第6話

「……?」


 ふと、足を止める。

 丘陵を抜けてからしばらく歩いた森の中、俺は辺りを見渡す。


「(妙だな)」


 俺の記憶が正しければ、この森はそれほど大きな森ではなかった。そろそろ森を抜けても良い頃だというのに、未だ森の果てが見えない。それどころか、より深く鬱蒼としてきているような気さえする。道を間違えたか?いや、間違えるほど複雑な道のりではなかったはず。


 ここは、ヴィヴィアンの巣がある丘陵地帯と、霧の谷がある山岳地帯との間にある森。迂回しようと思うと少し面倒なのだが、今からでも引き返すか。何となく、嫌な予感がする。


「待て、リリア。何か――」


 すっと、リリアが俺の横を通り過ぎる。どこかぽやっとした、何事もないときの表情を浮かべたまま、歩いてゆく。てこてこと、のんびりと、その背が遠ざかる。


「お、おい。リリア?」


 リリアは周りをきょろきょろと眺めながら、歩いてゆく。歩き続ける。まるで、俺の声など聞こえていないかのように。


「おい、待てよ。リリア。待てって」


 俺はその肩に手を伸ばすも、俺の手は虚しく虚空を掴む。そこには、何も居ない。瞬きをすると、リリアは俺の真横に立っていた。


「リリア」


「はい。ギルバートさま」


 背後から聞こえた声に、振り返る。リリアはそこにいた。


「リリア……?」


「なんだか静かですね。ギルバートさま」


 リリアは何気もなくそう言うが、その顔は俺の方を見ていない。何もない虚空をじっと見つめて、えへへと笑う。いつも俺を癒やしてくれるその笑顔に、その声に、胸がざわつく。顔に冷や汗が伝う。俺は半ば呆然としたまま、その肩を掴んだ。


「リリア!大丈夫か。しっかりしろ」


 木が折れる音に、ハッとする。気がつくと俺は木の枝を握っていて、目の前には立ち枯れた木が静かに俺を見下ろしていた。周りの木々も、全て枯れている。青々と茂る森はなく、落ち葉すらも朽ち果てて、白く乾いた森が、どこまでも。どこまでも。


「待ってください。ギルバートさま」


 白い森の中、リリアがどこかへと走ってゆく。俺は一歩も動いていないというのに、リリアは俺を追いかけて走ってゆく。


「待て!リリア!!」


「ギルバートさま」


 振り返る。そこにはリリアが立っている。にこりと笑って、俺を見ている。


「リリア?」


「ギルバートさま。ぎゅうってしてください」


 息が詰まる。リリアは俺の返事を待たずにぎゅっと身を寄せ、俺を抱きしめる。裾がぐいっと引かれる。振り返ると、リリアがもう一人。二人。三人。木陰から顔を出し、地面から起き上がり、空から落ちてきて、いくつもの瞳が俺を見る。そこには、数え切れないほどのリリアが立っていた。


「ギルバートさま」


「ギルバートさま」


 いくつもの声が重なり、脳裏に響く。

 ぎゅうぎゅうと詰め寄ってくるたくさんのリリアが、俺の顔に手を伸ばす。俺の服を、俺の手を引く。互いの体を踏み合って、俺の体によじ登る。まずい。これはまずい。何だ、これは。何なんだ、これは。視界が揺らぎ、喉が締まる。目が回る。やがて俺の視界は黒く塗り潰され、俺はリリアに飲み込まれる。




「つかまえた」



 その声に、ハッとする。気がつくと俺は、七色の海に浮かんでいた。ふかふかと柔らかな、毛布の海にぼうっと四肢を投げ出して、遥か天井を見ていた。


「……」


 柔らかい毛布。甘い匂い。壁も、果てもなく、どこまでも続く布団の海に身を横たえたまま、俺は息を吐く。ここはどこだ。俺は何をしている。どこで、何をすれば良いんだっけ。ダメだ。よくわからない。何をするべきだったのか、思い出せない。俺は一体、何を。


「なにもしなくて、いいよ」


 甘くとろけるような、優しい声。俺の顔を覗き込んだ女の子が、にこりと笑って俺の頬に手を添える。


 息を呑む。そこに居たのは、とてもとても美しく可愛らしい女の子。そんなありきたりな言葉でしか表現出来ない自分が恨めしくなるほどに、愛らしい笑顔。暖かな手。布団の海に広がる淡いピンク色の髪はふわふわとしていて、甘い匂いがする。思わず、顔が緩んだ。


「いっしょに、ねよ?」


 ぽふんと俺の横に身を横たえ、俺を抱きしめる。リリアよりも小さな、それでいて暖かい抱擁。俺は無意識のうちに、その大きく広がる柔らかな髪ごしにその肩を抱いていた。


「きもちい、ね?」


「……そう、ですね……ララ様」


 自らの口から出たその言葉に、ハッとする。俺は今、何を口にした?そうですね、と、いや違う。名前。俺は今、彼女の名前を呼んだのか?


 自分が何か、とんでもないことを口にしたような、そんな錯覚が胸の奥をちくちくと刺す。どこかで、聞いたような。だけど、よくわからない。組み立てようとした思考は脳裏で溶けて、やがて全てを包み込むような心地よさだけが残る。俺は、何をしているんだ。わからない。だけど、気持ちいい。


「(眠い……)」


 暖かくて。柔らかくて。ただ、気持ちよくて。やがて意識すらも脳裏に寝そべり、瞼が重くなる。



「……」



 そうして、俺が目を閉じようとしたその時。



 何か、大きな音が聞こえた。



 どこからか、何か大きなものを叩きつけるような音が、何度も。何度も。その音は段々と大きくなって、やがて布団の海がざわめく。大きく揺れて、波打つ。心地よいまどろみに喧しいノイズが混ざり込み、俺は目を開く。ハッとして身を起こすと、壁も果ても見えない暗闇にとてつもなく巨大な一つ目が覗いていた。


 巨大な目の中に、浮かび上がる無数の紋様。ぐりぐりと蠢いて瞬く、いくつもの輝き。その全てが、俺を、俺の横に寝そべるそれを見つめている。俺は、声を上げることすら出来なかった。


「やだ……おきちゃ、だめ……いっしょに、ねるの……」


 ぐいぐいと、俺の腕が引っ張られる。だが俺は、暗闇に浮かぶその瞳から目を離すことが出来ない。寝そべることは、許されない。



「あ"っ」



 俺の横を掠めた何かが、布団の海に突き刺さる。俺の背後に飛び散る水音と、響き渡る悲鳴。振り返ることは許されず、俺はただ巨大な瞳と見つめ合う。



「っ……いたい……いたいよ……ぁぁあ、あぁ……」



 涙混じりのその声が、遠ざかってゆく。

 布団の海は黒い泥となり、辺りは一面の暗闇に飲み込まれる。


 意識が闇に溶けるその瞬間まで、俺は、その瞳から目を離すことが出来なかった。

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