小噺

餅米

過ぎた火遊び

 高層ビル屋上のフェンスに肘を掛け、青年は空を見据えていた。容姿は、フード付きの黒い羽織に袖を通し、下に同色の着物を着用、ストライプの入った灰鼠色の袴を履いている。

 口にくわえている煙草の煙が宙をたゆたい、遊びながら、そっと空気に溶け込んでゆく。束の間にはもう、見分けがつかないほどになってしまった。

 空は薄明るく、地平線は仄かに黄金に色付き始めていた。聳える山々の天辺も、同じように染まりつつある。

 程なくして、陽が姿を現すだろう。


 青年は伏せ目がちに、煙草を指先で挟んで唇から離した。溜めていた息を緩やかに吹けば、白い靄が纏まりなく散らばり、吸い込まれるように空へ方向を変え、ゆっくりと消えていく。ひとつ、瞬きをした。

 すると、背後に何者かが忍び寄ってきた。

 足音もなく己との距離を詰めた気配を察してはいるものの、青年は気に留めていない様子で、素振りもなく瞳を俯けたままだ。

「やはり、ここでしたか。」

 数メートルほどの間隔を空け、足を止めた声の主は、ハンチング帽を被った背丈の高い男性だった。朽葉色のトレンチコートを纏い、下にスーツを着ている。

「烈さん。」

 頭を覆うフードを、冷たくも柔らかく通り抜ける風に任せ、再び煙草に口をつけるーーー烈と呼ばれた青年は、息を吸い込み、それから吐き出した。また、靄が浮かんでいく。

 ビルの下では、道路に自動車がひっきりなしに行き交い、赤々としたテールランプが長蛇の列を成していた。交差点や歩行者専用道路は人混みで溢れ返り、お祭り騒ぎの如し喧しい。

 それなのに比例して、ここはやけに静けさが肌に突き刺さる。

 …暫くの間。やがて、青年は振り返った。フェンスに肘を置き、もたれ掛かる。

「…こんな日にまでお仕事だとはな、ご苦労なこった。」

 低いバリトンを紡ぐ。声色は、とても穏やかなものだった。

「それは、お互い様でしょう。…彼女との用は、もうお済みで?まだまだ予定をこなす余裕があるのだと、時計の針は促していますよ。」

「…ハッ。相も変わらず、畜生みてぇに嗅覚が利いてやがる。」

 煽り気味に、見下す目付きで毒をつく。

「お褒めに預かり、光栄です。…まぁ、あなた方のような俗物に頂く讃えなど、唾棄するほど全くもって価値のないものではありますが。」

 淡々とした口調で、男性は切り返した。あっけらかんに、されど目敏く隙間を探るように。

「さて、」と、男性。

「世間も賑わうお目出度い日に、水を指すようなことをするのはあまり頂けません。古き伝統は重んじるべき大切な文化。それを不粋に台無しにするのは。」

「お目出度い、ね…。」

 男性の発言に烈は、「確かにな。」と同調する。

「もうじき、日が昇る。目新しい朝日が、顔を覗かせる。眩く照らされる街並みはさぞ神々しく、さぞ煌めきに満ち満ちるだろう。」

 フェンスに両手を掛け、コンクリートを蹴ると、軽々と表面へ乗り上がる。幅約5センチ程という頼りない足場だが、挙動にブレが生じることなく、どうともなしに烈は立ち上がった。

「ーーー光輝に焼き切られる運命も、また…然り。」

 微かな後光を捉えた、ぎらりと強い金色の眼光。そこには、揺らがぬ意思がありありと灯っている。

「他者の命を弄ぶなど、それこそ祝福されるべき行いではないでしょう。寧ろ、秩序を掻き乱した罪として咎められるべき行為だ。」

「…役者が舞台上で演劇を披露することに、少しの戸惑いも覚えると思うか?立ち振る舞いを叱咤され、牽制を推される対象だと。」

「…貴方が、その役者とでも言うのですか。」

「…いうなれば。…歌舞伎では、派手に着飾らなければならない。ミュージカルでは、喜劇を歌わなければならない。しかし…ああ、そうだな、そうなると、比較してみれば、…少々、違うのかもしれない。」

 -今日の彼は、よく喋る。こんなに声を聞いたのは、今までで初めてかもしれない。男性は思う。記憶にある彼は無口で、それでいて無愛想、更には粗暴な行動や言動が目立ち、他人の好を足蹴にする、決して関わりたくないと感じる分類に入る人物像そのものだった。本人も他者との関わり合いに煩わしさを覚えているようで、いつでも人を寄せ付けぬよう徹底していた。

 …だが眼前にいる彼は、並べた光景のどれにも当てはまらなかった。手応えなど、まるであったものではない。

 いったいこれは、果たして何者なのだろうか。

「留めるのは、観客の眼でなければならない。…という決まりは、どこにも、…ない。」

 ーーーまさしい“舞台上の役者”とやらにでも、なっているつもりなのだろうか。

「…さぁ、時間だ。」

 彼が両手を広げた瞬間。突如としてゴゥッ、という唸り声が上がった。すべてを浚っていきそうなとてつもない強風が、大きな津波のように押し寄せてきた。勢いに飲まれれば、体は容易く後ろへ飛ばされてしまいそうだ。吹きすさぶ風に男性は帽子を押さえる。コートの裾がバサバサと音を発て荒々しく暴れた。

 烈はふっと重心を崩し、そしてフェンスの向こう側へと落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る