだという確証が欲しかった。


 官吏の案内で着いたのは、いくつも廊下を曲がった先にある宮殿の奥の部屋であった。

 幾何学模様の格子戸の入り口は、二人の若い兵士に守られている。


「ディオグに会いたいんだけど」

 七瀬は兵士に尋ねた。


 兵士は顔を見合わせてうなずき、中にいるディオグに確認をとった。


「陛下、ナナセ様がいらっしゃっています」

「わかった。入れていいよ」


 扉越しにディオグの声が聞こえ、七瀬は中に通された。

 ディオグは大きな木製の机の上に載ったたくさんの木簡を前にして、椅子に座っていた。手には筆を持ち、優秀な為政者として一応仕事をしていたようだ。


「ナナセから僕に会いに来るなんて、めずらしいね」

 ディオグは机の上を片付けながら立ち上がった。

 黒地のゆったりとした衣を着て自室用の小さな冠を被ったディオグの姿は、普段よりもラフな印象である。


「私、聞いたよ」

「何を?」

「あなたが昔、リウンにしたことの話」


 七瀬は震える声で、話を切り出した。


「あぁ、父親を殺させたことか。キエンが話したんだね。もっと詳しく聞くために来たの?」

 ディオグは木簡から顔を上げて、話したくてうずうずした表情で七瀬を見た。


 ディオグから昔の話を聞くのは、リウンに悪い気がした。

 だがここまで来たからには全部知る必要があるとも思ったので、七瀬は黙って何も言わなかった。

 沈黙を了承だと理解したディオグは、嬉しそうに笑って話し出した。


「じゃあ話してあげようか。あのときはえっと、兄の生前で、僕は即位してなかった。僕は反逆者がいるってことで、リウンのいる邑を平定しに行ったんだよね。そこで初めて会ったリウンはまだ可愛い年頃で、殺された母親の死体を泣きながら守っていた。その姿が健気で気に入ったから、そのまま土牢に入れてみたんだ」


 ディオグはまるで犬を飼った話のような気軽さで、リウンにした仕打ちについて語る。


(土牢に入れたって、監禁したってこと……?)


 母親を殺されて一人囚われる幼いリウンを想像して、七瀬は頭が真っ暗になった。


 リウンの置かれた辛苦をより詳しく想像できるように、ディオグは微細に掘り下げながら話を続けた。

 その瞳は、記憶の中にいるかつての幼いリウンを見つめていた。


「僕はあの子から服も何もかも奪って繋いで、暴力以外ほとんど何も与えなかった。最初は一生懸命抵抗していたけれども、だんだん瞳から光が消えて静かになったよ。僕は死んでしまう前にリウンを出して、まだ生かしていた父親に会わせてあげた。そして通訳を通してだけど、こう言ったんだ」


 そしてディオグは、昔リウンに向けた言葉をそのままそっとささやいた。

 ディオグの甘く深い声は、近い距離ではないのに七瀬の耳によく響く。


「お前たちは国を乱した反逆者だから、裁かれなくちゃいけない。でも、お前がお前自身の手で首謀者である父を殺すなら、邑の他の人間は見逃してあげる。それが無理なら、全員お前の母親みたいに殺すよ、って」


 ディオグの命令は、巧みにリウンに罪を着せて責任感を煽っていた。絶対に頭がおかしい要求であるのに、情け深い施しのように装っているのがたちが悪い。

 痛めつけられて判断力を失った幼いリウンには逆らうことができなかったであろうことが、七瀬にも容易に想像できる。


 恍惚とした表情で、ディオグはさらに続けた。


「ぼろぼろで震えていたリウンは僕が投げた刀を拾って、縛られた父親を刺した。僕が命じるままに、何回もね。あの時はちょっと僕、感動しちゃったなぁ……。おや、君も泣いちゃったみたいだね」


 気づけば、七瀬は涙を流していた。

 七瀬は本来そこまで正義感も強くもなく、他者への思いやりも薄い方である。

 だがディオグがリウンに強いた人生は、もうそういう問題の話ではなかった。


 七瀬はむりやり父親を手に掛けることになったリウンの苦しみを想像した。それは決して七瀬にはわかることがない遠さで、それゆえに目をそらすことができない。

 涙を拭わずに、七瀬はディオグをにらみつけた。


「……あなたは人間じゃないね。ディオグ」

「僕は人間だよ。残念ながら」


 ディオグは本当に残念そうに笑うと、するりと七瀬に近づいた。


「それにほら、僕はリウンにちゃんと優しいこともしてるよ。父親を殺させてからは人間らしく扱って手当てしてあげたし、その後もときどきは甘やかしてるからね。だから彼は、まだ真っ当さを残して生きている」


 七瀬の後ろに立ち、ディオグはそっと耳元にささやいた。

 温い吐息が七瀬の耳殻をくすぐり、背筋をぞくりと粟立たせる。


「それは、長く苦しめて楽しむためでしょ? あなたのためで、リウンのためじゃない!」

 七瀬は振り返り、ディオグから距離を置きながら叫んだ。


 だがディオグは薄笑いを浮かべたまま七瀬の手を掴んで、そのまま机に押し付けた。七瀬の体は簡単に机の上に倒されて、ディオグの体の下で組み敷かれる。


 七瀬は何も言えずに、黒い衣を着たディオグの体の熱がごく近くにあるのを感じた。


「そうだね。でももうリウンは、僕の側以外では生きていけないよ。支配者である僕から離れたらもう、彼に罪は背負えない。僕はそういうふうに、人を支配してきた」


 ディオグに支配されているのは、リウン一人ではない。

 大勢の人々がディオグの元で苦しみ、死んでいる。

 リウンはその大多数の内の一人でしかないのだ。


 強い力で抑え付けられながら、七瀬は自分に覆いかぶさるディオグを見上げた。すぐ目の前にあるディオグの端正な顔は、こんな状況でも綺麗に微笑みかけている。

 酷薄な瞳に視線を注がれ、七瀬は初めて本当の意味でディオグの怖さを感じた。

 ディオグはいつだって、ちょっとした命令一つで七瀬を殺すことも痛めつけることもできるのだ。


 ディオグは細くなめらかな指で七瀬の頬を撫で、口づけをするようにそっと問いかける。


「それとも何? 君がリウンを助けてあげるの? 無理だと思うけどね。どんな死に方をしてもきっと、僕の与えた日々はリウンを最後まで苦しめる。こういうとき僕はほんの少しだけ、永遠ってやつを感じてしまうよ」


 不老不死にあこがれているらしいディオグは、永遠という言葉をとても嬉しそうに口にした。他者の心に癒えない傷をつけることは、ディオグにとって人との深い繋がりを感じさせる行為であるようだ。


 ディオグは加害者と被害者の関係の中に、自分の存在の意味を見出していた。

 決して忘れ去られることのない、被害者にとっての加害者としての自分。それはある意味、恋人同士よりもずっと濃い繋がりである。その関係こそが、ディオグにとって永遠という幸福の拠り所であった。

 それゆえに、残酷な方法で人を苦しめることがディオグにとっての人生なのだろう。


「ディオグ、あなたは……」


 七瀬はディオグを罵る言葉を探した。

 だがディオグの残忍さに見合った言葉は、七瀬の語彙には存在しなかった。

 手元で震える七瀬に、ディオグはくすくすと笑いかけた。


「あんまり僕をにらまないでほしいな。可哀想な存在が好きなのは僕だけじゃない。誰でも本当は苦しんでいる他者が見たい。君だってリウンのことを気にかけるのは、彼が不幸だからだろう? 気の毒なリウンの過去が聞きたくて、君はここにいる」

「――っ……」


 罪悪感を抱かせようと加害者側に引き込むディオグの言葉に、七瀬は胸の奥を深く突き刺されたような気持ちになった。

 それは人の心の底に眠る欲望に触れて、その本質を暴いていた。


「私はあなたとは違う!」

 大声で叫び、七瀬はディオグを思い切り突き飛ばした。

「おっと、反撃かな?」

 必死の七瀬の抵抗に、ディオグは手を離して遠ざかった。

 静かに笑って、七瀬の反応をうかがう。


 七瀬は息を切らしながらディオグをにらんで後ずさり、何も言わずに部屋を出た。

 これ以上ディオグに何か言って、喜ばせるつもりはなかった。


 扉越しに、ディオグの笑い声が高らかに響く。

 その声から逃れるようにして、七瀬はよろめきながら廊下を進んだ。


(私は確かに、リウンが不幸だから気になってるのかもしれない。でも、だからってリウンに不幸でいてほしいわけじゃない)


 七瀬の同情を自分の嗜虐趣味と並べるディオグはおかしく、そして正しかった。

 だから彼は王なのだと、七瀬は思った。


 何とかして自室に戻って戸を閉めると、七瀬は床にへたり込んでぼろぼろと泣いた。

 ディオグの前ではこらえていた分の涙が、勢いよく溢れ出る。


 だが明かりをつけていない部屋は暗く、七瀬を顔を見る人間は誰もいない。七瀬の耳に聞こえるのは、みっともない自分の泣き声だけだ。


「リウン、私は……」


 袖を濡らす涙に構わず、七瀬は泣き続けた。

 この世界のことには深く関わらないと決めた最初の覚悟は、どこかに消えていた。あまりにもリウンが救われないし、ディオグにほとんど何も言い返せていない自分が情けない。

 七瀬はただそのとき、リウンの幸せだけを願っていた。

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