第55話
そのころ、七月絵穹は巨塔の螺旋階段を下り続けていた。
正直、疲労に足が棒のようで、なのに悪態をついてやる相手もいない。それに何故こんなにも女子の靴は歩きにくいのだろう。短めのスカートはお尻がスースーする。
ウンザリとしたけれど、それを表情に出すのはエレガントじゃない。努めて平静を装って、再び下層を目指す。気が遠くなりそうな旅路だった。
上層側から剣戟の音が聞こえてきていた。見上げると、時折稲光めいた光が外壁を青白く照らしたりしている。
程なくして、予想外のものが上から落ちてきた。
落下してきたのは、二メートル長の刀身を持つ魔刀。それが絵穹の傍らを掠めて、前方の階段を砕き、そのまま下層側へと消えていった。
「…………まさか今の、真説魔狼斬!? きっと宇佐美君だわ」
さっきまでの剣戟が止み、直後、更なる落下物が彼女の目前に飛来した。
落ちてきたのは、人体だ。
振り返って階段を見上げれば、そこに人が倒れている。露出した皮膚から出血しており、石材製の階段を、血だまりが瀑布となって流れ落ちてきた。
これはもはや、死体と言って差し支えないだろう。何故なら全身の骨がいくつも砕け、右腕まで切断されていたのだから。
この死体は、宇佐美瑛斗だった。絵穹は一瞬、悲鳴に喉を震わせたが、
「…………私が思ってたよりも早く負けてしまったのね、宇佐美君」
残念だわ、さようなら、と感慨深そうな口振りで、しかしもう救いようがない死体を見過ごして再び階段を下り始めた。
絵穹は欠けた段を飛び越え、数段進んだ直後に、今度は三度目の落下物が舞い降りる。
「ああ……時間稼ぎにもならなかったの宇佐美君。これでは無駄死にじゃない……」
階段を踏み砕くほどの巨体。着地の衝撃を四肢で押さえ込み、屈めていた上体を起こす。
アバトラだ。魔術加護を得たアバトラが、上層側からここまで飛び降りてきたのである。
「何故にお前がここにいる、七月絵穹。インディゴはどうしたのだ」
下段側で行く手を遮るアバトラ。隆々として逞しい筋肉に覆われた体躯で絵穹に迫り、掘りが深く険しい顔つきから、感情の読めない眼差しを向ける。
今の絵穹には抵抗手段がない。気圧されて後退った直後、階段を踏み外して転倒してしまう。下に転がり落ちるのは辛うじて免れたものの、脚部を痛めてしまった。
逃げ場をなくし、窓もない壁面まで追い詰められていく。
そこでふと気付く。巨塔はさながら古代遺跡のごとく古典的な石造りに見えたが、間近に眺めてみれば、青空が薄らと外壁を透過しているのだ。外光が透けて取り入れられているため、それが塔内部の光源にもなっているらしい。
逆律の万魔殿は実体を持たない幻想――否、ファンタズマそのものではないかという仮説を、より確信に近付けてくれる発見だった。
アバトラは一段ずつ階段を上がり、絵穹へと迫ってくる。
「ちょっとあなた、勘弁して欲しいのだけれど」
「残念だが、宇佐美瑛斗は死んだ。恨みたくば、お前の憎悪、全てこの私が引き受けよう」
大柄で無骨なこの男は、しかし奇妙な礼儀正しさで己が胸板を指して言った。
次にナイフの片方を抜き、絵穹の首筋に突きつける。両者の体格差なら本来必要ないものだったが、この少女は特別だと考えたのだろう。
友人らしき少年の非業の死にも一切動じず、この局面においても未だに生意気そうな視線を送りつけている。少女は年齢相応の見てくれをしているだけで、中身はもっとおぞましいものをはらんでいるのだとアバトラは理解した。
そのような魔女たちを、彼はこれまでに幾人も見てきたのだから。
「いかなる手段で抜け出せたのかは知らぬが、さあ、祭壇へと戻るのだ七月絵穹。この少年の死体は私が運んでやろう。弔う前に、お前は死体から魔導器を取り出すのだ。そして魔女の娘をここに呼ぶがいい。そうすれば、お前の私怨を果たさせてやっても構わぬ」
私怨とは、おそらく魔女
と、ここで絵穹にとって、さらなる予定外が舞い込んできてしまった。螺旋階段の下層側から、人影が足音もなく、恐るべき早さで駆け上がってきたのである。
「ぉぉぉおおおおおおッ――――――――――――!!」
急接近する雄叫びめいた声。それにようやく気付いたアバトラが、背後を振り返った。
手遅れだった。身の丈二メートル近くあるアバトラの顔面に、七月絵穹の膝蹴りがめり込んだ――それも、唖然とする七月絵穹の目の前で。
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