フォーリンダウン
篠岡遼佳
未来への唱歌
ああ、何もかもうまくいかない。
私は服を脱ぎ捨てながら、部屋の電気を付けず、カーテンと窓を開けた。
夜とはいえそれなりに明るい。少し空を覗くと、まん丸のお月さまが見えた。
はあ。きれいなものを見ても、ただただため息。
仕事はイマイチ合わないし、だから残業ばっかり増える。学生時代から孤立しがちだったけど、社会に出てからの人付き合いの方が難しいものだとは。
先日、花見の席での一発芸を失敗してから、もう私は無言で仕事をするしかなくなっていた。やめたい。すごくやめたい。同期も上司も、隣にいるのに誰も助けてくれなかったし。
メイクを落としながら、そういえば今日の朝、鏡を踏んで割ったことを思い出す。もう最悪だ。慌ててそのへんにものを置いておくからこうなる。
鏡を見ると、実際の自分の顔にひびが入っているようにみえる。不吉だ。
部屋着に着替え、缶チューハイを冷蔵庫から出し、ベランダに出る。
自分自身をなんとかするのは自分しかいないことはわかっている。
……だとすれば、この八階のベランダから、このまま飛び降りれば、すごく楽になれるはずなんだけど……。
そう、私がウツウツと手すりに寄りかかりながら缶を開けた、そのとき。
ぷぷーーっ ぷぷぷーーっ
急に夜空から気の抜けたサイレンが鳴った。
サイレン、というのもおこがましい。金管楽器を吹けない人が無理矢理吹いたような音だ。
ただ、それは確かに夜空から聞こえた。
何ごとかと思ったとき、
「は~、もう、日本遠いです~。極東ってほんとですね! はじっこ過ぎ!」
知らない女の子の声と共に、目の前が急に真っ白になった。
羽音がする。真っ白なのは……鳥の翼……?
「よっこいしょ」
私の隣にその子は降り立った。私より背は小さく、十代くらいに見えた。
鮮やかな金髪に、空色の瞳。ゆるいワンピースのようなものを着て、頭の上には、なにやら光る輪がある。そして、背中から生えてるとしか考えられない、その翼。
見た目は、完璧に天使だった。
「はいどーも~、そうです、あなたがいま思ったとおり、わたしは天使です~」
にっこり、柔らかく、天使の微笑みで彼女は言った。
「まったく、こまっちゃいますよ。だめじゃないですか~、急に死のうとか思っちゃ。慌ててきたから忘れ物があるかも知れませんよ、まったくもう」
完全に意味不明だ。というか、いいのか、この現実を受け入れて。
天使だぞ? まだチューハイ飲んでないけど酔ってるのか? 仕事の疲れか??
「どれでもないですね~」
と、あからさまに私の思考を勝手に読んで、天使はまだ微笑む。
「わたしはあなたに『救い』をもたらしにやってきました」
『救い』……?
「あのー、ちょっとその、そういうお話は遠慮してるんですけれど」
時たまやってくる訪問者に対するように、私は距離を取ろうとした。
「なにをいうんです! そういうのとは違います。だって、『救いをもたらす御使い』がここにいるじゃないですか」
彼女は私の手を取り、自分の頭をぽんぽんと触らせた。
つややかな髪の感触がよくわかる。ううん、本物なのか……。
「で、じゃあ、………その、『救い』ってなによ」
「あなたを救うんです。ま、簡単に言うとお願いを聞くってところですかね~」
「お願い?」
「そうです、なんでも言ってみて下さい、それを叶えるのが『救い』の一部です」
「現金5000兆円」
私が即答すると、彼女は眉を下げて手を振り、
「あー、そういうのはだめです。管轄外です。ギャンブルとか全部だめです」
私は思わず声を上げる。
「じゃあ何ができんのよ! 世の中お金以外になにがあるってぇの?」
相変わらず笑ったままの彼女は、さらっと言った。
「さっきの続きとかどうですか?」
「さっき?」
「飛び降りのお手伝いならできますけど」
「――――」
天使だっていうのに何を言っているんだ、この娘さんは。
「……いや、本気で死にたいわけじゃないし……」
「でも、人生って辛いですよね? 失敗に叱責、辛いですよね?」
「…………ほんとに、殺してくれるの?」
「えへ、すいません、実はそれもできないんです。先に言おうと思って」
天使は笑顔で言う。床に落ちた、割れた鏡に映るいびつできれいな微笑みで。
「生きることは苦しいこと、辛いこと、失うことの連続です。
しかしそれをまっとうするのが、あなたに、全人類に課せられた使命です」
つまり、わたしが見張ってる以上~、自殺はできませんよ、残念でした~。
なぜか顔の横で両手のひらを広げるポーズをしながら言う天使。
……完全に道が絶たれてしまった。
私は缶チューハイを一口飲み、
「あのさ、そういう救いがないならどうすればいいわけ? すごく困るんだけど」
「天使と悪魔の違いってご存じですか?」
「いや、知らないけど……」
また話が飛んだぞ。この子、天使やってて大丈夫か?
彼女は少々真面目な顔に戻って、人差し指を立てて言う。
「悪魔は、これまでに起こったことを変化させ、天使は、これから起こることを制御するんです」
「……ふうん、つまり、あんたは未来に起こることしかなんとかできないってこと」
「そうです、未来を私は保証します」
「未来を保証する」
「はい、あなたが生きていく世界を、制御して、保証します」
――明日に何が起こるか、誰にもわからない。
戦争はどこでもやっている、天災はどこでも起こる。
ずっと続くものなんてない。常識も当たり前も通じないときだってある。
みんな知っていることだ。
そうだ、彼氏のことだって。
彼に振られたときだって、そんなそぶり全然わからなかった。
ずっと一緒にいようね、なんて言ってたのに。
別れる理由さえわからなかった。
私は何度別れを超えて、傷を付けて、生きていかなきゃいけないんだろうか。
天使はそれを、人生をまっとうすること、と言った。
決められた時間を、必死で生きること。
私が投げだしたいこと。
けど、自分の人生は、自分でなんとかしなきゃいけない。
明日を呼ぶのは昨日の自分なのだ。
自分の人生は、自分のためにしかないと、
何が起こるかわからないからいつもそう思うように人間はできてるんじゃないか?
そして、
未来が必ずあるとしたら?
明日は必ずやってくるとしたら?
天使はまた私の思考を読んで、にっこりと笑う。
「そうですよ~、絶対にある明日のために、あなたはなんだってできるんですよ~。思い出して、くれましたか?」
そして、右手を私に差し出してきた。
「わたしと一緒に未来へ行きませんか? ひとりより、ふたりですよ」
――月夜に、ベランダの手すりに座った彼女の歌が響いている。
天使と言うだけあって上手だ。
けど、彼女は悪魔でもなく、ひょっとすると天使でもないかもしれない。
ただ、わかっていることは、彼女は、恐怖も絶望も可能性も平等に存在する、「未来への希望」そのものだということだ。
私は明日の準備をするために、彼女に声をかける。
「私は寒いから風呂に入るけど」
「いいですね~、あ、あとわたしにもチューハイ下さい」
「未成年でしょ、あんた」
「天使ですから、そこはそれということで~」
ひとりよりふたりの未来が待っているなら、別ればかりの世界も、悪くはないかも知れない。
私は彼女の頭をなでながら、なんでもない日々が続くことを、こっそり祈った。
フォーリンダウン 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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