蝉の夢

和史

蝉の夢

 静寂。

 静寂とはこんなにも音のない世界なのか、と少年は白い息を吐きながら思った。新雪を踏んで進む音と自分の呼吸。少年が歩いてきたわだちは暗がりに溶けていった。


 時折、灰雪はいゆきが降る。


 遥か彼方にはポツリポツリと町のあかりらしきものが見えた。

 もうどれぐらいこうやって歩いているかわからない。今歩き始めたばかりのようでもあるし、もう何十年も歩いているかの様でもあった。 


 雪原には思い出したかのような間隔で針葉樹がえている以外、何も遮るものはなかった。ただ、遠くに家の灯りらしきものだけは見え続けている。少年は灯りを目指して歩いているが、町は一向に大きく見えてはこなかった。


 また一歩、踏み出す。


 踏み出した足は素足で真っ赤に腫れていた。闇夜の雪明りで見るそれは、はたしてしゅなのかなのか少年には判別できなかった。だが一つ、確かな事はもうこの見えている足には、一切の感覚が無いということだった。


 それでも、もう一歩。


 少年は体に命令する。しかし彼の意志とは反対にそれは動きを止めてしまった。

 新雪に埋まる足元に目を落とし、ぼんやりとどこを見るともなく。

 



 もう。


 動かない。





 少年はその場に立ち尽くし、腹から深く白い息を一つ吐いた。


 溜息とも呼吸とも違う、安堵に近い。例えるならなんだろう、痺れたままの頭で少年は考えた。遠い記憶の中、それは頭の奥底で香りをともなって思い出された。暖かでやさしく、ふわふわとしてすぐに溶けてしまう。


 甘い綿飴のようだ、と。


 それは少年が幸せだった時の記憶。少年はもう一度、あかぎれの手の中へ白い息を吹きかけた。しかしおぼろな綿はすぐにかき消されてしまう。





 あぁ。





 もう、疲れた。


 もう、動けないのだ。


 このまま膝をつき、白い綿雪の上に倒れこみたい衝動に駆られた。しかし、少年の中の何かがそれを許してはくれなかった。


 だが、もう、動けない。


 





 少しの間、少年は自分自身に重い瞼を閉じることを許した。

 その間、幾人もの人が少年の近くを音も無く通り過ぎた。少年は揺ら揺らと動くカンテラの灯りでそれを感じ、意識で追った。何故誰も助けてはくれないのだろう、何故誰も自分を見ようとはしてくれないのだろう。


 無数の灯りは少年に気づく事無く遠ざかって行った。


 ふと、雪虫が一匹、少年の鼻先を掠め飛んだ。それはどこからか数を増し、雪の様に少年の周りに舞い始めた。呼吸と共に口の中に入ってきた虫を、噛み 潰す。

薄っすらと目を開けたが、重い瞼はすぐに閉じた。


 程なくして、誰かがすぐ隣で傘を差す気配を感じた。それは一瞬のことだったが、傘はとても高い位置から差されており、憔悴しきった少年は顔を上げることすらできなかった。 

   

 やがて傘は消え、代わりに一羽のからすが真っ暗な夜空を横切った。

烏は「鴉々ああ」とくと、彼方の灯りへと吸い込まれるように消えていった。少年は導き引っ張られるかのように、また一歩、足を踏み出していた。

 







 世界の行き止まりと同時に、終わりは突然にやってきた。






 町の灯りだと思っていたものは、白い壁に描かれた絵であった。

 絵の灯りがなぜあんなにも遠くから光って見えたのかはわからない。だが、針葉樹の森を抜け、手に届く距離の光を見たとき、同時に少年は絶望した。


 重い雪に足をとられ、つまづき、転び、それでも坂を下った先には、高い壁があるだけだった。見上げた壁は夜空と同化し、果てしなく続いている。震える手を壁に添わせ、頭を右に向ける。白壁は永遠とどこまでも続いていた。


 左を向くのが怖かった。


 頭を傾け目に入ってきたものは、同じ白い壁が続いているだけでなく、壁は直角に左に曲がっていた。





 ここまで耐えてきたのに。


 ここにくれば、助けがある、それだけを願って歩き続けたのに。





 少年は今自分が歩いてきた方角を振り返った。

 引き返し、逆の方角を目指してもきっとこの高く白い壁があるだけだろう。


 自分はどこにも行けないのだ。


 無駄だったのだ。


 膝は崩れ、もう立っていることすらできない。壁に描かれた灯りに爪を立て、少年は感覚の無くなった手を叩きつけた。


 何度も何度も打ちつけた。


 血がにじんでも止めなかった。この寒く暗い無機質な雪原に独り。


 目を見開き、恐怖と孤独が思考を締め付け、枯れ果てた涙は頬を濡らすことなく、慟哭どうこくしようにも上げる声は声にならなかった。





 刹那せつな



 それは「虚無」が少年に入り込む前の刹那せつなだった。



 かすかに。壁から声がしたのを少年は聞き逃さなかった。

 我に返った少年はわずかな振動を逃がさまいと、壁に耳をあてもう一度声を聴かせてくれと願った。それは壁からしみ出すように再び聞こえてきた。


 かすかに、かすかに。


 呼びかけるような声は暖かみを帯び、近づけば近づくほど頬と指先に熱を感じた。体が埋もれそうになりながらも、少年は這った。


 もう動ける力は残っていないはずなのに。






 角を曲がり針葉樹の枝をかき分け、無我夢中で声を追った。

 涙が頬を伝い、泣きじゃくりながら少年は壁を伝い歩き、大きくなる音を目指した。


 枝で傷だらけになりながらも、ついに少年は雪に埋もれた大きな鉄の扉を見つけた。扉はこの静寂を破るように、声と共鳴し熱を発している。









 そして――



 少年は扉に手を伸ばした。

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