醜悪なその手【4】

 


 右手に直槍を持ち、胴には肩口から腰元までを覆う革の鎧、頭部を守るのは鉄のメット。盾もマントも着けてはおらず、ベルナルドを襲った騎士が着けていたような紋章さえどこにも無い。


 それが意味するのは、男が父親を襲った騎士では無いということ。だが、オーグはそれを安堵すると共にそれ以上の焦燥感を覚える。


 それらの装備を身に纏う男の肉体はあの騎士達にも決して劣っておらず、幼い少女の前に立ち塞がるその様子からは凄まじい威圧感が放たれている。ガーネットの前にいる男は、紛うことなき自分達の脅威だ。

 ドナはオーグと同様に男の姿を確認し、眉をひそめた。


「……荒っぽいことをしよる。そこまでして獣人を排除したいか」


「婆ちゃん。あれって一体……」


「山賊、じゃろうな。おおよそ、人手を確保するために金を渡したんじゃろう。……確実にお主らを捕らえるために、の」


 ドナの言葉に、思わず顔が強張る。

 身を隠した先にも奴らの追っ手が迫って来ていることに――否、そんな手を使ってまで自分達を追い詰めようという奴らの信念に。


 キリリと胸を締め付けるような緊迫感と額を伝う冷や汗を、オーグは無視することはできなかった。


「じゃ、じゃあ、ガーネットは一体何してるんだよ? 相手がそんなに危ない奴なら、早く逃げないと――」


「時間を稼いでおるんじゃろう、お主らが逃げるための時間を。やれやれ、本当に賢い子じゃ。誰に似たのやら。……オーグや」


「――えっ」


「ついて来な」


 呆れたように深い溜め息を吐き、ドナはオーグの手首を掴む。

 細く長い腕や指に反して思いのほかその力は強く、簡単には振りほどけない。

 唐突な事に呆気に取られているオーグを尻目に、ドナはオーグの手首を引っ張りながら家の奥へと足を進め、裏口の前で立ち止まった。


「ここから外に出られる。お主らはここから逃げるといい。ただし、川の流域に近付いてはならん。あの辺りも捜索の手が回ってるはずじゃからの。ああそうじゃ、なんじゃったら道案内を付けてもいい。この村の者なら安全な場所も幾つか知っとる。とにかく、できるだけ早くここから立ち去るのじゃ」


 反論など受け付けないとばかりに、矢継ぎ早にドナは言葉を紡ぐ。決して表には出さないが、その声色からはオーグ同様焦りが感じられる。

 先程までの落ち着きが嘘のようで、それはオーグの緊迫感をより一層加速させた。


「ちょっと待ってくれよ、婆ちゃん! そんな事急に言われても――」


「オーグ」


 開かれた扉を前にして逆にドナの腕を掴み返すオーグ。だが、その勢いはベルナルドに首根っこを掴まれることによって押し止められる。


「俺達が出ていったところで状況は好転しない。それどころか、目的を達成した奴らは村を襲うかもしれない。俺達にできることは村に迷惑をかけないように身を隠すこと。今は、ドナさんに従うべきだ」


「でも――」


「お主の父親の言う通りじゃ。お主らを匿っていたと知れれば、どんな言いがかりで暴れだすか想像もできん。これはお主らを案じての判断ではない、村長としての決断じゃ。早う、ここから去れ」


 確かに、二人の言いたいことはオーグにも理解できる。


 騎士達に雇われているという名目はあれど、相手は略奪行為を繰り返す賊だ。騎士達の元では略奪が正当化されるなんてことはないが、その村が獣人を匿っていたとなれば話は別だ。


 役目を果たしたから見逃せだの何だの、挙げ句村を荒らしたのは獣人のせいだと言われてしまえば、それを否定するだけの材料をオーグは持ち合わせていない。それどころか、発言権さえ与えられないのは目に見えている。


 だが、だからと言って無視できる状況ではないのも明らかだ。

 何せ、自分の行いが原因となってたった今迷惑をかけてしまっている。その上に、事を解決する方法があるにも拘わらず、自分達だけ逃げようなどと虫のいいことを言えるだろうか。


「やめてください! 貴方なんかに教えることは何もありません!」


 ドナの家の外から、ガーネットが声高に叫んだ声が聞こえる。それは、オーグの決断を鈍らせるのには十分だった。


 刹那、オーグはベルナルドと自分、そして村人全てを秤にかける。己と父親の命を差し出して村を救うのか、それとも村への被害を見なかったことにして逃げのびるのか。


 無論、そんなものを選べるわけがない。あくまで利己的に生きるのならば前者を選べばいいのだが、馬鹿が付くほど実直なオーグはそれを許せない。求めるのは、そのどちらもを救う術。


 しかし、そんな無茶が容易に叶うはずがない。故に、オーグはただただその場に立ち尽くす他無かった。


 そんな、時だった。


「きゃあああ!」


 鋭く、ハッキリと、そして痛切に、オーグの耳に届いたその声――否、声にすらなっていない少女の叫びに、オーグは水をかけられたかようにハッと目を開いた。


 そして、考えるのよりも早く足が動き出す。首元を掴むベルナルドの手を払い除け、向かう先は戸口の向こう。裏口を出てすぐに壁伝いに曲折し、もう一度あの男が見える位置まで駆けた。


 そうして見えてきたのは、依然として少女の前に立っている大男の姿。そして――その足元で額から血を流して倒れている、ガーネットの姿。


「――――」


 その後は何も考える必要は無かった。考えるよりも先に足が地を蹴り、思うよりも先に腕が地を殴り、理性を投げ捨ててその牙を向いた・・・・・・・


 その瞬間、オーグは自分達の身の安全も村への迷惑も、何一つ考えていなかった。その四つ足・・・・・で地面を殴った時、その先にある標的以外のものは何も目に入っていなかった。

 考えていたのは、唯一少女の事のみ。避けられる宿命にある自分に笑顔を向けてくれた、宝石のような少女。彼女の事だけを案じ、標的に対して弾丸の如く突進した。


 ――人にあらざる、銀色の獣の様相をその身に宿して。




 ◇




 アレン・ハーヴィは年相応以上の能力を有している。それには両親を失っていることが起因しており、あらゆる事において彼は非凡であり、逸脱している。

 ドナからそんな話を聞かされていた時、オーグの心中にあったものは同情でも尊敬でも無く――親近感だった。


 何故なら、アレン・ハーヴィが周囲と大きく異なる少年であるように、オーグ・ヴィングルートという少年も決して普通の少年ではなかったのだから。


 この世で人語を理解する二つの種族、人族と獣族。

 その両種族に大きく目立った相違点は無い。身体の組織や構造に特徴、そして物事に対する物の見方や思想。それらは種族間で基本的には変わらない。ならば、一体何を境界として明確な線引きをしているのか。


 それは、獣人が信仰する神――ベスティア神が与える恩恵エーラの有無。


 ――恩恵エーラ

 人族の持たざる獣特有の力を、獣族は神々への尊敬と畏怖の念を籠めてそう名付けた。

 恩恵エーラは全ての獣人に授けられ、その肉体をより昇華させる。故に、獣人は人間よりも強固な肉体を持ち、一部の人間から恐れられる要因ともなった。


 また、獣人それぞれが授かる恩恵エーラには個人差がある。獣の強靭な膂力をそのまま手に入れる者もいれば、千里すら見通す視力や無数の匂いを嗅ぎ分ける嗅覚、僅かな鼓膜の振動さえ感じ取る聴力を手に入れる者もいる。

 それこそ、千差万別。この世に存在する獣人の数だけ、それぞれに恩恵エーラは与えられていた。


 しかし、そうした人には無い特異な力を手にする獣人にも、決して叶わない事はあった。たとえ、どれほどそうあろうと願ったとしても、実現せぬ願望があった。


 それは、人として――否、人間・・として生きること。そしてまた、獣として生きること。


 獣族はその恩恵のために、人でもなく、獣でもない、酷く歪な存在として世界に存在していた。


 故に人間からは獣と罵られ、獣からは半端者だと見なされて牙を剥かれる。どちらにくみすることもなく、ただどちらともの敵として在り続けた存在が、獣人と呼ばれた。


 そう、詰まるところ恩恵エーラとは、人間とは一線を画す存在になるための恵みであると同時に、決して人にも獣にも成りきれない呪いでもあるのだった。


 しかし、この少年――オーグ・ヴィングルートの肉体においては、それは当てはまらなかった。


 彼に与えられた恩恵エーラは――完全なる獣化。

 本来半端者である証明のはずの恩恵エーラは、彼の場合完全なる獣へと変化するための真の意味での恩恵へと姿を変えていた。


 故に、アレン・ハーヴィを特別・・な存在であるとするならば、オーグ・ヴィングルートはそれ以上に特異・・な存在であると言えた。




 ◇




 ――亜獣。


 人間、獣人の他に、この世界にはそう呼ばれる生き物が存在する。

 それは人語を理解せず、一般的な獣と同様の身体構造を持ち、それに加えて獣が本来持たない特異な器官を持つ。また、亜獣に生殖機能は無く、地より出でて人を喰らう。


 曰く、それは増えすぎた人間を、なり損ないの獣人を、それらの命を刈り取る神々の裁きである。


 生存することを目的とせず、ただ人の命を刈り取るためだけに生を宿すその在り方は、多くの人間の恐れを生んだ。


 一方で、獣の神ベスティアを崇める獣人達は、亜獣を人智を得られなかった獣族のなり損ないと看做すこともあれば、獣族の本来の姿を持つものであると敬うこともあった。


 獣族の恩恵エーラと亜獣特有の器官、それらはその在り方が似通っている。

 故に、人々は獣族と亜獣の存在を結び付け、『ベスティア神の怒りベル・ル・ハッラ』以後において獣人への恐怖心をより強固なものにした。


 ――そして今、一体の亜獣オーグがウルワ村に姿を現した。


 象っているのは、狼。

 背丈は以前と変わらずそう大きくはないが、その口元から溢れているのは男の直槍よりも鋭い牙、その脚先に備えられている凶悪な鋭爪。全身は白銀の体毛で覆われ、同様に銀色の双眸が内に秘めたる残虐性を覗かせる。


 しかし何よりも特異であるのは、その双眸の上部に存在する、もう一つの瞳。その金色の瞳に宿るのは、怒りか殺意か、はたまた飢餓から生まれる獲物を見つけた喜びか。


 少なくともその眼にはもう、少年の変わり果てた姿を呆然と見ているガーネットの姿は映ってはいなかった。


「ば、馬鹿なっ!? なんでこんな場所に亜獣がいるんだよっ!?」


 思わず、声を荒らげた男。静まりかえっていた村の中でその声はやけに通り、妙なほどにハッキリと亜獣の耳まで届いた。


 その声に応じて、亜獣は二つある獲物の内の男の方に狙いをつけた。


 刹那、亜獣の足元の地面が弾け飛ぶ。標的となった男からすると、視界の中で亜獣が突如自分の目の前に現れたように見えただろう。それほどに亜獣の動きは速く、鋭い。


「――んなっ!? ちっ、くしょう!」


 亜獣の牙が男の喉元に触れる、という瞬間、すんでのところで男は亜獣の口に直槍を割り込ませることで何とか牙での一撃を防ぐ。

 だが、牙を抑えられたところでその勢いまで抑えることはできず、尻餅を突き仰向けになる形で男は亜獣に組み伏せられた。


 亜獣の膂力は人間のそれと比べ物にならない。男が獣人であり、かつ通常の体位ならいざ知らず、組み伏せられている状態では柄を咬ませるために伸ばした腕を曲げることさえ叶わない。このままでは押しきられて喉を食い破られるのは目に見えていた。


 そこで、男は行動に出た。渾身の力で男に覆い被さる亜獣をどうにか横に逸らし、何とかその場で立ち上がる。そして男は、その傍らで呆然としているガーネットに手を伸ばし――、


「おらぁっ! こっちに来やがれっ!」


 自身の盾にするようにガーネットを亜獣の前に立たせた。


 人間と獣人を殺す。ただそれだけを天命として生きる亜獣にも、唯一法則というものが存在する。

 それは、最も自分に近い者から襲っていく、というもの。万物が等しい亜獣の価値観の中で、それこそが確固たる優先順位を決める唯一の法則だった。


「いいか? 絶対に動くんじゃねぇぞ? 大人しく、お前は亜獣に喰われるんだ、いいな?」


「あ、うあ? ……え?」


「コイツは俺一人じゃあ手に余る。俺はさっさとずらかる・・・・が、お前はコイツを引き付けとけ。どうしても生きたきゃ他に身代わりを探すんだな。もっとも、もうこの村は終わりだろうがな。精々騎士様が来てくれることを祈ってるこった」


 状況が把握できずに混乱するガーネット。そんなガーネットを尻目に、男は決してガーネットと亜獣の間に入らないようにこの村から立ち去っていく。戸惑うガーネットに、僅かな慈悲すら与えず。


 そうして男が去った後、その場にあるのは立ち竦むガーネットとそれを睨む亜獣の姿。そこに、新たに二つの人影が現れる。ドナとベルナルドだ。


「オーグ! どこへ行くん――っ!?」


 ベルナルドはガーネットの前に佇む白銀の亜獣を見て、言葉を失った。何故なら、ベルナルドはよく知っていたから。目前に居るその亜獣も、目前に広がるその光景も。


「……ベルナルドや、もしやあれ・・は」


「……はい、そうです。あれは――」


「――オーグ、さん」


 戸惑いと恐怖を孕んだガーネットの呼び掛けにオーグはようやく目を覚ました。


 いつもと異なる、這いつくばっているような低い視界。眼前に居るガーネットの怯えた表情。そして、自分の意識が飛んでいる間の、記憶の空白。

 それら全てを感じ取り、オーグは悟った。


 ――ああ、またやってしまった、と。


 視線が痛い。

 心が痛い。

 恐ろしくて、おぞましくて、とてもじゃないがガーネットの目を見ることができない。

 きっとそれは、今までオーグを否定してきた誰もがしていた、冷たい目をしているから。


 だから、オーグは逃げ出した。

 ガーネットの目を見ず、ベルナルドの顔も見ず、自分の心にすら目を背けて、獣の四つ足で村の外へと逃げ出していった。


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