第93話『縛り』
大学内の食堂にて、少し遅めの昼食を済ませた僕と理沙が食後のコーヒーに口をつけはじめた頃、ようやく姉が帰ってきた。
「ごめん、待たせて」
先程まで、大量のサインを書いていたからだろうか、姉の顔には少し疲労の色が見て取れる。
「いや、待ってないから」
ちょっとランチをしていただけだ。
「お腹空いたー。哲也と理沙ちゃんは何を食べたの?」
僕の一言を意に介さず、姉は楽しげにそう言った。
「はい、これ」
姉の質問には答えず、僕は事前に買っておいた食券を渡す。
「日替わりランチB?」
姉が食券に印刷された文字を読み上げる。
「今日はオムライスとカニクリームコロッケにデザートがミルクレープだから」
今日のラインナップならば、姉は間違いなくこのメニューにするだろう。時間効率の為にも、事前に買っておいたのだ。
「ありがと」
姉は短くそう答えて、小さな食券を片手に、食堂のおばさんの元へと歩く。姉のことに気づいた他の学生達は、遠巻きから彼女の様子を見ているようだ。
それにしても嬉しそうな笑顔だな。お腹の空き具合は完璧なのだろう。
「よっぽど、お腹空いてたんだな」
普段もあれくらい分かりやすければいいのだが。
「嬉しかったんだよ」
正面に座る理沙が、食堂の列に並んでいる姉を見つめながら言った。
「まぁ、姉さんにとっては、日本の大学の食堂は新鮮で物珍しいだろうからね」
それに、日本の食に関するレベルは非常に高い水準にあるからな。
「哲也は時折、馬鹿になるよね」
小さな溜め息の後に、理沙が静かに呟いた。
「え?」
いわれのない唐突な罵倒に、思わず疑問符が溢れ出す。
「まぁ、そこも含めての哲也だからね。難儀なものね」
勝手に一人で納得した様子の理沙が言った。
何か言い返そうと僕が口を開きかけたタイミングで、トレーにランチセットを載せた姉が戻ってきた。そのままトレーをテーブルへと置き、僕の隣りに腰掛ける姉。
「いただきます」
彼女はそう言ってすぐに、銀色のスプーンでオムライスを頬張りはじめた。
「どう?」
勝手にメニューを決めた責任感からか、一応、感想を聞く僕。
「美味しい」
そう言って、笑みをこぼす姉。今日は終始機嫌が良いな。なんだか、逆に不安を感じる程だ。
それから数分、姉がひたすらに食事をするシーンを僕と理沙がただ見守るという謎の時間が発生した。
「ごちそうさま」
姉はミルクレープの最後の一欠片を噛み締めると、幸せそうにそう言った。
「昔から頭を使った後は、急激に甘いものを食べたがるよね?」
姉は、大の甘党であり、頭を使った直後は、それがより顕著に表れる。
「私の頭脳が糖分を欲するのよ。じゃあ、ここで問題です。脳の重さは身体全体の何%でしょうか?」
唐突に姉が問いかけてくる。
「はい、およそ、2%程です」
姉の問いかけに、すぐさま答える理沙。
「そう、脳はそれだけの重さしかないのに、摂取カロリーの20%から30%は消費するのよ? それに脳がエネルギーに出来るのは、ブドウ糖だけなのだから、糖分は必要不可欠なのよ」
まぁ、確かにブドウ糖は炭水化物や糖分を分解してつくられるのは事実だが、ここでムキになる必要はあるのだろうか? それこそ、現在進行形で脳のエネルギーは消費されていることだろう。
「それに、身体はエネルギーの貯蓄が出来るけれど、脳にはそれが出来ないのよ。だから、最高のパフォーマンスをするには、適宜、糖分を送り込まないとね?」
やや早口ぎみで、説明をする姉。
「甘党であることをそうまでして、理屈で押さえ込むなよ」
僕はそう言いながらも、姉の口元についた生クリームを紙ナプキンで拭き取る。
「希美さんと哲也って本当に姉弟なのよね……」
少し引きつった表情の理沙が言った。
何か変な事があったのだろうか?
「不本意ながらね」
僕は皮肉交じりに答えた。
「あら、私だって、不本意よ?」
姉のこの発言に、何故だか少し、複雑な表情を浮かべた理沙。
「そう言えば哲也、私の講義の後半、ちゃんと聞いてなかったわね? 実の姉の話をほっぽり出してまで、何を考えていたわけ?」
あんな、広い講堂でよく僕一人の表情に気がついたな。
「機械と人間の違いはなんだろうと思ってさ」
確か、そんなことを、ぼんやりと考えていた。
「愛だよ」
まるで答えを用意していたかのように、一瞬の間を空けることなく、即答した姉。
「随分と抽象的なことを言い切るね?」
「優れた機械は間違うことがない。勘違いや、すれ違い、誤作動がなければ、愛は成り立たないからね。愛はいつだって、あやまちなの。だから人間は愛を覚えてしまい、機械は愛を覚えずにすむのよ」
過ちであり、誤ちか。行き過ぎて、くい違う。
「機械に愛は学習出来ないと?」
アイと言う少女を知る僕には、とてもそうは思えないが。
「出来ないのではなく、縛られる必要がないんだよ」
まるで、自身はそれに縛られているかのように、小さな声でそっと呟く姉。この天才にも、誤作動とやらは起きるのだろうか。姉に誤作動を生じさせる人物がいるなら、一度お目にかかりたいものだ。
「含蓄のある言葉ですね。痛いくらいに」
理沙が姉の瞳をじっと見つめながら、囁く。
「ありがとう。理沙ちゃんは、やっぱり、私と似ているわね」
意味深な笑顔で、二人にしか分からないやりとりをする姉と理沙。
実の弟である僕ですら、理解出来ないこの姉と、短期間で通じ合いはじめている理沙。
二人を結びつける、共通点は一体、なんなのだろう?
いや、姉の言葉を借りるならば、この二人を縛りつけるものは、なんなのだろうか?
そんな益体もないことを考えながら、冷めたコーヒーを流し込む。
何だか少し、ほろ苦い。
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