昨日の明日

水澤シン

序文

 誰が名付けたか、その世界は『第三優地』と呼ばれていた。

 優地の中のとある村で、一人の少年は虐げられ、孤独に日々を過ごしていた。

 そんなある日、彼は噂を聞いた。言葉を教えて貰えなかった少年は、人々の話すそれを聞いて覚えていった。その中で聞いた噂。

 この村には、『パンドラの箱』なるものがあるのだと。それは安易に触れていいものではないのだと。――否。誰でもが触れられるものではない、ということだった。

――もしも。

 もしもそれを、触れたらどうなるのだろう。ヒトとして扱われず、日々あらゆる苦難に耐えるだけの自分が、誰もが触れることすら出来ないものに触れることが出来てしまえば。

 もしかしたら、ようやく一人のヒトとして認められるかも知れない。

 それを『言葉』として理解することは無かったが、少年は心で感じていた。

 そうだ。閉じ込められているわけでは無い。鎖で繋がれているわけでもない。『外』での生き方を知らないだけで、いつでも自由に飛び出せる。

 思い立ったが吉日とばかり、少年はよろめく足を奮い立たせた。

 村の外れの洞窟の中。その奥の奥。

 何度も転び、暗く狭い洞窟の壁や天井に頭や身体を打ち付け、ようやく辿り着いたその場所に、薄ぼんやりと輝く宝箱を見つけた。

 そっと手を伸ばしてみると、その箱はいとも簡単に金属の冷たさを少年の手に伝えた。

 何だ、これのことじゃなかったのか。

 そう思い、何気なく鍵もかかっていないその箱の蓋を持ち上げる。

 途端に、目の前が真っ暗になった。

 何が起こったのか分からず、ただその場で手をじたばたと動かしもがく。しばらくそうしていて、やがて開けた視界に映ったのは、見慣れた顔だった。物心もつかない頃から自分を弑虐してきた大人のうちの一人。

『我ら悪魔を開放してくれてありがとう、ヒトの子』

 少ししゃがれた声で言ったは、いつの間にか尻餅をついていた少年の前から忽然と姿を消した。まるで初めからそこには何も居なかったかのように。

 アクマ、と言った。アクマとは何だろう。ただを見て分かったのは、は決して外へ出してはいけないモノだったということ。禍々しい異形のモノだということ。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 誰にも届かない声で繰り返す。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 音として出すことの出来ない言葉を、心でだけ繰り返す。

 すがるように、少年は箱にもう一度手を伸ばした。覗き込んだその箱の底に在ったのは、確かに『希望』だと、少年も気付く。

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、少年は『希望』を抱え上げた。

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