第66話

 カーテンを抜けた向こう側の世界は、あの日、夢に見たそっくりの空間だった。

 薄明りの照明を淡く照らし返すフローリング。所狭しとせめぎ合う書棚。壁一面を覆うタペストリー、描かれた紋様の数々。

 部屋には窓がなく、ただ一人で使うにしてはかなりのゆとりがある空間だった。

 ほのかに香の薫るここは書架であり、工房であり、寝室であり、そして多くを失った彼女が選んだ居場所だった。


【――――ようこそみなさん、あたしの部屋へ】


 そして部屋の中央――ちょうどテーブルのあるあたりに、車椅子の女の子がいる。

 エソライズムエンジンの中で出会った妖精さん。少しだけその面影を残す、痩せた白人の女の子だった。

 長く波打つ真紅の髪、真紅の瞳。見覚えのある装飾の黒いワンピース。顔つきは確かに僕が知ってる彼女だったけど、妖精さんのときよりもずっと儚げな雰囲気があった。


【はじめまして、エイト? やっと会えた】


 その声もおんなじ、日本語と英語の二重音声。

 そうして彼女は膝掛けの上から手を上げて、僕の方に差し出してきた。

 このエソラ・ハイアロゥという十二歳の女の子は魔女で、そして規格外の魔導器を備えて生まれてきた代償に、かなりの病弱だと聞かされていた。

 この子は脚を患っているわけではなく、ただ一日を自分の身体一つで過ごせる体力がないんだって教えてくれた。その秘密を最初に教えてくれたのは、僕が中学生のころにネットで交流があった友達、"JULY"さんだった。

 僕はあの当時、弱くて可哀想な彼女に安っぽい同情をした。

 ネット越しの悲劇に感情移入して、醜い自分を突き動かすための物語に利用してしまった。彼女の期待に応えるために、始めはただの偽物でしかなかったシュヴァルツソーマをひたむきに書き続ける僕がいた。


「あらためて初めまして。宇佐美瑛斗です。七月先輩でいる時とは、やっぱり違う感覚?」


【うん、そうね。ちょっと、こわい。ううん、エイトが怖いんじゃなくて、七月絵穹のときほどは自分が強くないから、かな】


 今は最強の女魔術師じゃないエソラの細い手を取って、胸の奥底でグルグルと巡る複雑怪奇な感情に、なんだか溢れてきそうになる。

 でもそれは僕の役割じゃない。

 ここで押し止めなければいけないってわかってたから、全部笑顔につくりかえる。

 さあ、本日の主役が役割を果たす番だ。

 もうひとりの絵穹が、か弱いエソラの車椅子をうしろから押す。

 いつの間にか僕の背中で震えていたフォースさんの傍らまで来て、そして自分の首から提げていたペンダントに触れた。


「屋敷から逃げたわたしを叱りますか、かあさま?」


 たどたどしい、でも必死に絞り出したであろうエソラの肉声。あのペンダントが翻訳機だったのかな。

 彼女が母親代わりの女性に向けた表情はうんと硬く、肩まで強ばっているようにも見える。寄り添うように、もうひとりの絵穹が車椅子のうしろで静かに控えている。

 この空気、両者の距離感を初めて知って、だから見えたものがある。フォースさんがエソラを引き取ろうって決意した理由も、彼女を恐れる感覚も、そんな簡単には氷解させられないんだって。


「ねえ、エソラ。僕はこの人を抱きしめたことがある。言いづらいけど、キスもした」


「えっ…………うそ……」


 やっぱり余計な告白だったんだろう、案の定エソラの表情が暗く淀んでしまった。

 それでも僕は続ける。


「でね、もし君が辛くなければ、君にできるなら――――」


 そこでビクついてたフォースさんの肩を抱き、腕を引いて、それから背を押す。車椅子の娘に、この母親役を押しつけてやる。

 フォースさんは僕の行動に驚いてしまい、腰砕けにエソラの膝へと被さってしまった。


「――君にできるなら、その人を抱きしめて、キスしてあげて欲しい。君の役割になる」


「わたしの……やく?」


 そんな程度で解決できる問題なのかわからない。何せ、僕には母親がいないのだから。

 なのに、不安を払いのけるように。僕の言葉にハッとしてくれたエソラが、自分の真っ白い手を、母親役を買って出てくれた情けない魔女の頬に添えたんだ。そっと、おっかなびっくりの顔をして。

 とうとう、魔女は泣き出した。泣かせてしまって、エソラまで慌てふためいちゃった。

 あと僕ができることは、間を取り持つようにこのふたりの肩を抱くことくらい。


「エソラもラキエラさんも、ふたりはもう大丈夫だよ。ここからまた始められる」


 そう、この母娘ふたりに伝える。


【かあさまのこんな一面を見られる日が来るなんて、家出してみるものだわ】


 再びペンダントに触れ、そして頬を紅潮させながらエソラが微笑みを浮かべた。


 


 孤独の魔女ラキエラが、血のつながらない娘にすがる。母を知らぬエソラが撫でる。

 いつの間にか周囲をみなが取り囲んでいた。彼女をずっと見守り続けてきた使い魔や妖精たちもだ。

 都市と同様に崩れてしまったヒトの心も、少しずつ、あるべきかたちに再建していけばいい。

 僕は、心からそう願った。

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ジュヴナイルズ・ランドスケイプ ~数奇なる魔女とエソライズムエンジン 学倉十吾 @mnkrtg

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