あたしは絶対あいつを振り向かせる!
緋色凪
第一話
「あ~あ、サイヤク。すっかり遅くなっちゃったし」
更衣室で一人着替えている
昼休み、ギャル友達と駄弁ってるのに夢中になってしまったのが原因だ。
「なんでよりにもよって五時限目が体育なのよ」
(体操服になるだけなら早いんだけど、普通のブラだと胸が痛むからなー。でもバスケ好きだからサボりたくないし)
ボタンを外し終えたブラウスをハンガーに掛ける。瑞々しい褐色の肌は手足だけでなく、引き締まったお腹や、背中も同色だった。
後ろに手を回して白いブラのホックを外す。
そして、大きい胸が露わになったのと、更衣室の扉が開いたのはほぼ同時だった。
「――は?」
開いた扉から入ってきた人物を見た、奈津海の第一声である。
前髪で目が隠れ、どこか陰気さ漂う。学ランを着てズボンを履いた人物はまさに
「ちょっと! 早く出ていきなさいよ!」
奈津海は、羞恥心や不安が綯い交ぜになった感情を怒りに変換してぶつける。
だが、男は出て行くどころか、室内に向かって前進し出した。
こちらに迫りくるのに呼応するように、奈津海も自然と後ずさる。
しかし、背中にロッカーの戸が当たって、逃げ場がないことを察してしまう。
(な、なんなのよ、この男は)
得体の知れない相手に竦み上がり、身体が言うことを効かない。
歩いてきた男は、手を伸ばせば届く距離で立ち止まった。
半裸の奈津海は、顔を強張らせ、目にはうっすら涙を浮かばせる。
「や、やめ……て」
観念したのか、思わず目を瞑った。
――唐突に、擦れ合う音が耳朶を打つ。
薄目で前方を確認。
すると、男はなぜか箒で床を掃いていた。
拍子抜けした奈津海は、安堵からか、床にぺたりと座り込んだ。
(そういえば昼休みの後って清掃時間だったっけ)
高校一年生の新学期になって一か月ほどの奈津海は、まだ新生活に慣れてないようだ。
(って、そんなことはどうでもいいのよ!)
裸身の上からブラウスを羽織り、ボタンをして立ち上がると、腰に手を当て目の前の不審人物に注意をした。
「なに平然と掃除してんのよ! ここ女子更衣室なのわかってんの?」
大声で叫んでいるのに、まるで反応が返ってこない。
――ふと、廊下の外から女子生徒たちの笑い声が聞こえた。
段々と大きくなる声量から予測するに、こっちに近づいているようだ。
「まずい、今入ってこられたら面倒くさいことになるじゃん」
未だ、箒で掃除を続ける危機感のない男に、奈津海は軽い頭痛を覚える。
(ああ、もうどうすればいいのよ!)
タイムリミットは残されていない中、彼女が下した決断は……
――…
女子生徒二人は更衣室の前にやって来ると、扉を開けた。
中に入り、手近なロッカー二つを利用する。
「じゃあ古典のハゲは温水で決まり!」
「アハハ。あのデコピンでKOできそうなザコキャラに合ってる〜」
どうやら先生にあだ名をつけ合うゲームで盛り上がっているようだ。
二人はブレザー、リボンにブラウスと脱いでいき、それぞれハンガーに引っ掛ける。
そんな光景をよそに、この女子更衣室には彼女らの他に、二人の先客が潜んでいた。
(げっ、あたしまで入る必要ないじゃん)
ロッカーの狭い隙間に互いの身体を密着させているのは、なにを隠そう奈津海と件の男子生徒だ。
互いの息遣いまでも伝わる至近距離。
ノーブラ状態の豊満な胸が、いやらしく形を変えている。
大半の男子は自身のリビドーを自制できないだろう。しかし、この男の表情には、欲の成分がまるで感じられなかった。
(こんなに最高のシチュエーションで喜ばないとかおかしくない?)
奈津海は、自分が女としての魅力がないと遠回し言われているようで、無性に腹が立った。
(まるで意思が存在していないみたい)
そんな感想を抱いた奈津海は、すぐにその発言を訂正することになる。
「あの、僕、なんでロッカーの中にいるんですか?」
今まで無反応だったばかりに、奈津海は面食らった。
「あ、あんたね~、誰のせいでこんな羽目になったと思ってるのよ」
出会ってから初めて会話が成立したことに妙な達成感がある一方、あまりの頓着のない発言に、頭突きでも食らわしたくなる。
「もしかして僕……でしょうか?」
「当たり前じゃない! あんたが女子更衣室に侵入してきたこと覚えてないの?」
「すみません。無意識によく考え事してしまうので……」
無表情で淡々と男は話す。
狭いロッカーで繰り広げられる小声での会話。
通気口も狭く、酸素が薄くなり、奈津海は貧血で意識が遠のきそうだった。
「ああ、もうダメ。暑くて死にそう」
「それなら早くここから出たほうがいいのでは?」
「……」
やばいキレそう。
軽薄なこの男に鋭利な目線を送る。相変わらず飄々とした表情に観念した奈津海は、溜息を吐いた。
「あ~もう、早く着換え終わんないの?」
ロッカーの通気口から覗き見ると、ようやくブラウスを着込み始めたところだった。
この男は微塵も動揺しないので、密着したこの状況に慣れてしまっている自分がいる。
しかし体調は悪化の一途で、足の力では身体を支えられなくなってきた。
「ちょっとやばいかも」
視界までも薄れてきて、目の前の男の顔が霞む。
(あっ)
と思ったときには遅かった。
ロッカーの戸が、開いた反動で隣の戸に叩き付けられ、甲高い破裂音が鳴り響く。
ロッカーから勢いよく飛び出してしまった奈津海は、肩から地面に激突。
「「キャーーーー!!」」
二人分の絶叫がけたたましくこだました。
そんな超音波の金切り声も、意識が薄れるとともに小さくなっていった。
――…
身体が揺れ動く。
一定のリズム感でトン、トン、トンと。
母の背中におんぶされているような安心感が、胸の内側を満たす。
自分がおんぶしてもらう年ではないことと、母の背中はここまで広くないことを思い至った奈津海は、違和感に目を見開いた。
眼前には黒髪を生やした誰かの後頭部が見える。
視界の両端には、廊下であることを裏付ける窓ガラスや教室の扉が、後ろにゆっくり流れていっている。
「誰よあんた、なんであたしをおんぶして――」
言い切るより前に、更衣室での出来事と男の顔が再生される。
「あんた、あのときの変質者じゃない! よくも、あたしの着換えを堂々と覗いたわね! 一発殴らないと、気が済まないわ」
足の拘束を強引にほどいて、地に降り立った奈津海は、進行方向に先回りした。
そのまま歩いてくる男の胸倉を掴もうとしたのだが、直前になってためらった。
「あんた、どうしてケガしてるのよ!?」
顔には痣があり、唇の端には血が滲んだような跡がある。
「…………あ、目を覚まされましたか」
「質問に答えなさい。その傷は誰にやられたの!?」
「傷? ああ、さっきまでいた更衣室で、女子の二人組に……」
ロッカーの通気口から見た二人の姿を奈津海は思い出した。
「自業自得ではあるけどやりすぎよ、いくらなんでも」
「もう痛みも引いてるんで、大丈夫です」
確かに事情を知らない彼女らからすれば、覗き魔以外の何者でもない。
奈津海があの場にいられれば、取り成すこともできただろうに。
妙なレッテルを貼られなければいいが。
「そういえば、あんたが女子更衣室に入ってきたのって、考え事していたからとか言わなかった? 百歩譲って不注意だとして、あれってどういうこと?」
「昔からの癖で、よく妄想にふけってしまうんです。集中力が持続しないといいますか、気が付くと現実から妄想空間に視点が移動している、といった感じで」
「無意識で女子更衣室に入るんだから重篤な病気じゃない。よく今まで生きてこれたわね」
「過去に何度か危ない場面もありましたが、なんとか生きています」
「ちなみにどんな妄想をしてんの?」
「ついさっきまで流れていたのは、昨夜やった美少女ゲーム『萌え色学園生徒会~会長様は男の娘~』のメインヒロイン有栖川アリスの個別ルートを攻略していました」
「……ええっと、よくわかんないだけど、あんたってオタクなの?」
「まあ、そうよく呼称されますね」
オタクに対して偏見は持っていない奈津海でも、許容の域を越えて引いていた。
廊下のど真ん中で話していた奈津海は、不意にグラウンドで授業を行う生徒が目に入る。
とてつもなく嫌な予感がした。
すぐにスカートのポケットからスマホを取り出した。
「あ~あ。もうとっくに五時限目始まってるし。もうバックレよっと」
体育を楽しみにしていた奈津海は、残念そうに肩を落とした。
「あたしは大丈夫だからあんたは保健室行った方がいいよ。それじゃ」
身を翻した奈津海は、彼の側を通って元来た道を戻ろうとするも、何かを伝え忘れたのか、バックしてきた。
「そういえばあんたの名前聞いてなかったわ」
「僕は
「何年何組?」
「一年B組です」
「なんだ、タメじゃんか」
ニヤリと含み笑いを浮かべたその直後、奈津海はグイッと顔を近づけ、挑戦的な目つきで、
「あたしの名前は海野奈津海。あたしの裸を見た罪、償ってもらうから」
そう言い残し、今度こそ立ち去った。
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