夏に届いた花便り(6)
ハナとレオンは、夜更の薬草園で密会を重ねた。
はじめてそうした日から、約束したわけでもないのに、必ず同じ曜日の薬草園で会うのが決まりごとになっていた。
雨が降ったのなら、その翌日に。そんな暗黙のルールを作りながら、恋人のような時間を過ごす。
日中は相変わらず、よそよそしい態度のまま。けれど夜になると、ためらいがちに手を握り合って、お互いの気持ちを確かめた。
月明かりしかない暗闇で、きっとレオンは互いの表情まではわからないと思っているだろう。実際、彼からハナの顔はよく見えないはず。けれど彼女には無防備な彼の表情がはっきりと見えていた。
吸血鬼の末裔は、夜目が利く。いつもそうしてくれればいいのに、昼間の彼は不機嫌そうな顔しかハナに向けてくれない。けれど夜の彼は、言葉も、態度も、表情も、すべてが優しくてくすぐったい。
それから半年のあいだ、ハナは二度発作を起こして寝込むことになった。
どうしようもない飢餓感で、身体がまともに動かなくなる。きっとレオンの血を飲めば楽になるはずだった。
起き上がれないほどのだるさに
そのことからハナは、吸血衝動には周期があり、耐えれば治まるのだと理解した。耐えることを、レオンとの密会を続ける免罪符にしていたのかもしれない。
彼は手を握る以上のことを決してしない。だから彼はハナの伴侶ではない。喉の渇きがなくなるのは、ハナがまだ相手を選んでいないから。両親とウォルトを裏切っていない。
彼女は心の中で、そんな言い訳ばかりしていた。
年頃になり、豪商の娘として社交をするようになると、必ず
ウォルトも、両親も、決してハナになにかを強要しない。けれど彼らの描いた幸せな将来を、ハナは勝手に感じ取って、身動きが取れずにいた。
父も母も、そしてウォルトも優しくて、大好きだったから余計に。
ウォルトと出かけた晩は、必ずひどい罪悪感で胸が苦しかった。それならば、もうレオンに会わなければいいだけなのに、どうしても彼に会いたくなる。
もう一度だけ、秋が終わるまで、十七歳の誕生日が来るまで――――。
そうしているうちに、ハナに秘密ができてから初めての冬が訪れた。
「レオン、寒くはない?」
ハイラントの冬は寒い。雪は積もっていないが、夜になれば吸い込む空気が凍ったように感じられる。ハナが羊毛のコートを着込んで手袋をしていても寒く感じるのだ。レオンの服装は心もとないから、もっと寒いだろう。
「寒いに決まってる」
「ごめんなさい。私のせい」
ハナは豪商の娘で、ほしいものはなんでも買ってもらえる。それなのに、レオンに質のよいコートをプレゼントすることすらできなかった。
「俺はしたくないことは、しない。……こうしていると暖かい」
レオンの手がハナの頬に触れる。ひんやりとした感覚は長くは続かず、触れている部分からぬくもりが伝わる。少しだけ、二人の距離が近づいた。
「うん、私も」
頬に添えられた彼の手にほんの少しだけ力が入る。その瞳があまりにも真剣だったから、ハナはなにをされるのか察して、ゆっくりと瞳を閉じた。
レオンがつたない動作で彼女を引き寄せて、そっとくちづけをする。
ただ触れるだけ。けれどハナは幸せで、目の奥が熱くなる。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちると、レオンのくちびるは離れ、今度は水滴をぬぐうように、頬にくちびるを落とした。
「……一緒に来ないか?」
今日のレオンはおかしかった。あまりにも突然の提案に、ハナは返事ができない。
「ここを出て、一緒に暮らさないか? きっとすごく貧乏になると思う。多少の蓄えはあるけど、お嬢様育ちには厳しいはず。それでも一緒にいられるのなら、俺は……」
彼の瞳は真剣で、冗談ではないことはすぐにわかる。
家族か、彼か。ハナはどちらか一つを選ばなければならないのだ。
ハナは裕福な家庭で育ったが、レオンと一緒ならそれを手放してもいいと思っている。
もちろん市井の暮らしを甘く考えているだけかもしれない。それでも、彼と一緒ならと夢に見たことは何度もあった。
けれど、この話はだめだと断言できる。
レオンは庭師だ。もしハナと一緒に屋敷を出たら、庭師をやめることになる。彼の職業は富裕層を相手にしている。貴族や商人から仕事をもらうのなら紹介状が必要で、ハナを屋敷から連れ出したら追われる立場になる。
当然、富裕層を相手にする今の仕事は続けられない。
『都に来てよかったよ』
そう語っていた彼は、自分の仕事に誇りを持っていたはずだ。いずれは独立して、ワトー家が手がける薬草園の責任者になれるかもしれない。東国の植物に詳しい庭師として、明るい未来が待っているはずだった。
「できない。ごめんなさい、私がっ、そんなことできないのに……いつまでもここに来て。ごめんなさい、レオン。私には大切なものがたくさんあるの……。それにきっと、貧しい暮らしなんて無理だから」
レオンのためにできない、とは到底言えない。だからハナは自分と家族のせいにした。彼女にはレオン以外にも大切な人がたくさんいる。これも本当のことだった。
一緒にいてはいけない理由なら十でも二十でも、すぐに思いつく。けれど彼の手を取っていい理由は、一つも浮かんでこない。
「そうか。そうだよな? きっとそのほうがお互い幸せになれる。俺は仕事を失わずに済む。ごめん、お嬢さんには俺と違って、大切な家族がいるんだった」
彼にとって、一緒にいたいと思えた人間はたった一人だった。
そのことが重くハナにのしかかり、胸がえぐられるように苦しい。
「ハナ、さよならだ。……もう、こうやって会うのは終わりにする」
彼がハナの名前を呼んだのは、これがはじめてだった。
彼がどんな覚悟ではじめてキスをして、はじめてその名前を呼んだのか、ハナは翌朝になってから知ることになる。
彼は夜中のうちに、ワトーの屋敷から姿を消した。
彼の部屋はきれいに掃除がされていて、親方宛にただ「辞める」とだけ書き残し、どこかへ消えてしまった。
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