第一章

 あれから四年。

 俺は無事に大学を卒業し、既に就職していた。いわゆる社会人というやつだ。

 ハルヒによる補習授業のおかげで、俺はなんとか大学に進学する学力を身につけ、苦労の末に無事卒業することが出来た。

 ハルヒは俺とは別の大学に入学し、首席に近い成績で卒業。さらに世界を盛り上げるための活動をするとやらで、大学院に進んでいる。

 世界を盛り上げるなんていう発言は以前と変わらないハルヒらしさだ。ハルヒは自分が不幸を感じているときは周りの人間を否応なく道連れにし、自分が幸福を感じているときはそれを無条件で周囲に拡散させていく、そういう奴だ。

 そして、俺はそういうハルヒにますます惹かれていたのだった。


 長門と朝比奈さんとは、高校卒業以来会っていない。

 卒業式の後、部室で盛大かつ壮絶たるSOS団解散式兼お別れパーティーが開かれ、朝比奈さん、鶴屋さんを含む六人でバカ騒ぎをした。

 その後いつものルートで最後となる集団下校をし、長門とは駅前で別れた。

 肌寒さの残る、うす曇りの夕暮れ。

「あなたがいてよかった」

 別れ際、長門が俺にだけ聞こえる声で言った。

 無表情には違いなかったが、長門が感情を押し殺している風に感じられた。

 長門もSOS団との別れを惜しんでいるのだろう。

 長門、情報統合思念体に戻っても幸せに暮らしてくれよ。お前は情報統合思念対の中でも先駆者だ。なにしろお前はハルヒに散々振り回されたおかげで、元々の機能にはない感情ってものを獲得したんだからな。仲間に自慢出来るぞきっと。

「さようなら」

「さよなら、長門。元気でな」

 別れは辛いが、これは仕方がない。結局のところ長門を含む情報統合思念体は切望していた自律進化のきっかけを手に入れ、朝比奈さんたち未来人は約束された未来を手に入れ、古泉の機関は神人に悩まされることのない安息の日々を手にいれたのだ。

 そして長門は情報統合思念体に戻り、朝比奈さんは未来に戻り、古泉は本来の生活に戻る。つまりは全てハッピーエンドだ。これで別れを惜しんでいてはバチが当たる。

 長門の後姿を見送りながら俺はそんなことを考えていた。


 卒業式からしばらく経った後、朝比奈さんから手紙が届いた。

『会ってお別れするのは辛いので、お手紙を書くことにしました。

 キョン君には本当にお世話になりました。ありがとうございました。

 もっと色々書きたいことがありましたが、書くともっと辛くなりそうなので。

 これからもお元気で。涼宮さんとお幸せに。

 朝比奈みくる』

 いつものファンシーなものではない、やけに体裁ていさいの整った封筒と便箋が、本当の別れを実感させた。

 お世話になりましたなんてとんでもない。俺こそ朝比奈さんには本当にお世話になりました。

 高校生活の日々、朝比奈さんは俺にどれだけ心の安らぎを与えてくださったことか。

 でもいずれまた再会する日が来ますよ。未来の朝比奈さんはこの後何度か過去の俺に会うことになるんです。既定事項ですから。

 今の俺がこれから先、朝比奈さんに会うことが出来るのかどうかは解らないが。

 以前から覚悟していたものの、かぐや姫の物語がいざ現実になると、やはり寂しいものだった。

 朝比奈さんに直接お別れの言葉が言えなかったのを口惜くやしく思う。

 朝比奈さん、どうか未来の世界でお幸せに。未来人組織での立場向上だけでなく、この世界では出来なかった恋愛もがんばってください。

 あなたなら自らがんばらずとも、男共が黙っていないでしょうけどね。未来でもきっと。


 ちなみに、古泉とは高校卒業後も友人づきあいがある。

 俺たち二人は、常人のそれをはるかに上回る過酷な高校生活を共に乗り切った、いわば戦友のようなものだ。

 以前古泉が言った、対等な友人同士として昔話を笑って話せる日は今ここに実現している。

 古泉の言葉づかいや態度がそれまでと変わったことについて、ハルヒも俺も最初は驚いたが、正直なところすぐに慣れた。

 二人とも、何の含みもなく屈託なく笑う古泉に以前よりはるかに好感を抱いていた。

 機関は古泉の卒業と同時に解散されていた。もはや機関がすべきことは何も残されていなかったからな。



 俺が就職して三ヶ月と少しが経った頃、七夕の日に俺とハルヒは結婚した。

「どうせこのままずっと一緒にいるんだから、もう結婚しちゃっていいじゃない。こういうことは早いほうがいいのよ」

 ハルヒがそう提案し、俺もそれに同意したからだ。プロポーズくらい俺にやらせて欲しかったな。まあ似たようなセリフはあの閉鎖空間の中で既に言ってあったんだが。

 就職して間もなかった俺は、そのため貯金などほとんどなく、ハルヒも学費を出してもらっている身分で大層な披露宴など気が引けるという理由で――そういう控え目な考え方をするハルヒは高校生の頃からは到底考えられないのだが――、披露宴はお互いの親戚だけを集めた食事会ということにした。

 無論、古泉と鶴屋さんを交えた四人のパーティーは盛大にやったけどな。

 長門と朝比奈さんには当然ながらこちらから連絡をつけることは出来なかった。二人とも俺たちが結婚することを知らなかったのか、あるいは知っていたとしても参加出来ない事情があったのだろう。

 この頃にもなると、ハルヒはすっかり一般的な性格と生活を獲得していた。

 エキセントリックな振る舞いは多少残っていたが、それはあくまで一般的という範疇はんちゅうに収まるものだった。

 古泉が言ったとおり、ハルヒは二度目の情報爆発の際に、以前の能力を完全に失ったようだった。情報爆発以降も時々不機嫌になることはあったが、古泉が断言したとおり閉鎖空間を生み出すことはなかった。古泉の能力が消えても世界が破滅していないのがなによりの証拠だ。

 こうして平凡でありながらも、幸せな日々は続いた。

 俺の社会人生活は、慣れない仕事に苦戦しながらも、まずまずの滑り出しだったと言える。ハルヒの学生生活は言うまでもなく極めて順調だった。

 このまま平穏無事に暮らせたなら、俺はどれだけ心安らかだっただろう。

 だが、何者かがそれを許してはくれなかった。



 ハルヒは結婚の二ヶ月後、突然学校で倒れた。

 仕事場に連絡を貰った俺はすぐさま病院に直行した。入院先は、例の機関御用達ごようたしの総合病院。どこからか情報を入手した古泉が、昔のよしみで手配してくれたのだ。

「お昼ご飯食べてるときになんだか急に意識が遠のいちゃって。全くみっともない話だわ」

 ハルヒがそう言うのを聞いて、俺は安心した。

「全くだ。お前らしくもないな。元気だけが取り柄、ってわけでもないが、お前が病気で倒れるなんて見たことねーからな」

 ベッドの上のハルヒは、見るからにいつものハルヒそのままだった。軽い貧血か何かで倒れたんだろう、という程度にしか思えなかった。

 症状に目立った問題点は見当たらないが検査のため今日は様子を見て入院させる、と言う医師の言葉にも、不自然さは感じるにせよ俺はちっとも心配などしていなかった。

 だから、ハルヒが翌日再び病室で意識を失ったと聞いたとき、ようやく俺はこれがただ事ではないということに気づかされた。

「昨日から今朝にかけて一通りの検査をしてみましたが、結論から申し上げますと全く原因が解りません。あらゆる検査の結果は全て、奥様は完全な健康体であることを示しています」

 何しろ元機関お抱えの病院だ。最高の医師たちが揃っているに違いない。そして彼らが原因不明と言うならば、それは誰が見ても間違いなく原因不明なのだ。

 身体上の数字は至って正常であり、ハルヒは普段と何一つ変わらない様子だった。一旦意識を失うとしばらく目を覚まさなくなる、ということを除けば。

 俺は会社に事情を説明し、長期休暇の許可を得てずっとハルヒに付き添った。

 以前俺が階段から転げ落ち、意識を失ったときと同じ個室。あのときハルヒは今の俺と同じような気持ちで俺のそばにいてくれたんだろうな。


 医師達がサジを投げるまでにはそう長い時間は必要とされなかった。

 ハルヒは意識を回復させては、眠りにつくということを数日間繰り返した。

 そして起きている時間と寝ている時間の割合は次第に逆転し、ついにはほとんどの時間ハルヒは意識を失い続け、起きている間ですら意識が朦朧もうろうとした状態になった。

 焦燥しょうそうしきった俺は藁にもすがる思いで、ハルヒの意識があるわずかな時間に、自分がジョン・スミスであることを告白した。

 こうすればハルヒの中で何かが起こり、突然元気になってくれやしないか、と思ったのだ。

 俺はジョン・スミスのことをあの閉鎖空間の中でもそれ以降も、一度も口にしたことはなかった。

 もちろん、ハルヒにSOS団メンバーの正体を明かすことを避けたかったからであるが、理由はそれだけではない。

 俺を愛してくれるハルヒには、ジョン・スミスの存在は必要ないと思っていた。それが俺とハルヒの関係に何らかの好ましくない変化を与えるかもしれないとも考えていた。

 だが俺は意を決し、その事実をハルヒに打ち明けた。

 そしてその決意もむなしく、結論から言えばそれは何の効果もなかった。

「そう……あんたがあのジョンだったなんてね。高校一年のとき、あなたと以前どこかで会ったことがあると感じたのは間違いじゃなかったのね。……だとしたら、あのとき背負ってたのはみくるちゃん?」

 あいかわらず勘がいいな、お前は。

「そう思えばあたしの人生って結構不思議なものだったのね……」

 お前は知らないだろうけど、お前の人生は普通とは比べ物にならないくらい不思議なことで満ち溢れていたんだぞ。

「色々あったわね……幸せだったわ。あんたのおかげよ」

 お願いだから、そんな今生の別れのようなことを言ってくれるな、ハルヒ。

 ハルヒはそう言ってしばらく後、また眠りについた。俺も数日前からの徹夜の付き添いの疲れからか、いつの間にか眠っていた。


 ハルヒはその一時間後、そのまま目を覚ますこともなく、俺に気づかれることもなく、唐突に、ひっそりとこの世を去った。


 自分自身がわけの解らん奴なら、死ぬときもわけの解らん死に方をするのか、ハルヒよ。

 俺はハルヒが死んだという事実にわき目もふらずに泣いていた。

 お前は高校一年のときの七夕を忘れちまったのか?

 あのときお前は世界が自分を中心に回るように、地球が逆回転するようにって短冊に書いただろうが。ベガとアルタイルに願いが届くまであと何年かかると思ってんだ。

 俺はこの先、お前を取り巻く状況がどう変わるのかを楽しみにしてたんだぞ。お前がどれだけ世界を盛り上げ、そしてそれに俺がどう巻き込まれるかを。

 そしてお前はこう言うんだ。

「ほらねキョン、あたしの言ったとおりでしょ!」

 俺がいつも見ていた、そしてこれから先もずっと見られると思っていた、あの赤道直下の笑顔で。

 ――一体、どこからこんなに涙が溢れてくるんだ。

 あの閉鎖空間でのキスのときとは違った意味で、世界は変わってしまった。いや世界は終わってしまったのだ。

 それから俺は数日間を泣き通した。



 ハルヒの葬儀には、俺とハルヒの親族、俺の仕事の同僚たち、ハルヒの学校の関係者、学生時代の友人、そして古泉と鶴屋さんが参列してくれた。長門と朝比奈さんは、やはり姿を見せなかった。

 参列してくれた皆が、心底俺に同情してくれた。

 だが、俺はこの頃には既に涙も枯れ果てていて、ただ呆然とまるで他人事のような心境で葬儀を進めていた。これが現実だとは、俺には到底信じられなかった。

 ほんの数日前まで、そこに確かにあった俺とハルヒの日常。

 やけに目覚めのいいハルヒがいつも先に起き、朝食を作ってくれた。

 あいかわらず目覚めの悪い俺を楽しそうに叩き起こしてくれた。

 朝食を食べながら一日の予定を確認しあった。

 一緒に住まいを出て、駅で別れ、夕方に駅で待ち合わせた。

 一緒に食材を買い、一緒に夕食を作った。

 それらを囲みつつ一日の出来事と昔話とこれからの話をした。

 そこにはいつも、ハルヒの笑顔があった。

 そしてそれは突然俺の前から消え失せてしまった。

 そんなことを一体誰が信じられるものか。



 ハルヒの葬儀からしばらくの間、結婚とともに越してきた住まいで、俺は抜け殻のような状態で日々を過ごした。

 何をする気も起こらなかった。食事すらほとんどらず、ただ起きて、ただ寝るだけのような生活。一体何日間そうしていただろうか。

 そうしてある日、俺は突然を認識した。

 ハルヒが死んだ瞬間に感じた、世界が変わってしまったという感覚が、またしても俺の感情の変化によるものだけではなかったことに。

 ハルヒがいなくなってからずっと、俺の頭の中に奇妙な違和感が存在していることには気づいていた。

 そして、それはハルヒの突然の死による悲しみや喪失感、無力感がそうさせているのだろうと、俺は当然のように思っていた。

 それは違っていた。それだけではなかった。


 俺の頭の中に、突如としてSTC理論とTPDDが備わっていたのだ。


 STC理論。朝比奈さん(大)が以前俺にその存在を教えてくれた時間平面移動の理論。

 TPDD。時間移動をするための、頭の中に無形で存在する装置。

 理屈じゃない。それが俺の頭の中にあることを、俺は実際に感じることが出来た。

 なぜ俺に突然そんなことが起こったのか。理由はすぐに解った。


 ハルヒがそれを望んだからだ。


 ハルヒは、わずかに残こされた最後の力で、俺にこれらの能力を与えてくれていたのだ。

 長門によって世界が改変されたとき、朝比奈さんは言った。STC理論を指して「あなたにもそのうち解ります」と。

 朝比奈さん……つまりはこういうことだったんですか?

 ハルヒが俺に託してくれたこの能力。すぐに使い道は決まった。

 だってそうだろ? 他の選択肢なんてあるもんか。

 今まで散々俺を振り回しておいて、それで満足したらさようならか? それを他の誰が許したとしても、俺は絶対に許さない。

 俺は確信を持って言える。お前のような、あまりにも規格外な人間を愛してしまった俺にとって、お前を忘れることなんて絶対に無理だ。出来るはずがない。

 お前だって、俺がそう考えると思ったから、俺にこの能力を託したんじゃないのか、ハルヒ?

 俺は静かに、そして強く誓った。


 ハルヒが死ぬという事実を何としてでも変えてやる。この俺の手で。


 俺はすぐに計画を練りはじめた。

 これから俺はTPDDを利用し過去に時間遡行して、ハルヒの死の原因を究明し、それを防ぐために歴史を改変することになる。

 時間は一刻も無駄にはしたくない。俺は早速試しにとばかりに、時間を一分ほど遡行しようと考えた。そのときそれは起こった。

 目の前に突然もう一人の俺が現れたのだ。

 つまり一分後の時間平面から時間を一分間逆行した俺だ。実際に試すまでもなく、TPDDの機能は実証されたのだ。

 一分後の俺は、俺に軽く挨拶し、一分後の世界に戻ると言って目の前から唐突に消えた。

 そして俺は一分前の世界への逆行を試みた。体全体がグラっと揺れる感覚の後、それは実にあっけなく成功した。俺は一分前の俺に軽く手を上げ、元の時間平面に戻った。

 以前感じためまいや吐き気は全くなかった。これは時間移動距離の差によるものなのか。あるいはあのときの不快感は、時間移動の方法を隠すために俺に施された処置によるもので、つまり目隠しのような状態で車に乗せられれば誰だって酔いやすい、ということなのだろうか。あるいは単純に、車を運転する人より助手席に座る人のほうが酔いやすい、ということなのかもしれない。

 今この時間平面上で、STC理論を知りTPDDを得た人類は間違いなく俺だけだ。俺の知る限りでは、今の時代にはSTC理論の基礎すら出来ていない。それを作るであろうあの眼鏡の少年はまだ高校生くらいだろうからな。

 つまり、おそらくは人類史上で最初となる時間遡行そこうが今まさにおこなわれたのである。


 やれやれ、まさか俺が輝ける人類初のタイムトラベラーになるとはな。


 同時に、既定事項を満たすことの重要性に思い至った。朝比奈さんが必要以上に既定事項にこだわっていた理由を、身を持って理解した。俺がたかだか一分間の時間遡行をおこたってしまうだけで、その瞬間に歴史は変わってしまうのだ。

 俺は家を出て人気のない路地に移動し、今度は過去一年間の時間遡行を試みた。

 実に簡単だ。そう念じるだけでそれはおそらく可能だろう。

 体が揺れる感覚がきた。移動は完了した。腕時計を見る。そしてそれが何の意味もないことに気づいた。時間移動をしたからといって時計の針が正しい時間に合わせて勝手に動いてくれるはずもない。それ以前の問題として、俺の腕時計は三本の針のみで構成されたシンプルなアナログ時計であり日付は表示されない。

 俺は近くのコンビニエンスストアに足を運び、新聞の日付を見ることにした。過去の七夕でも使った手だ。

 そして、俺は意外な結果を知ることになった。新聞の上部に記されていた日付は俺の予想とは違っていた。およそ一ヶ月までしか時間をさかのぼることが出来ていなかったのだ。

 コンビニエンスストア近くの路地に入り何度か試してみた。過去一年間を三回、半年間を二回、三ヶ月間を一回、未来については少し気が引けたが、一回だけ一年間の移動を試みた。

 結果は全て同じだった。過去であろうが未来であろうが、俺が移動可能なのは前後一ヶ月間だけだった。

 ならば、一ヶ月前の過去からさらに一ヶ月前にさかのぼればどうだ? それなら二ヶ月前に行けるはずだ。

 だが結果は同じだった。やはり元の時間から一ヶ月以上移動することは出来なかった。

 これはどういうことだ?

 俺は住まいに戻り、その理由を考えてみた。

 朝比奈さんは、少なくとも一ヶ月先から来た未来人ではなかった。実際に俺と朝比奈さんは、三年間の時間遡行そこうをしたことがある。

 では俺が一ヶ月以上の時間移動が出来ないのはなぜだ? それが俺の能力の限界なのか?

 たかが一ヶ月間の時間遡行そこうで、ハルヒを助けることが出来るのか?

 あるいはそれは可能かもしれないが、その確証は一体どこにあるというのだ。

 いくら考えても、有効な解答が導き出されるはずもなかった。

 そうやってしばらく頭を抱えていた俺の眼前に、突如として信じられない光景が映し出された。

 何の予兆もなく、光や音を発することもなく、その人物は突然俺の目の前に姿を現した。


 朝比奈さん(大)だった。



「随分お久しぶりになりますね、キョン君」

 俺は呆然として、しばらくそのアンバランスにしてかつ完璧なプロポーションを眺めていた。

 我に返った俺はとりあえずの疑問を投げかけた。

「っていうか、いきなり俺の目の前に現れたりなんかして、大丈夫なんですか?」

 朝比奈さんは静かに微笑み、

「問題ありません。もうあなたの頭の中にはSTC理論もTPDDもあるんだもの」

 なるほど、まさしくその通りだった。いずれ朝比奈さんにそれらのテクニカルタームについて解説して欲しいと思っていたが、まさかそれが突然俺の頭の中にひょっこり現れるなんて思ってもみなかったからな。

 最初に俺が聞かなければならないのは、次の一点だった。

「朝比奈さんにこんなことを訊く失礼は承知の上ですが。朝比奈さん、あなたは俺の敵ですか? 味方ですか?」

 俺がこれからやろうとしていることは、明らかに歴史の改変だ。それがもし既定事項でないのだとすれば、未来人にとって俺は、きっと好ましくない存在になるだろう。

 だが、そんなことは構いやしない。今の俺にはTPDDがある。未来を知らないということ以外は、未来人とは対等の条件だ。

 そんなことを考えていた俺に、朝比奈さんは変わらない笑顔でこう言った。

「わたしはキョン君を助けるためにやってきました」

 もともと俺は朝比奈さん(大)に対しては少しばかり懐疑かいぎ的な立場だ。だが今の言葉に嘘は全く感じられなかった。そもそも何かを隠すことはあっても平気で嘘を言えるような人ではないんだ、この人は。

「解りました。朝比奈さん、俺はあなたを信じます」

 となれば、次の質問はこれだ。

「教えてください。ハルヒの死は既定事項なんですか?」

「説明が難しいんですが」

 と前置きをして朝比奈さんは続けた。

「涼宮さんが死ぬことは既定事項ではありません。ですが今こうやってわたしたちが話していることもまた既定事項であると言えます」

 正直なところ、何を言っているのか全然解りません、朝比奈さん。

「少し込み入った話になるんですが。未来からの通常の方法による観測では、涼宮さんが死ぬという歴史は存在しません。わたしたちの知る既定事項では、あなたと涼宮さんは生涯を共に暮らし、二人とも天寿をまっとうします」

 その話は、今の俺にとって何よりも心強いです。でも未来のことを話すのは禁則事項ではないのですか?

「あなたはその気になればいつでも自分で未来を見に行くことが出来ます。あなたにはもはや禁則事項と呼べるものはほとんど残されていません。既定事項を満たすためにお話出来ないことはありますが」

 なるほど、確かにそうだ。

「ですが、今のあなたはその未来に辿り着くことは出来ません。時間移動距離の問題ではなくです。この時空間から未来に行ったとしても、そこには涼宮さんがいない未来が存在するだけです。そして涼宮さんが死ぬという過去を観測出来ないわたしたち未来人は、本来なら今のあなたに会うのは絶対に不可能なことなんです」

「つまり、それは一体どういうことですか?」

「簡単に言えば、今この時空間は未来から閉ざされています。例えば歴史が上書きされた場合、未来からはその結果しか観測出来ません。そして涼宮さんが死ぬことは既定事項ではない。つまりこの時空間は上書きされる予定であり、本来であればわたしはこの時空間には決してたどり着けないんです」

 俺の頭上で回転するクエスチョンマークが朝比奈さんには見えたようで、

「思い出して、キョン君。長門さんが世界を改変したときのことを。あのとき、改変された世界にわたしがおもむいて当時から三年前の七夕……いいえ、長門さんさえいればどこでもよかったのだけれど、そこまであなたを連れて時間遡行そこうすれば、あなたは苦労せずに歴史を再改変させることが出来たはずです。長門さんの脱出プログラムを必要とせずに。でもそれはされなかった。されなかったのではなく出来なかったの。長門さんに改変された世界は、最終的には長門さんの再改変によって上書きされました。つまり未来からでは、上書きされる以前の改変世界には辿り着くことが出来ないの」

「なんとなくですがそれは解りました。では朝比奈さんはどうやってここに来ることが出来たんですか」

「今わたしがこうしてこの時空間に存在しているのは、預言者、言葉を預かる者と書くほうね、その人の力によるものなんです」

 預言者……ですか?

「彼は未来人組織の中でも謎中の謎とされる人なの。いつの時代のどこの人であるかということも解りません。彼はわたしたち一般的な未来人が知る、歴史の上書きされた結果だけではなく、歴史が変わる過程をも知り得る、特異な能力を持つ存在だとされています」

 俺は終わらない夏休みと長門のことを思い出した。

「預言者の話をする前に、あなたについて話す必要があります。少し長い話になりますが。今までのあなたの行動、これは全て既定事項だったんです。例えば、あなたが中学生の涼宮さんを手伝った七夕のこと、あるいはSOS団結成のきっかけを与えたこと」

 それはどちらかと言えば、俺が選んだ行動ではなく、朝比奈さんに与えられた行動だと思うんですが。

「既定事項というものは、そう簡単にくつがえるものではありません。未来人が過去に介入することは実はそれほど稀なことではないんです。だとしたら、あなたは歴史や未来をすごくあやふやなものだと感じるかもしれません。でも実際はそうではないんです。なぜなら未来人の介入も含めて全てあらかじめ定められたこと、つまり既定事項なんです。例えば、幼かった頃のわたしとキョン君が少年を交通事故から守ったときのことを思い出してください。あなたはあれをあたかも他の未来人の干渉から歴史を守るために取った行動だと思ったかもしれません。でもそれは違うんです。わたしとは別の未来人が彼を襲ったのも含めて既定事項なんです」

 にわかには信じがたい話だが、それならいつぞやの敵対未来人組織が既定事項をなぞるだけの行動にクサっていたのには納得がいく。

「わたしたち未来人は、涼宮さんが作った時間断層を発見して以来、その時代周辺の歴史を丹念に調査しました。そして驚くべき事実を発見したの。それは未来に対して重大な意味を持つ事件がこの時代のこの地域に集中していたこと、それらの事件にはわたしたちの時代の未来人が数多く介入していたということ、そして……それらの事件の全ての中心には涼宮さんではなく、キョン君、あなたがいたということ」

「よく解らないんですが……、それは朝比奈さんたちがそう仕向けたんじゃないんですか?」

「いいえ。わたしたちは過去の事実に従って行動するだけです。わたしたちはなぜあなたが未来に関する全ての重要な分岐点に関わっていたのかを徹底的に調べました。その生い立ちから、生涯までを。これは大変な作業だったわ。だって、あなたの生涯とその周辺を調べるためには、あなたが生きたあらゆる時間平面に対して、常に誰かが監視する必要があったから。そのひとりがまだ幼かった頃のわたし。当時のわたしは涼宮さんの監視係であったと同時に、あなたの調査係でもあったの。これは後から知ったことだけどね」

 なるほど、それは大変そうだ。仮に俺の寿命が七十年だとすれば、それを詳細に知るには七十年分とまではいかなくとも、相当の労力を費やさなくてはならないだろう。

「でも、結局はその調査は実を結ばなかった。わたしたちのあらゆる観測・調査によっても、あなたがなぜそのような立場になったのかずっと原因不明のままだったんです。観測上では、あなたは一方的に涼宮さんの起こす騒動に巻き込まれ、紆余曲折うよきょくせつの末に涼宮さんと結婚し、そしてその生涯を平穏に送った、普通の人間です」

 じゃあ、今ハルヒが死んで、こうやって朝比奈さんと話している俺は何なんだ?

「わたしが今こうしてキョン君と話していることは、他の未来人の誰も知らないことです。わたしと預言者だけが知る事実。わたしが預言者から直接、ここに来てキョン君に助言を与えるようにと指令を受け、そしてこの時空間の座標を与えられたの。だからわたしは今ここに来ることが出来ているんです」

 この朝比奈さんも、正体の解らない何者かの指示で操られているのか。俺は今まで朝比奈さん(小)に対する朝比奈さん(大)の態度に釈然としないものを感じていたが、結局は朝比奈さん(大)のほうも同じような立場だったんだな。今度から怒りの矛先はその預言者とやらに向けることにしよう。

「預言者の話は、わたしには信じられないことばかりでした。だってそうでしょう? キョン君が涼宮さんの死と引き換えに、人類初のタイムトラベラーになるなんてこと」

 その意見には俺も全面的に同意します。

「そして、さらに預言者は驚くべきことを言っていました。あなたは誰の制約も受けずに歴史を改変する権利を得た唯一の人物なの。言い換えればあなたは物語の主人公のようなもの。物語の世界が主人公の望まないものになることはあまりないでしょう? 例えば、涼宮さんはあなたの知るとおり何度か世界を作り変えようとしました。でもあなたはそれを望まなかった。だからこそ、世界は改変されることなく存続し続けていると言えます。つまり、あなたはあなたが望む歴史を自ら切りひらくことが出来る存在なんです」

 俺はそんな大それた存在のつもりは全くないんですが。俺が何を望むかといえば、今までと変わりない無難な生活くらいです。

 もっとも、多少の刺激は欲しいとは思っていたし、実際にそういうスパイスは高校生活中に無闇やたらに散りばめられていたんだが。

「最後に、預言者からあなたに対する伝言です。わたしたち未来人は今まであなたに様々なヒントを与えました。そのことをよく思い出して。これから涼宮さんを復活させるまでの過程において、キョン君は長らくわたしたちの支援を受けられない状態が続くことになります。なぜそうなのかは、わたしには詳しくは解りません。預言者が教えてくれなかったから」

 つくづく、その預言者とやらはもったいぶった奴なんだな。おそらくはそれを教えないことも含めて既定事項なんだろうが。

「だからキョン君、あなたはあなたが思うとおりに、あなたが信じる行動をとってください。その結果、最終的にはわたしたち未来人が知る歴史に至ると信じています。でももしかしたらそうならないかもしれません。これはわたしたち未来人にはどうすることも出来ません。あなたが望む未来を、あなた自身がこれから決めなければなりません」

 ひと通り話し終えた朝比奈さんが、身につけていた腕時計を取り外した。以前朝比奈さん(小)が使っていたのを見たことがある、あの電波時計だった。

「これはわたしからのプレゼント。これからのあなたにはきっと役に立つと思うから」

 朝比奈さんは笑顔を取り戻し、それを俺に手渡した。

「それではわたしは戻ります。全てが終わったら、是非わたしのいる未来に遊びに来てください」

 それは俺にとっても興味のある提案です。楽しみにしてますよ朝比奈さん。それに全ての黒幕である預言者とやらに、俺も少なからず言ってやりたいことがありますし。

 ああ、待てよ。

「朝比奈さん、最後に教えてください。俺は時間移動を一ヶ月間しか出来ないんですが、これはなぜですか?」

「ごめんなさい。禁則事項です」

 朝比奈さんは以前と変わらない、イタズラっぽい笑顔を見せた。

「でも答えはすぐに見つかると思います。それがあなたにとっての既定事項だから」

 ううむ、そういうものなのか。

「がんばってねキョン君。あなたがわたしたち人類初のタイムトラベラーなんだから!」

 ありがとうございます。がんばるしかないですからね俺は。人類初とかはさて置いておいても。

 そして朝比奈さんは俺の目の前から姿を消した。

 昔だったら俺は意識を失わされているところだろうな。

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