プロローグ
さて、昼休みも終わりか。
はぁ、後4時間か。面倒だな。早く、5時にならないかな。
そういえば、課長に昼一番で、何か頼まれていたような気がするけど――
まあ、いいか。誰か、覚えている奴が、やってくれるだろう。
「ああ、
と、午後の仕事を始めたばかりの俺に声を掛けてきたのは、部長の
「はい。野村部長」
なんだろう? 何か、怒られるような事でもしたかな? 俺には、何も心当たりがない。
「ちょっと、廊下の方へ。ここでは、皆が見ているし、誰もいないところがいいだろう」
「は、はぁ……」
俺は、席を立つと、野村部長の後を追って廊下に出た。
いったいなんだ? 同僚たちが、俺の方を見ながら、ひそひそ話していたのが気になるが――
皆には内緒で、特別ボーナスでもくれるのだろうか?
しかし、特別ボーナスをもらえるような事は、何もしていないと思うのだが。
自分で言うのもなんだが、俺は特に率先して動くでもなく、言われた事を無難にこなしてきた。そんな万年平社員の俺に、特別ボーナスなど出るわけがない。
それに、そんなものをくれるほど景気は良くない。むしろ、景気は最悪である。
俺も、この会社に中途採用で入って10年くらいだが、年々会社の業績は、緩やかだが悪化している。
――もしかしたら、昇進か?
突然、俺は閃いた。
確か、数年前、同じように部長に呼ばれていった同僚が、社長室に連れていかれ、係長に昇進をしたのを思い出したのだ。
先ほど、俺は言われた事を無難にこなしてきただけだと言ったけど、ちゃんと見ている人は見ているのだ。さっきまで不安だった俺だが、だんだん嬉しさが込み上げてきた。
「この辺で、いいだろう」
と、野村部長は言った。
「えっ?」
てっきり、社長室に連れていかれると思っていたのだが、ここは社長室などではなく、倉庫の前だった。
どういう事だ?
――あっ! そうか、思い出した。確か社長は、昨日から出張で北海道に行っているんだった。
まあ、出張とはいっても、ほとんどゴルフと温泉が目当てで、仕事の話は二の次だと課長が言っていたが。
しかし、いくら社長がいないからといっても、こんなところで昇進の話をしなくてもいいだろう。
まあ、そんな事は、どうでもいいか。
「松井君。君が、うちの会社に来てから、もう10年くらいか」
「はい。ちょうど、10年になります」
「そうか。今まで、よくやってくれたね」
と、野村部長は、笑顔で言った。
「ありがとうございます」
と、俺は、頭を下げた。
もう、嬉しさを抑えきれない。頭を下げたまま、ニヤニヤが止まらない。
俺が係長になれば、妻も娘も、俺を見返すだろう。
「松井君。今日で君は――」
来たぁぁぁ!
「クビだ」
「ありがとうございます!」
俺は、満面の笑みで応えた。ついに、俺も係長だ!
「えっ? 今、なんて……」
「そうか、そんなに嬉しいか。いや、ごねられると困ると思ったんだが、そういう事だから、もういいから、荷物を整理して帰ってくれ。明日からは来なくてもいいからね」
と、野村部長は言うと、笑顔で俺の左肩を軽く叩いた。
なるほど、これが肩叩きというやつか――って、納得をしている場合ではない。
「ちょっ、ちょっと、野村部長! 待ってください!」
俺は、慌てて野村部長を呼び止めた。
「なんだね?」
と、野村部長は、少し不機嫌そうに振り返った。
「今、何ておっしゃいましたか?」
「なんだね、君は。耳が、悪いのか? クビだから、明日から来なくてもいいからねと、言ったんだ」
「ど、どうして、俺が――いえ、私がクビなんですか?」
「なんだ。不満が、あるのかね。さっき、ありがとうございますと、言ったじゃないか」
「い、いえ、それは……。てっきり、昇進の話かと思ったものですから……」
「はぁ? 昇進だと? 松井君。君は、何を言っているのかね? 自分が昇進できるほど、君は何か成果をあげたのかね?」
いや、そう言われると、確かに何もしていないのだが……。
「い、いえ、成果と言われると、あれですけど――ちゃんと10年間、言われた事は、やってきたつもりです!」
と、俺は必死で訴えた。
「言われた事は、やってきただと? よく、そんな事が言えるな。今までの自分の行いを、胸に手を当てて考えてみろ」
「そ、そんな……」
正直、頭がパニックで、今は何も考えられない。
「とにかく、うちの会社も、不景気で経営が厳しいんだ。君みたいな社員は、いらないんだよ」
「で、でも……。私には、妻と娘が――」
「心配するな。少ないが、ちゃんと退職金は払ってやるから」
「退職金とか、そういう問題では――」
「なんだ、いらないのか?」
「い、いえ……」
「とにかく、もう決まった事だ。君は、今から、うちの社員ではない。それと、一つ言っておくが、どこかに訴えようとか変な考えをおこすなよ。社長は、色々なところに、顔が利くからな。どうなっても、しらんぞ」
と、野村部長は言うと、ゆっくりと去っていった。
それから、どれくらいの時間が経ったのだろうか――
「あれ? 松井、今日は、こんなところで、さぼっているのか? 邪魔だな。ちょっと、どけよ」
という、同僚の声で、我に返った。
「あ、ああ……、すまん」
「そんなに、さぼってばかりいると、いつかクビになるぞ」
と、同僚は笑いながら、倉庫の中に入っていった。
もうクビになったとは、さすがに言えなかった。
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