第92話『遺伝子操作』

 久しぶりにこの天井を見た気がする。


 冬休み期間も終わり、今日からまた大学が始まる僕は、広々とした実家から、一人暮らしの狭いアパートへと戻って来ていた。まぁ、大学生と言う身分は不思議なもので、また二週間程大学に通えば、すぐに春休みが出迎えてくれる。日本の大学生には驚く程休みが与えられているのだ。


 僕はゆっくりと身体を起こし、身支度を整える。洗面台から流れる水の音が、ほんの少し心地良い。


 ふと疑問に思ったことがある。僕がこちらの世界にいる時のイデアはどうなっているのだろうか。僕(フィロス)の隣で寝ているであろうラルムや、オグル族の里で修行しているアンス王女やリザ。彼女達は今、何をしているのだろうか。


 そんな思考も束の間、僕は鞄を片手に家を出る。


 * * *


 久しぶりの大学内の講堂。いつもの席には先客が。


「おはよう、理沙」


 僕が声をかけると、手に持つ本から視線を上げ、こちらを見上げる理沙。


「おはよう、哲也」


「相変わらずはやいね」


 僕は彼女が扉を開けて講堂に入ってくる姿を見た事がない。理沙はいつも、僕より先に座っていて、分厚い本を読んでいる。


「えぇ、それに今日は特別な日だからね?」


 いつもよりも少しだけ浮ついた声音の理沙。


「え? 何かあったっけ?」


 特に思い当たる節はないが。


「聞いてないの?」


「何が?」


 僕は疑問を抱きながらも、そのまま彼女の隣の席へと腰かける。


 僕の問いかけに、意味深な笑顔を向けてくる理沙。


 その笑顔の意味を咀嚼しようと、頭を動かしはじめると、講堂内の扉が開き、外から井上教授が入ってきた。


「皆さん、お久しぶりですね。早速ですが、今日はスペシャルなゲスト講師をお呼びしていますよ」


 教壇の上のマイクを使い、開口一番に井上教授が言った。


「では、お入り下さい!」


 教授の言葉とともに、扉が開き、一人の女性が入ってき……。


 まさか、ゲスト講師とやらが身内だったとは……。


「知ってたのかい?」


 声のボリュームを下げ、僕は隣りに座る理沙へと問いかける。


「えぇ、本人からメールが来たから」


 小さな声で、淡々と答える理沙。その横顔は、平坦な声音とは裏腹にどこか楽しそうである。


「皆さん、はじめまして。新谷希美です」


 教壇に立ち、涼しい顔で自己紹介を済ませる姉。雑誌などで特集が組まれる程度には知名度のある彼女が話し始めると、講堂内は俄(にわ)かにざわついた。近くの席に座る女子学生が「綺麗」と呟き、息を呑む。まぁ、見てくれだけは良いからな……。


 まさか、うちの大学の教壇で、姉を見る日が来ようとは。普通は事前に、弟にメールの一つでもいれるものだろう。そんな文句が頭をよぎる中、姉がマイクを握り、話しはじめる。


「この中には知っている人もいるかも知れないけれど、私は、アメリカで遺伝子工学の研究を行なっています。哲学科の皆さんは重々承知だとは思いますが、哲学と遺伝子工学は、切っても切れない密接な関係にあります」


 確かに、現代哲学の中では、AIや環境破壊、格差社会に宗教対立などと並び、遺伝子工学については、常にホットな話題が飛び交っている。


「専門家の中には、遺伝子工学は人類を滅ぼす、なんて口にする人も多いです。その真偽は、人類が滅亡してみない事には解らないですが、今日はそんな、ロマン溢れる話を語りにきました」


 よそ行きの声音に着替えた姉が、それでもなお、姉らしいことを言っている。


「遺伝子技術が発達して、DNAの遺伝子操作が自由になれば、どんなことが起きるのか、みんなにも想像して欲しい」


 そう言って姉は少しの間、時間を設ける。

 隣りに座る理沙は、姉の言葉に真剣に頭を捻らせている。


「では、誰か、遺伝子操作によって起き得る一例をあげてくれる人はいるかな?」


 マイクを通した姉の声が講堂内に響き渡る。


 その声に反応した理沙が、誰よりも早く、真っ直ぐに手を挙げた。


「今の人間よりも高い知能を有し、優れた身体能力を持ち合わせる、新たな人類の創造などが考えられます」


 こんな衆人環視の中で、理沙が自ら手を挙げて発言する姿など、僕は初めて見た。



「うん、そうだろうね。遺伝子を操作出来るのであれば、より優秀な個体を生み出そうとするのは自然な流れだからね。じゃあ、その力を最初に手にする人達はどう言った人達かな?」


 大きな講堂内で、僕が良く知る二人の人物が会話を繰り広げている。


「最初に遺伝子操作の恩恵を受けるのは、お金持ちや政治家などの権力者ですかね」


 理沙がゆっくりと答える。


「あぁ、その通り。そして、格差は広がっていく。金を持つ人は自分の子どもを賢くしていくし、金を持たない人達の子孫は、進化の輪には加われない。そうして生まれた差異は争いを生む。いや、一方的な蹂躙だろう」


 ロマンのある話というお題目ではなかったか? 随分と暗い内容に思えるが。


 少しの間を空けて、再び姉が語りはじめる。


「私達人間には、自身よりも劣っている者に対して攻撃的になると言う特質がある。もし仮に、遺伝子操作を受けた人類にもその特質が受け継がれていたなら、それは、私達、旧式の人類が滅ぶ時かも知れない。まぁ、そもそも、その新しい種が、人類と呼べる生物なのかは、わからないけれどね」


 確かに姉の言う通りだ。遺伝子操作を行なった時点でその生物は、人間の延長線上のものでは無くなっているかも知れないのだ。


 我々、人間を人間足らしめているものとはなんだ? 直接的な意味での人間性とは一体なんなのだろうか?


 デカルトは、人間の身体も機械と同じようなものだと言っている。


 ならば、機械と人間を隔つ壁はなんだ?

 例えば、僕とアイとの違いはなんだろう。


 講義の後半はそんなことばかり考えていた。姉の話している内容は確かに面白い話ではあるが、彼女の論文の全てに目を通し、姉が出席したシンポジウムや講演会などのデータが残っている物に関しては全て視聴済みな僕にとっては、別段目新しい話ではなかった。


 まぁ、自分が通う大学に姉がいる状況自体が物珍しくはあるのだが。


 そんなことを考えていると、いつの間にやら時間は過ぎていたようで、姉が講義のまとめにかかっていた。


「最後にひとつ、遺伝子工学には先ほど述べたような、いわゆる種としてのリスクが山ほどあります。けれど、それ以上に、人類がもつ可能性を秘めています。遺伝子と環境をコントロール出来る時代は、はじまりつつあります。力も知識も使い方次第でその姿を変えます。これからの未来を担う皆さん、大いに学んでください。では、これにて、私の講義は終了します。ご静聴ありがとうございました」


 姉の最後の言葉には、沢山の拍手がおくられた。


 講義が終わり、姉の周囲には、行列が出来ていた。どうやら、姉にサインを貰うための行列らしい。世の中には物好きもいるものだ。


「希美さん、流石の人気ね」


 隣りに座る理沙が、教壇に立つ姉に視線を向けながら言った。羨望の色が見て取れるようだ。


「人間性を除けば、責めるべき点はないからね」


 まぁ、人が責められる時というのは往往にして、人間性の部分についてなのだが。


「あら、とても立派な人格者だと思うけれど」


 理沙が首を傾げて言った。


「そんなわけないだろ? まともな奴があそこまでの実績を残せるわけがない」


 姉の思考力は、卓越と言う範囲には収まらない。逸脱しているのだ。彼女は、群を抜いて優れているというよりも、もはや基準値から外れているのだ。

 卓越した秀才ではない。逸脱した天才なのだ。隣で育った僕が、その事を誰よりも知っている。秀才になるように育てられた僕と、天才として育ってきた姉。今でこそ慣れたが、仄暗い感情が全くないかと言われれば、難しいところだ。


 尊敬と劣等感。羨望と嫉妬。それらは、危いバランスの上で成り立っている。


「とても尊敬しているのね」


 理沙が柔らかな声音で言った。


「なんで、そんな結論になるのさ」


 不意をついた理沙からの投げかけに、何故だか反発している自分がいた。


 なんとなくの気恥ずかしさを感じつつも、僕は立ち上がり、出入り口の扉まで歩く。


「希美さんを待たなくていいの?」


 後ろからついてきた理沙が僕に問いかける。


「あぁ、どうせ、あの行列だし、まだ時間はかかるよ。だから先に食堂にでも行ってよう」


「なんだかんだ言っても、待ってあげるのね」


 からかう様な調子で理沙が軽口を叩く。


「いや、先に帰って、文句を言われたくないだけさ」


 姉の文句を聞く時間よりかは、姉を待つ時間の方が幾分かマシなだけである。


「よかった、希美さんが哲也のお姉さんで」


 そう語った理沙の表情は、僕の見たことがないものだった。明るいようで暗いような、幸せそうで、満たされていないような、ひどく、どっちつかずな面差しだ。


 その言葉の真意はわからないが、確かに、新谷希美が僕の姉でなければ、倉橋理沙は新谷希美と出会う事はなかったようにも思える。少なくとも、連絡先を交換する程の仲にはならなかっただろう。まぁ、そんな、に意味はない。新谷希美は僕の姉であり、僕は新谷希美の弟なのだから。遺伝子によって証明されるその繋がりが覆ることはない。それこそ、遺伝子操作を行ったとて、姉と弟という関係性が変わるわけではないのだから。

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