はじめての依頼、はじめての報酬(2)
エルネストが魔女の店を訪れてから三日。彼は予想以上に早く、再び同じ場所を訪れることになった。
カランカランと音を立てて、扉を開ける。エルネストは彼女がどんな顔で出迎えてくれるかを想像し、少しだけ期待していた。それなのに、肝心のユウリの姿が見当たらない。
「不用心な店だな……」
はじめて訪れた日は昼寝、今回は不在。店主としても、一人暮らしの女性としても、危機意識が欠如している。
そんなことを考えていたエルネストの耳に、ガタッという物音が響く。店の奥にある扉が開け放たれたままになっていて、音がするのはそちらのほうだ。
扉の奥が、女性の私的空間であることは考えなくてもわかる。それでも彼の足先は自然と物音の方へ向いてしまう。
奥の部屋を覗くと、彼女の姿はすぐに見つかる。エルネストの方に背を向けて、脚立の上に座り込み、本を読んでいるようだ。先日とはまた違う柄の異国の上着につややかな黒髪の女性は、来客に気がつく様子はない。
書架の一部がガランとして、代わりに床の上にそれらが積まれている。捜し物をしていたか、それとも本を整理していたか。どちらにしても、今は店の扉につけられていた鈴の音も聞こえないほど、読書に集中してしまっている。
「やあ、魔女殿。元気だったかな?」
「きゃっ!」
彼としては、驚かせるつもりなどなかった。いつまでも眺めているのも悪いような気がして、声をかけただけだ。
けれどユウリは、すぐ近くから声をかけられたことに驚いて、体制を崩す。抱えた本を離せばいいだけなのに、それすらできずに後ろへ倒れそうになる。
エルネストはとっさに駆けより、彼女を受け止めた。背の高いエルネストが、小柄な彼女を支えるのは、簡単なことだ。脚立が倒れ、小さな手からすり抜けた本が落ちる。すべての体重をエルネストにかけても、彼女は驚くほど軽かった。
ゆっくりと床の上に降ろしても、ユウリはエルネストに背を向けたまま動かない。
「危ないよ。大丈夫かい?」
エルネストのほうからは真っ赤になった耳がよく見えた。指摘したら、きっとにらんでくるのだろう。彼はとりあえず、見ないふりをしてあげることにした。
「申し訳ありません。お怪我はないですか?」
彼女はやっとエルネストのほうを向いた。目は合わさず、うつむきながら、足もとや手に視線をやる。怪我をしてないか、確認しているつもりなのだろう。
「ないよ。驚かせるつもりはなかったんだ。こちらこそすまない。……どうしてこんな場所で読書なんてしていたんだい?」
「違います。本をお貸ししたときに、もう少し整理したほうがいいと思い立って……それで……」
「整理をしていたけれど、いつの間にか読むほうに夢中になってしまった、と。ははっ」
結局、読書をしていたことには変わりがなかった。
エルネストが笑うと、彼女はじめて彼のほうを見る。そしてやっぱり、怒っていた。
「そんなことより! 今日はどうされたんですか?」
「……うーん。それが困ったことになってね。ちょっと長くなりそうなんだけど、聞いてくれるかい?」
ユウリは頷いて、前回と同じようにエルネストを長いすに座らせた。前とは違うお茶を用意して、自身はわざわざダイニングから運んできた木製の椅子に座る。
「君から借りた本。シンカ国の言葉に堪能な同僚が、翻訳を担当するはずだったんだけど、読めないというんだ」
「はい?」
最初から、シンカ国の言葉で書かれていることを知っていて、借りていったのだ。それなのに、読めないとは、なんともまぬけな話だった。
「私も予想外だったんだけど、考えてみればそうだよね? 宮廷勤めの文官が、たとえば自国の分厚い医学書の内容から、調べたいことを探すのは難しいだろう? 異国の言葉ならなおさら」
「外交に必要な言葉を知っているからといっても、薬学の本をすべて読んで理解することはできない、ということですね?」
ユウリは小さな手で器を包み、お茶を口に運ぶ。飲みなれている彼女の動作は優雅で、エルネストも彼女を真似てみる。
小さな茶器の中身を空にしてから、彼は本題に踏み込んだ。
「君、口は堅いほう?」
「……わかりません。あまり、外に出ないので」
「うん、なんだかそんな感じはするね。……君はとても賢い子だからわかるよね? 私はもったいぶって詳細を教えなかったわけじゃないんだ。報酬は弾むから、相談に乗ってくれないか?」
「正直に言えば、面倒なことには関わりたくないんです。でも、今回はワトー商会の会長から、協力しろと命じられていますから、断れません」
「巻き込んでごめんね、ユウリ殿。このことは、他言無用でお願いしたい」
そう前置きしてから、エルネストは異国の魔女に、彼が調査している事件について話し始める。
事件は一ヶ月ほど前、シンカ国の新しい大使を歓迎する式典の最中に、突然王妃の体調が悪くなったことからはじまる。呼吸が乱れ、目が充血するといった症状が数時間続いた。
「王妃様はもともと、季節によっては体調を崩されることもある御方だから、そのときは事件性はないという判断だった。けれど……」
今から一週間ほど前、また宮廷内で王妃が倒れた。共通しているのが、シンカ国のお茶とそれをいれた侍女。お茶はシンカ国の大使がみやげとして持ってきたものだが、複数人が飲んでいる。
侍女は歓迎式典のあとの交流の場で、大使夫人からお茶のいれ方について指導を受けていた。だから、二回目も同じ侍女が、給仕を担当したのだという。
すぐに侍女は捕まり、厳しい取り調べを受けたが一向に口を割らない。知らぬ存ぜぬの一点張りだという。
「王妃様は、その侍女殿のことをとても信頼していてね。なにかの間違いだとおっしゃって、表沙汰にしないようにとのお達しなんだ。だから、この事件を知る者はごく限られている」
「シンカ国のお茶と侍女殿……ですか?」
「そう。侍女殿本人も含めて、複数のご婦人方が一緒にそのお茶を飲んだんだ。倒れたのは王妃様一人。そうすると給仕をした者しか犯行は不可能だろう?」
ただし、王妃の口にしたお茶からも、茶器からも、毒物は検出されなかった。
「伯爵様はお茶の中に、この国の医師が知らない毒薬が混ざっていたとお考えなのですか?」
「そうだよ。侍女殿の荷物を検めて、毒物か含まれるか検査したけれど見つからなかった。東国の、とくにシンカ国の化粧品も最近流行っているし、そういうものに特殊な毒を混ぜ込んで、持ち込むことはできるのではないかと思っている」
調査は東国の毒物と断定されたわけではない。可能性を一つ一つ潰している状況だ。
「わかりました。では、東国にしかない毒草で、呼吸器に影響を与えるものをまとめます。十日ほど、いただけますか?」
「ありがとう、助かるよ」
エルネストがほほえむと、ユウリの顔はすぐに赤くなる。あまり外に出ない、と話していたことから、身内以外の人間との関わりに馴れていないのだとわかる。
「ところで、君はなにか特別な力でも持っているのかな?」
「どういう意味ですか?」
「魔女として、悪い男をはね除ける魔法を使えるのか、という意味だよ」
目の前の女性が「人の不幸を食い物にする」「不幸を食べる魔女」と呼ばれ、恐れられている存在だとは到底思えない。エルネストは、彼女の危うさが心配になった。
「……魔女というのは、薬を煎じたり、怪我の手当をしたり……民間の医術を施す者の呼び名です。不思議な力なんてありません」
模範解答のような面白みに欠ける説明だった。ただ、そう語る彼女は、なぜか急に泣きそうな顔になった。
「じゃあ、少し不用心すぎるんじゃないかな? たとえばほら、こうやって髪に触れて、君は私から逃れられる?」
長いすから腰を上げて、たった一歩踏み出せば、すぐに捕らえられる。そんな距離にいるというのに、彼女の警戒心は皆無だった。
エルネストがきれいな黒髪に触れると、ユウリはぎゅっと拳を震わせながら、目の前の青年をにらみつけた。
「離してください。嫌なことをするなら、協力なんてしません!」
エルネストにとって、彼女の怒った表情は、猫に拗ねられた程度にしか思えないものだった。迫力はないし、不愉快ですらない。むしろ、もっと困らせてみたいという衝動に駆られる。彼としては、あまりに警戒心の足りない彼女に、一言忠告しておく必要があった。
「本気でするつもりなら、とっくにやっているよ。君は少し、不用心を反省するべきだ」
「誰も来たことない。怖がって来ないから……危なくなんてないんです。だからお節介はやめてください」
「……実際、私が来ているじゃないか?」
「それは仕事だからです」
「そう? じゃあ私みたいな悪い男が通っているあいだは、せいぜい気をつけることだね。かわいい魔女殿」
エルネストは、真っ赤になってうつむく彼女を残したまま、店を出た。
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