第8話

「――――う…………痛……ってて……」


 やけに響くな、自分の呻き声。

 ぽっかりと空いた天井から、空の灰色が見える。破片がぱらぱらとこぼれ落ちてきて、周囲には散乱した瓦礫が積み重なっていた。

 まだ目がチカチカするけど、背中を硬いものが支えていて安心できた。不思議と落ち着いていた。奇跡的に助かった、って幸運が痛みにも増して嬉しかったから。

 ――制服の埃をはらおうとした僕の手が血まみれだった。

 途端、何もかもがめちゃくちゃ痛く感じてきた。

 力が抜けてバランスを崩してしまい、傾いだ床から転げ落ちた。コンクリートか何かに顎を打ち付けて、危うく舌を噛みちぎるところだった。額からしたたって目に入った液体が血なのか確認するのが怖い。

 視界がくらくらとしたまま、膝立ちで地面に手をつく。

 ここは駅舎の一階みたい。水道管でも切れたのか、どこかで水が噴き出している。それに火花が散る音まで聞こえてきた。

 周りをあいつらに取り囲まれてるのに気付いたのは、頭上にぽっかり開いた大穴の向こうに鳥が飛んでいたのを見た直後。蜘蛛みたいなあの怪物が何匹も、周囲の瓦礫を乗り越えてこっちに近付いてきていた。

 また思うように足が動かない。さっきのダメージで脚のどこかを痛めてしまったせいだ。

 捕食生物然と、ゆっくりとにじり寄ってくる怪物たち。何のシグナルなのか、絶えずに青の光を明滅させている。

 絶体絶命、こんなの絶対喰われるしかないじゃないか。僕はそいつらに背を向けて、肘だけで床を這って逃げようとする。

 空を飛びまわっている鳥みたいなのもホログラム怪物の仲間だろう、同様に青い光を放っている。崩れた壁の向こう側に、蜘蛛よりもうんと巨大な何かが蠢いているのも見える。

 意識が朦朧として、恐怖感も痛覚も有耶無耶になってきた。ただ背中から怪物に齧られるのとか勘弁してほしかったから、僕は這いずるのをやめて、残ってた柱に上体を預ける。

 ――と、怪物たちの侵攻がそこで止まった。

 絶体絶命な僕の目の前で起きた、理解できない現象。左から順に、蜘蛛の怪物たちがバラバラに――解体? されていったんだ。

 蜘蛛たちを構成する部品が光に代わって、周囲に散らばっていく。さっきまでグロテスクだったものが、何故だか神秘的に見えた。


「うそ……僕…………助かった……のか……」


 あたりにはまだ濛々とした煙が立ち込めたままで、何がどうなったのかはわからない。

 でもあの二挺拳銃の彼、すごいな。こんな怪物と戦ってるってことは、つまり正義のヒーローだ。何者なのかは知らないけど、何度も助けてもらったお礼を今度こそしなきゃ。

 かつん、こつん。不鮮明だった視界が晴れてきて、掻き消えた怪物たちの向こう側からその人が近づいてきた。


「……間に合ってよかった、宇佐美くん」


 晴れた煙の向こうに、スカートから生える長い脚が現れた。そして波打つ黒髪が見える。

 僕を見据える、見覚えのある顔。


「えっ、七月……先輩!? どうして……」


 どうして七月先輩がこんな場所に。間に合ってよかったとか言いながら、息を切らせてるでもなく、彼女はただ忽然とそこにいた。奇妙な違和感を放ちながら、血まみれな僕をちっとも動じた風もなく見下ろしている。

 ああそうか、違和感の理由がわかった。今日はこの人、例の仮面を付けていないんだ。

 とにかく七月絵穹は想像してた以上の素顔を持つ女性だった。伏し目がちにした長いまつげからのぞく銀と鮮烈な赤、互い違いに彩られた瞳が眠たげだけどすごく綺麗で。その色の組み合わせはちょっとやりすぎじゃないのって感じもあるけれど。


「ふむ、怪我は大したことなさそうね。きみは運がいいわ。リアルだったら死んでたもの」


 建物の中まで生ぬるい風が吹き込んできていた。ひらりとはためくスカート。黒タイツとめくれたスカートの隙間から、白い太ももがわずかに露出する。

 先輩のこれ、てっきりタイツだとばかり思い込んでたけれど、実は丈の長いニーソックスだったのか。今のシチュエーション自体もそうだけど、先輩の意外な二面性を発見してしまった気持ちで、何だかドキドキする。


「――って、いま何気にとんでもないこと言わなかった先輩!?」


「冗談。この程度じゃ人間は死なないわ」


「いや、そっちの話じゃなくてさ。リアルだったら……ってどういう意味なの」


 先輩が手を差し伸べてきた。少し冷えて体温が損なわれた彼女の指先に触れて、こんな窮地なのに鼓動が高まる。これこそがまさに〝リアル〟だというのに。


「そう、ここはリアル――つまり現実界じゃないわ。宇佐美くんは偶然迷い込んでしまったのよ、リアルとは異なる世界に」


 先輩の思わせぶりな口ぶりに、僕が見ているこの光景が奇妙な迫真性を与えていた。


「そんな……現実じゃないって、一体どういう……」


「わたしたちがいま立っているこの世界はイデアール境界領域内世界。通称〈イ界〉と呼ばれている、言わば現実界の並行世界なの」


 見知ったもののはずなのに、今や色褪せたように空気感が損なわれたこの景観。


「ここが、現実じゃない……?」


 先輩が立ち上がった僕の手を離すと、再び立ち塞がる瓦礫の山の向こう側を向く。


「きみにはもう隠す必要がないから伝えましょう。イ界は、言わば魔術師たちの領域よ」


「魔術師って、あの魔法とか杖とか呪文とか使うやつ?」


 あまりに大雑把すぎるイメージが先走ってしまった。先輩はそれに無言で頷いて、


「宇佐美くん。いわゆる魔術師という存在がもし実在したとして、どうしてこれまで歴史上の表舞台に立ってこられなかったのかわかる?」


 そんな突飛な問いかけには、首を横に振るしかできない。


「その理由を教えてあげましょう。魔術師は、わたしたちの定義する〈現実界〉では魔法の奇跡を起こせない。ただのオカルト集団として観察される」


「……でもここでなら、魔法が本当になる?」


「そのとおりよ。イ界とは魔法の奇跡が実現可能な領域。ただ、エネルギー変換が繰り返された魔力が澱みとなって、ときおり思いもよらない歪みを生むことがある――――」


 だが先輩が言い終える前に、半壊状態だった駅舎の外壁が再び崩れ始めた。

 遂に一階の外壁が大きく削れてしまった。薄曇りの空がのぞいて、そして灰色の太陽を遮る巨体が、元あった外壁に代わって僕たちの前に立ちはだかっていた。


「――――それがこいつら、〈ファンタズマ〉よ」

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