第二章 ムラサキカガミ
第1話
自習の時間。これがはっきり言ってしんどい。
勉強嫌いな柳地にとって地獄である。何をすればいいのかがまず良くわからない。漢字ドリルとにらめっこする。物事を良く覚えられるのに、どうしてか漢字とか勉強に関する語句とかは、一度見ただけでは覚えられないのだ。自分のことを一番自分が知っているはずだが、そこのところが良くわからない。
出会って1年、4年生になった柳地たちは、クラス替えがないので同じメンバーである。そして、1回目の席替えでまた栞と隣になった。去年の席替えですら、隣になるのが2回もあったのだ。また柳地? って顔をされたのを覚えている。
あれからすっかり、栞は怪談話にはまった。暇さえあれば、怖い話はないか聞いてくる。正直言ってネタ切れだ。でもがっかりさせたくなくて、新しい怪談話の本を買う。で、それを貸す。その繰り返しだ。
早く自習が終わって欲しい。そして次の図工の時間を楽しみたい。そう思って無意識のうちに貧乏揺すりをしていた。
「ちょっと揺らさないで」
栞に足を叩かれた。
柳地が栞の方を見る。栞は、真剣に漢字ドリルに取り組んでいる。対して柳地は全く手が動かない。栞は勉強ができる子だ。それに体育だってできる。スイミングスクールで進級こそしたものの、栞は既に上の級に上がってしまっていた。
「何でもできるんだなこの子…」
周りの誰にも聞きとられないような小さな声で、柳地はそう呟いた。
「ん? 何か言った?」
栞が反応した。
「何でもないよ」
とだけ柳地は返した。何とかして栞の気を引きたいが、どうすればいいものか…。ここは得意の虫知識を披露するか。
「あのさあ」
「何?」
「世界で1番人を殺してる虫って何かわかる?」
栞は少し考えて答えた。
「…蜂?」
やっぱりそう答えるよなあ。毒が強いし攻撃的ってイメージがある。
「ブッブー。正解は蚊だよ」
蚊はいろんなウイルスを媒介する。それが原因で、アフリカや南アメリカでたくさんの人が病死している。柳地は毎年蚊に刺されるが、これが日本で本当によかったと思う。
「ふうん。そうなんだ」
あれ? 何か反応が冷たいなあ…。ちょっとがっかり。
「そんなことよりも早く漢字ドリルやったら? さっきから1ページも進んでないんじゃない?」
言われてみればそうだ。この自習時間中、先生に言われたところまで進めないと宿題になる。それが面倒なので柳地は漢字ドリルを進めることにした。
でも、同じ漢字を書き続けるのはつまらない。来週漢字テストのようだが、土日にちょっとやればいい気もする。小学4年生の漢字なんて難しくない。自分の名前の漢字の方がよっぽど覚えづらい。
「手首」
急に栞が語りかけてきた。
「えっ?」
「だから手首!」
言われて手首を見る。鉛筆の黒鉛が擦れて真っ黒けになっていた。夢中で気付かなかった…。
「これ、どーすんの?」
左手で擦ってみた。すると黒鉛は左手に…。
「うあわ汚れた…」
「消しゴムで、消してみたら?」
言われた通りにしてみた。まず、消しゴムで左手を擦る。手のひらの汗で消しづらいがなんとか汚れは消せた。
次に右手の汚れを消す。力の加減が上手くできず、
「いてて」
必要以上に力を入れ過ぎて摩擦で皮膚が少し痛んだ。
「普通に水道で洗えばよかったかもね…」
「いやそれはよすよ、ボクは。あそこの石鹸は使いづらいし、爪に入りそうだし」
想像するだけで鳥肌が立ちそうだ。
「まあまあ。とにかく早くドリル、終わらせなよ。宿題増えるよ? 今日はスイミングスクールでしょう?」
「どうせ土日にやればいいよ。今日はスイミングから帰ったらドラえもん観て寝るよ。毎週そうしてるし」
栞とそんな会話をしていると自習時間は終わった。結局終わらなかった分は宿題となった。
次の図工の時間は各自、好きな物の絵を描けと言われた。課題を出された方が楽な気もするが、自由に描けるのも捨てがたい。
杉浦先生から画用紙をもらい、席に着く。
「さて…」
何を描こうかな。普通ならみんな悩むのだろう。でも自分はこういう時、テーマは既に決まっている。
柳地は机の中からポケットサイズの昆虫図鑑を取り出した。そして甲虫のページをめくる。導き出したのはクワガタの写真。ノコギリクワガタが一番好きだが、大アゴの部分が描きづらいので、ここはコクワガタにしよう。
「それ、貸してくれよ」
前の席の達也がそう言って柳地の昆虫図鑑を奪い取った。
「何するんだよ?」
「俺も、虫描く。けど、何描くか決めてねえんだ」
そう言いながら達也はページをめくる。
「しょうがないな」
コクワガタなら小2の時飼ったことがある。その時の記憶を掘り返すのは、柳地にとっては簡単なことだった。そして頭の中に浮かんだイメージを画用紙に鉛筆で下描きする。
「栞は何描くの?」
隣を覗く。栞は絵も上手い。今年もらった年賀状の干支の猿の絵が上手だった。
「ねえねえ何描いてるの?」
「完成してからの楽しみ。柳地も自分のを完成させなよ」
そうはぐらかされた。柳地は自分の画用紙に続きの下描きを描く。
だいたい3時間目も途中まで来た。そろそろ色を塗り始めなければこの絵が完成しない。
「達也、1度昆虫図鑑返してよ。コクワガタの色がわからない」
達也は無言である。
「どうしたの?」
達也の席を覗くと彼は震え声で、
「…アゲハチョウなんてやめておけばよかった…。カブトムシにすべきだった…」
「あーあ。アゲハチョウなんて無謀な」
それは今日絶対に完成しない。あの模様を全て、描くのはいくら時間があっても足りない気しかしない。現に達也は大まかなアゲハチョウの輪郭ぐらいしか描き終えていなかった。
「えーと、コクワガタのページは…」
すぐ見つかる。83ページだ。
「うーむこれは…」
黒、ではないのだが茶色というわけでもない。表現しづらい色だ。
「じゃあ混ぜちゃうか」
黒と茶色の絵具をパレットに出し、その2色を混ぜた。これまた表現しづらい色になったが、図鑑のコクワガタもそんな感じの色だし文句は言われないだろう。
栞の方を見た。
「ん? 何それ…」
そう口にしたが、それが何であるかは容易にわかる。頭に三角頭巾をし、体は真っ白で、足がない。幼稚園児が描きそうな、典型的な幽霊である。
「まだ完成してないのに見ないでよ!」
そう言われても、隣の席だから少し首を向けただけで見えてしまう。
「他に、何かなかったの? 洋子を見なよ。可愛らしい天使描いてるよ?」
「私からすれば、この幽霊の方が可愛いもん! 柳地だって虫ばっかりじゃん! 今年の干支が何か知ってる? テントウムシなわけないでしょ!」
「…」
確かに年賀状には猿と別にテントウムシを描いた。だが悪気があったのではなく、短時間で多くの年賀状に絵を描かなければいけなかったので簡単だと思ったからだ。
「んでもって、また虫なんだね。よく飽きないね~」
「そりゃあ、飽きないよ。だって好きだもん」
「私もそういう理由。だから描いてるの!」
なるほどね。でも、幽霊の色が白一色ってちょっと手抜きじゃない? そう思ったが栞と口喧嘩はしたくなかったので言わなかった。
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