8-6

 報告書はまだ続いていたが、僕はそれ以上読み進めることができなかった。

 ――雪乃下シノって誰だ?

 ――疑似記憶ってなんだ?

 ――それじゃあ、僕の……僕のこの記憶はなんだっていうんだ!?

 不意に先ほど見た幻影を思い出した。

 英教大学図書館の地下。その中で、僕はたしかにゼミ生の少女と言葉を交わしたはずだ。でも、それは疑似記憶ウソだったというのか?

 記憶の中でがうごめく。それは傷口の奥深くでのたうち回って、鈍い痛みをもたらすようだ。

 ――じゃあ、あの記憶は?

 ――あのとき見た蝶は、まさか……。

 頭のなかで奇妙な合致が発生する。

 地下深い図書館に、あんなに美しい蝶がいるはずがない。じゃあ、あの蝶は……。


『わたしは蝶の羽ばたきバタフライ・エフェクトを引き起こす、ささやかな鈴の音なの』


 すべては、一匹の蝶がもたらした羽ばたき。それが強烈な嵐となって、僕の記憶を吹流していく。

 すべては虚像だと。

 雨粒に映った七色の光にすぎないと。

 ――ウソだ。

 僕は即座に否定した。だが、その否定もすぐに意味を失ってしまう。これは本当なのかもしれないと、思い始めてしまう。

 自然と瞬きの回数が多くなっていく。画面を凝視してドライアイになってからかもしれないが、でもきっとそれだけじゃない。僕は焦っていたのだ。

 そうして瞳をしばたたいているうち、またのだ。目の前を、青白い蝶が飛んでいくのを。

 ――ウソだ。

 ――僕は、守田セイギのはずだ。

 ――雪乃下シノって誰なんだ。

 震える手で、僕はキーボードを打鍵した。検索キーワードは、『雪乃下シノ』。エンターキーを叩くと、しばらくのラグがあってから、ページが開いた。でも、なにか様子が違った。


〈アクセスが拒否されています。詳しくは[詳細]をクリックください。〉


「……どうしてだ。これはリンのアカウントなんだろ……?」

 詳細をクリックする。すると、開かれたウィンドウにはこう記されていた。


〈このファイルは、以下のユーザーによってアクセスできないよう設定されています。User : Reine Yuzliha〉


 ……そうだ。

 リン自身が、このファイルを開けないようにしているのだ。彼女が、まるで僕がここまでたどり着くのを見透かしたように。

 アクセス設定の変更をクリック。でも、そこでパソコンはパスワードの入力を求めてきた。もちろん僕はリンのパスワードなど知るはずもない。結局キャンセルし、雪乃下シノの検索はあきらめた。

 そうして僕が次に検索したのは、のことだった。


〈楪リン [検索]〉


 エンターキーを叩き、一覧表示。その中から、リンが作成した日報各種を除き、彼女のプロフィール情報を探し出した。

 リンが帰ってくるのにおびえながら、僕はようやくをそれを探し出した。クリックし、新しいウィンドウで開く。またしばらくラグがあって、リンに関する弊社保有の情報が一覧表示された。

 しかし、ページの読み込みが完了したとき、僕は呆然とせざるを得なかった。


     *


 楪リン〈Reine Yuzliha〉

 *Error 326

 対象に関する情報は登録されていないか、削除されています。


     *


 リンに関する情報は、存在しない。

 その文字列の意味を知ったとき、僕は背筋を氷で撫でられたかのようか感覚に陥った。氷は虫のごとく背を這い、そして首筋まで来ると、耳元で僕に囁いた。

 ――ガチャリ

 扉のロックを解除する音。それが囁かれた言葉だった。

 僕は思わず飛び上がってしまい、また反射的にウィンドウを閉じた。ディスプレイにはデスクトップ画面が映され、それまでの検索履歴はすべて失せてしまった。

「あら、なに調べてたの?」

 リンが本棚状の扉をくぐり抜けながら問うた。彼女の衣服からはほのかにタバコの匂いがした。電話ついでに喫煙所に行ってきたのだろう。

「ノースポール……いえ、カンシロギクについてです」

「そう、熱心ね。なにかわかった?」

 僕は首を横に振った。本当は知ってしまったのに。カンシロギクではない、別のことについて。

「あらそう。まあでも、こっちは収穫があったわ。カンシロギク、中国では白晶菊と呼ぶらしいわね。そして――」

 言って、リンはパソコンのもとへ。僕の前に分け入ると、彼女はやおら背を折り曲げてから、キーボードを叩いた。

 カタン、とエンターキーを叩く音。そして表示されたのは、『白晶菊』の検索結果だ。そこには、わずかながらもいくつかの記述があった。

の営業が、どうやら最近『白晶菊』なる組織とぶち当たったらしいわ。詳細の報告はまだあがってきてないみたいだけど。……とりあえず、レンゲにでも調べさせましょう」

 そう言うと、リンはそのまま端末の電源を落としてしまった。

 電源をオフに、といってもこの書庫が機能停止するわけではない。閲覧用の端末がオフになっただけだ。いまだ書庫では、オートスキャナーがせわしく動きまわっていた。

「行きましょう。もうここに用はないわ。とりあえず、わたしコーヒーが飲みたいの」

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