第三幕

九〇

10-1

 一年後。香港、九龍半島。


 ヴィクトリアハーバーから望む夜景の中に僕はいた。でも、香港島を埋め尽くすネオンサインにも、九龍の浜辺にある輝きのなかにも、僕はいなかった。

 僕がいたのは、闇のなかだ。輝きを放つ街並みと、表裏一体の存在のなかに僕はいた。つまり、裏社会だとか、アンダーグラウンドとあだ名される場所に……。

 香港がイギリスから返還されて、もういったい何十年になるだろう。それでも英国絡みの地名は残り、そこここでは訛りの効いた英語も聞こえる。反英暴動の記憶は薄れたけれど、しかしこの街に深く根ざしたモノは昔から変わっていない。違うのは見た目だけで、中身は昔のままだ。それは表舞台の光も、裏舞台の闇も同様である。

 ……そして、いままさに僕の前の前にいる男こそが、そういう昔から変わらないタイプの小悪党だった。

「おっ、おい! 待ってくれ! 頼むよ、あんたのことは知ってんだ。ウワサになってるぜ、九十ガウアーの旦那!」

 薄汚れた路地裏。華為ファーウェイの新製品を映す街頭ビジョンが彼の顔を照らし出す。浅黒い肌には、じっとりと汗がにじんでいる。

「ガウアー、ですか――」

 僕は吐き捨てるように言って、彼を見下ろした。

 生ゴミをひっくり返すゴミ箱と、汚れた空気を排出する室外機の群れ。コンクリートの地面には酸化した油がこびりついて、ねっとりとしている。おそらく表は中華料理店なのだろう。男はそんな汚い地面の上をのたうち回り、尻餅をついたまま逃げている。

「――悪いけど、僕も仕事なんです」

 言って、僕は銃を構えた。拳銃を、左右両手で一丁ずつだ。

 HK45CT。ヘッケラー・ウント・コッホの四十五口径。サプレッサーは装着済みだ。銃声は完全に消せるものではないが、大通りから聞こえてくる雑音を前にしては、無音にも等しいだろう。

「報酬のためには、あなたを消さなくちゃいけない」

「かっ、カネならある! い、いくら欲しいんだ!」

「僕が欲しいのはカネじゃありません。です」

「情報? ああ、いいさ! なんだって教えてやるよ! 俺のダチは香港イチの情報通さ! 何が知りたいんだ」

「……白晶菊バイジンヂウ

「は?」

 とつぜん、彼は拍子抜けしたような間抜け面になった。

 僕はそれに呆れとも怒りとも言えない感情を覚えて、しかし冷静に銃を構え直した。カチャリ、と金属が擦れる音。わざと鳴らしてやって、彼の恐怖を煽った。一種の尋問である。

「あっ、ああ! 白晶菊だろ? しっ、知ってる! 知ってるよ!」

「なにを?」

「そっ、それは……!」

 彼が何か言い訳を口走ろうとした、次の瞬間。僕はもうすでに両手で引鉄トリガーを引いていた。右手で頭を、左手で心臓を貫いていた。

「……僕と彼女が命を賭けていたんだ。おまえみたいなチンピラが知っていてたまるか」

 両手の銃をホルスターに納める。ジャケットの下、ショルダーホルスターへ。死体を見下してから、僕はその場をあとにした。


 これがいまの僕の仕事だ。

 一年経っても、けっきょく僕はただの殺し屋ウェットワーカーだった。それも下の下、の。

 僕――守田セイギは、もはや政府お抱えの殺し屋でも、諜報員でもなくなっていた。いまの僕はただの野良犬だ。欲しいモノのためならどんな汚い仕事にだって手を染める、哀れな子羊。残飯喰らいのハイエナ。

 一度狂った人生は、もう元には戻らない。果たしてそれが、大学生から殺し屋になったのか。それとも死んだはずの殺し屋が蘇生したのか……。いまの僕にはもう知る手だてはないけれど、もはやそんなことはどうでもいい。

 とにかく一つ言えるのは、僕はもう地の底に落ちたということ。そして、地を這ってでも、血反吐をすすってでも、僕はリンの遺言に従っているということだ。

 そうだ。僕、守田セイギは、まだ白晶菊を追っている。


     *


 一仕事終えてから、僕は北京道ペキン・ロード近くのアイリッシュ・パブに入った。喉を潤したいということもあったし、仲介業者エージェントとそこで落ち合う手はずになっていた。

 サイン広告がひしめく大通りを外れて、小さな飲食店街へ。そのうちの一つ、赤い扉の店が目的のパブだった。

 ドアベルを鳴らして店内へ。僕は店員に一瞥もくれず、店の奥へ向かった。馬蹄型のカウンターテーブルを抜け、奥のボックスシートへ。そこはちょうど入り口から死角になっていた。

 ボックス席には、すでに先客がいた。仲介業者だ。

「よう、ガウアー」

 どこかヒッピーじみた花柄のシャツに、くたびれた安物のジャケット。そして迷彩柄のカーゴパンツ。ちぐはぐな格好をした彼は、アヴィエーターサングラスで顔を隠していた。だが、それもレイバンを騙ったニセモノだ。彼の顔からあふれ出るインチキさは、そんなものでは隠しきれなかった。

「その名前で呼ばれるのはキライだ」

 言って、僕は彼の隣に座り込んだ。お互い目を合わさずに、ただ前を見ていた。

「おいおい、異名、二つ名、通り名だぜ? 超クールじゃねえかよ! ……っと、そうそう。悪いけど先にやらせてもらってるぜ」

 と、彼は机上のロンググラスを手に取った。注がれているのは、おそらくジントニックだろう。

「あんたは何飲む? 一杯ならおごるぜ」

「ギネスをワンパイント」

「オーケー。マスター、ギネスをワンパイント」

 パチン、と指を鳴らして注文。ビールサーバーの前に立っていた店主が小さくうなずいた。

「……で、仕事は片づいたんだよな?」

「滞りなく。それよりチン、灰皿を」

「ああ、悪かった悪かった」

 空の灰皿を僕のほうへ。彼――チンは、僕を気遣うように右手側においた。だけど、そんな気遣いなど僕には必要なかった。僕が必要としているのは、情報だけだ。

「獲物はしとめたよ。あとは掃除屋がどうにかする――」

 言って、僕は上着の内ポケットからタバコを取り出す。緑色のソフトパッケージ、ハイライト・メンソール。そしてマッチ箱が一つ。僕はその二つを机の上に並べると、ゆっくりと見回してから手に取り、ソフトケースの底を叩いて一本取り出した。そうして口にタバコくわえてから、今度はマッチを擦る。火薬が発火し、木の部分にまで引火すると、その火先をタバコの先端に灯した。

 振ってマッチを消すと、灰皿へ。ひと吸いしてから、僕はチンを横目に見た。

「それよりも報酬だよ。はもう手配済みで?」

「あたりまえだよ。情報屋だろ? とびきりのを用意させてもらったぜ。あんたがほしがってた情報――白晶菊について知ってるって、確かにそう言ってた。今度は間違いねえ」

「今度は、ね」

 紫煙を吐く。ため息混じりに。そのため息というのは、なかば諦めに近い感情表現だった。

 僕はこの一年間、様々な手を使っての情報を探してきた。ハン・イーミン、ケン・ウォン、パルドスム、弊社のデータベースも、リンが残した情報も、そして消えた御堂アキラのことも……僕はすべての線を追った。だけど、結局わかったのは、『どうやら白晶菊は香港にいる』という曖昧な情報だけだった。

 そういうわけでここ二ヶ月ほど、僕は香港で殺し屋まがいの便利人をしながら、あちこちの情報屋をまわっている。だが、収穫はほぼゼロに等しかった。

 だから、今回このチン・カークイが寄越すというについてもあまり期待はしていなかった。チンはいいやつだ。昔気質の人情肌で、僕が香港に流れ着いたとき、仕事を斡旋して、寝床を探してくれたのも彼だった。犯罪行為の斡旋人クライム・エージェントであることを除けば、いいビジネスマンだと言えるだろう。

「情報屋はここにいる」

 チンはジントニックを飲み干してから、一枚のカードを僕に手渡した。名刺だった。それも、この店の名刺だ。

「それなら持ってる」

「ちげえよ。その裏だ」

 言われてから裏返すと、そこには汚い走り書きで地名と時間が記されていた。僕にも分かるよう英語でのフリガナ付きだ。

 ――尖沙咀東部海濱花園チムサーチョイ・プロムナード星光大道アベニュー・オブ・スターズ梅艶芳アニタ・ムイ像前。

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