「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
泉由良
1 あまね
○
「これってどういう意味なのかなー」
と、モナミがLPのジャケットを裏返しながら呟いた。
次の瞬間、その曲が大音量で流れ出す。この部屋の音響装置は立体的で、古風なレコードの音もきめ細やかで素晴らしい。
「これ?」
「この、曲の題名」
「書いてないの?」
と私。
「書いてないよ」
とモナミ。
「解説、書いてないの? その、ジャケットの裏側とかに」
モナミは隅々まで確かめてから、もう一度、
「書いてない」
と、云った。
「小さい頃はね、この曲、あんまり好きじゃなかった。第一楽章のメロディが……なんだか、ブルジョワジィな感じがする。だから高慢だと思ってた」
「普通小さな子が思う? そんなこと」
私はわらった。
「でもね、今は好きになったの」
云ってからモナミはうっとりと繰り返した。
「どういう意味の言葉なんだろうー」
「たぶんね、独逸語なんじゃないかな」
「独逸語?」
モナミの声に僅かに否定的なトーンが交じる。たぶん、彼女にとっては、何処の国の言葉というよりも、夜に落ちてくる意味の分からない呪文である方が良いのだ、と私は思った。
モナミはステレオの前から、テーブルの方に戻ってくる。紺色の室内履きを鬱陶しそうに引き摺りながら。テーブルの上には、ティーポットとカップ、そして数種類のお菓子が並んでいる。ヌガー入りのチョコレイトや、ドレンチェリィがのったクッキーやら。
「あまね、紅茶のお代わりは?」
モナミがポットを持ち上げて微笑んだ。
「もういいわ、ありがとう」
私が右手を立ててティーカップを覆いながら云うと、モナミは一瞬うつろな眼になる。それから有無を云わせない調子で云った。
「飲みなさい!」
モナミの眼は私を通り越して、何処かをじっと睨んでいる。私はやわらかい微笑みを浮かべて答え直した。
「……ええ、なら頂くわね」
彼女の質問や欲求には、常に素早く応じるようにと、私は先生に云われている。とは云っても、モナミは我が儘な性質ではないし、滅多に無理を云うことも無いので、そう大変なことではないのだ。
いつも細心の注意を払って淹れるモナミの紅茶はとても美味しい。私は、その日三杯めの紅茶に口を付ける。ポットを傾けたモナミが、ほとほとと自分のカップにも紅茶を注いだ。七杯め、と私は盗み見てカウントする。英国人は日に十二杯でも飲むそうだけれど、いちどきに七杯も飲むのは少し異常だ。ままごと道具のように本当に小さなティーセットは、彼女の紅茶の飲み過ぎを防止する為に、昨日から試験的に導入した。りんごの模様が付いている、愛らしいものだ。
「……あたしの紅茶にも、お砂糖を入れてくれる?」
一変して控えめな口調で訊ねるモナミは、躯の小さいことも手伝って、とてももうすぐ二十歳には見えない。
「いいわよ、いくつ?」
「ひとつだけ、」
「ひとつね」
角砂糖をカップに落として、銀色の匙でかき混ぜてやると、モナミは微笑んで、
「ありがとう、あまね」
と、はにかむように云った。
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