10-2

 チンの奢りでギネスビールを一杯飲んでから、僕は待ち合わせの場所へ向かった。

 プロムナードは、ヴィクトリア・ハーバーを望む一大観光地だ。悪名高き九龍といえど、まだこのあたりは華やかである。街並みは十一時過ぎとは思えぬほど輝き、夜空を昼のように照らし出している。浜辺には貨物船が続々と入港していた。夜から朝方にかけては、港も忙しくなるだろう。

 そんな港の様子に一瞥をくれながら、僕は星光大道アベニュー・オブ・スターズを歩いた。香港のスターを讃える遊歩道だ。

 視界にまっさきに飛び込んできたのは、ブルース・リーの銅像だった。あの独特な格闘スタイル――截拳道ジークンドーを切り抜いた姿は、今にも動き出しそうなほどだ。彼の人気は、もう夜更けだというのに観光客が写真を撮っているぐらいだ。

 さらにその向こうには、いくつもの手形が飾られていた。ジャッキー・チェン、チョウ・ユンファに、ジェット・リー。トニー・レオンに、アンディ・ラウと名だたる俳優の手形が並んでいる。

 僕はそのプレートに目をやりつつ、やっと目的の場所にたどり着いた。

 アニタ・ムイの銅像だ。


 それは香港島を望む港の舳先へさきに、まるで潮風に揺れるようにして立っていた。波打つドレスをふるわせて髪を風に揺らすのは、今は亡き女優の姿。

 そしてその隣に一人たたずむ女がいた。それも車椅子に乗った女だった。

 ――まさか、こいつが情報提供者か?

 僕は一瞬疑ったが、次の瞬間にはそんな疑念などどうでもよくなっていた。

「あの――」

 と、僕が声をかけようとしたときだ。

「待ってたよ、ミスタ・90ガウアー

 日本語だった。

 それも、聞き覚えのある女の声だ。どこか抑揚のない、無機質な声音だったけれど。間違いなかった。

 彼女は右手でレバーを操作し、車椅子を九十度ターン。僕のほうを向いた。

 ――ああ、そういうことか……。

 僕は思わず頭をもたげた。目の前のことが真実かどうか、わからなかったからだ。あるいは、この一年間の苦悩がなんだったのかわからなくなったからだろう。

 目の前に現れた情報屋の女。

 彼女は五体不満足なカラダを、白のジャケットに包んでいた。そしてその顔を、大きめのサングラスで隠している。でも、彼女の頬には隠し切れぬほどの火傷痕があった。

 ……そして僕は、その火傷の理由を知っていた。

「ウソだ……あなたは……」

「ああ、久しぶりだね、新人君チェリーボーイ。いや、もう一人前かそれ以上になったんだったな。また会えてうれしいよ」

 火傷でドロドロになった頬。歪んだ顔の輪郭。ブランケットに隠された両足。そして薬指を失った手。

 間違いない。その姿はかつてと大きく変わっていたけれど、間違いなく彼女だった。

 そうだ。情報屋とは、烏瓜レンゲだったのだ。


 星光大道では、噴水と、そのライトアップがまだ続いていた。デート帰りらしきカップルがベンチに腰を下ろして、ロマンティックな光景に惚気ている。

 でも、僕らにはロマンティシズムのカケラもなかった。あるのはセンチメンタリズムの凝縮だけだ。

 僕はアニタ・ムイ像近くの欄干に背を預け、タバコに火をつけた。ハイライト・メンソールに、マッチを擦って。チョウ・ユンファのように格好はつかなかったけれど。

「まるでリンの後追いのようだね」レンゲは僕の姿を見てせせら笑った。「でも、その無精ヒゲに髪型はどうにかしたほうが良いと思うよ、ミスタ・90」

「その呼び方はやめてくれ」

 言って、僕は顎のまわりを指でかいた。

 とはいえ、レンゲが言うのももっともだ。弊社を飛び出してからというものの、僕は見た目に無頓着になった。ロクにヒゲも剃っていないし、散髪にもいっていない。目元を隠すような長髪と、ゆるくポニーテールにした後ろ髪は、あまり衛生的ではないだろう。着衣も安物のスーツとコート、そして肩から吊したホルスターだけだ。おそらく僕が身につけているもので一番高価なのは、ホルスターからさげた二丁のハンドガンだろう。

「いいじゃないか。アンタを見つける決定打になったんだぞ。ミスタ・90――H&Kの四十五口径フォーティファイヴを二丁持った男。45×2=90でミスタ・90か。一丁は完全に原型のままオリジナルで、もう一丁はグリップやスライドに改造を施した一点モノ……。リンの形見でしょ?」

「そのとおりだよ。……レンゲは僕を捜していたのか?」

「半年ぐらい、ずっとね」

 言って、レンゲはレバーを操作し、車椅子を僕の前に回り込ませる。ちょうどその瞬間、噴水が吹き上がった。水飛沫がコバルトブルーにライトアップされる。

「レンゲはまだにいるのか?」

「まさか。弊社解体の話は、アンタの耳にも入ってるんじゃないの?」

「まあ。御楯会長が責任を取って辞職して、あとは転がるようだったって」

「そうそう。有能なリーダーがいなくなると、ワンマンな組織はすぐに倒れるんだよ」

「そうか。……じゃあ、いまはどこに?」

「フリーランスの情報屋だよ。まったく、おもしろいもんだよ。大学院の博士課程まで行ったのに、借金地獄で政府の暗殺者集団に組み込まれてさ。そしたら生死の縁までさまよって……。それで、サイボーグにまでなって生きて帰ってきたのに、今度は裏社会でドブをすすって生きてるんだから」

 レンゲはそう言って笑ったけれど、しかし彼女の表情には暗い影があった。火傷のあとに沿うようにして落ちる黒い。眼窩のようなその痕が、彼女が辿ってきた苦境を物語っているようだった。

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