第76話『秘密』

「日本の大学が見てみたい」


 姉の気まぐれな発言で起こされた僕は、ゆっくりとベッドから腰を上げる。


「いや、今は冬休み期間だから、図書館くらいしかやっていないよ?」


 本音を言うならば、今日は家でゆっくりとしていたい気分だ。


「それでも良いよ。弟がどんな大学に通っているのかも気になるしね?」


「うーん、姉さんの思い描くようなキャンパスはおそらくないよ?」


 アメリカの超有名大学を卒業している姉にとっては日本の大学は少し手狭に感じるのではないだろうか?


「あら、私の想像にはないものがあるなんて、とても素敵じゃない」


 言葉の意味を正しく理解した上で、ズレた事を言っている。これは、僕の反応を楽しむ時の話し方だ……。


「まぁ、僕も、丁度調べたい事があるからいいよ」


 姉の言ったことを断る労力を考えれば、大学など余裕で往復出来る。むしろ、その方が楽だろう。そんな考えから、僕は気軽に返事をした。


「じゃあ、決まりね」


 姉の言葉をきっかけに、僕達は大学へと向かう事になった。


 * * *


 図書館内は珍しく閑散としている。それもその筈だ。今は冬休み期間で、大学内を訪れる物好きな学生は少ないのだろう。


「哲也、あれは何?」


 そう言って姉が指差したのは、小さなドアで区切られた、個人スペースのような場所だ。


「あぁ、中にはテレビがあって、受付でブルーレイディスクが借りられる仕組みなんだ。講義と講義の空き時間が長い学生は暇つぶしに映画を見たりするんだよ」


「こんなにたくさん本があるのに?」


 キョトンとした表情で首を傾げる姉。


 この姉は、世の中には本を読まない人種がいる事を知らないのかも知れない。


「映画から学べる事も多いからね」


「確かにね、久々に一緒に観ない?」


 そう言いながら、受け付けの方へ向かって歩いている姉。


「読みたい本があるんだけど……」


「後で借りれば良いじゃない?」


 そう言って映画のリストに目を通す姉。


「これだろ?」


 姉が作品名を言う前に先回りする僕。


「あら、懐かしいわね。うん、これにする」


 その作品は、僕らが小さな頃にビデオデッキで見ていたヒューマンドラマのアメリカ映画だ。


 ストーリーは確かこんな風だ。

 アメリカの有名大学の数学教授が代数的グラフ理論の難題を学生達に出すのだが、世界屈指の優秀な学生達でさえ、誰も答えを出せないでいた。しかし、大学の清掃員として雇われた青年が、廊下のホワイトボードに書かれたその難題をいとも簡単に解いた所から物語は始まる。自身の大きな才能に振り回されながらも、成長していく主人公の姿は印象的だった。


「私、この映画が好きで、あの大学を選んだのよ」


 そんな、好きなスポーツ漫画に憧れて部活動に入る中学生のようなノリで、日本を出たのかこの人は……。


「それは姉さんらしいね」


「褒め言葉かしら?」


「どちらにせよ、褒め言葉として受け取るんだろ?」


 僕がそう言うと、何故だか楽しそうに小さく微笑む姉だった。



 二人で小さなブースに入り、映画観賞を始める。いくら、ブース内が狭いからと言って、少し密着し過ぎな気もするが、小さな頃からの習慣で、映画を見る時はこうやって並んで、手を繋ぎながら見たものだ。まぁ、家族なのだから、そこまで不思議なことでもないだろう。他の家の兄弟のパターンを主観的に経験出来ない以上は、分からないことだが。


「ねぇ、このシーンだけは理解出来ないのだけれど」


 物語の冒頭でいきなり、再生を止める姉。


「え? 何が?」


 姉が理解出来ない程の難解なシーンなど、この映画には無いはずだが?


「この数学教授が出した代数的グラフ理論、簡単過ぎない? なんで、周りは解けないのかしら?」


 まさかの角度からの疑問だ……。


 姉はある意味、この映画を誰よりも楽しめているのかも知れない。普通の人はこの主人公の爛漫な天才性に驚きを感じながらも楽しむものだが、姉は違う。おそらく彼女は共感しているのだ。この天才青年の主人公に共感し、自己投影すらしているのだろう。本も映画も、その世界に入り込めるかが、その作品を楽しむ上での鍵だ。


 映画は終盤に差し掛かり、姉の瞳には薄っすらと涙が溜まっている。


 青年の大き過ぎる才能が、周りの大切で、平凡な人達を遠ざけてしまう……。


 僕もこのシーンには感動を覚えるが、姉の目には、より鮮明かつ主観的に見えているのだろうか。


 そんな思考がちらつきながらも、映画が終わり、僕達は二人揃って、ブースを出る。


「ねぇ、哲也、凄い見られているわよ?」


「え? 何が?」


 そう言って、姉の視線の先を追うと、そこには、大量の本を抱えたまま固まる理沙の姿が。


「え、哲也、どう言う事? まさか、え?」


 フリーズから解放された理沙が囁く。


「あぁ、姉だよ?」


「え? でも、え、手が?」


 繋いだまま離すのを忘れていた僕達の手に視線を移しながら理沙が言った。


「理沙は一人っ子だから、知らないかも知れないけれど、兄弟は映画を見る時は、どこもこんなものだよ?」


 まぁ、一人っ子なら知らないのも当然と言える。


「と言うか、その人、新谷希美さんよね? 姉? 哲也の? え?」


 かつてない動揺を見せる理沙。


「あれ、姉を知ってるの?」


「そりゃ、そうよ! 遺伝子工学の第一人者で、しかも美人。ファッション誌に載ることだってある人じゃない。何で今まで教えてくれなかったの?」


 普段の理沙からは考えられない程、興奮した口調だ。僕としてはそんな事よりも、理沙がファッション誌を読んでいることに驚きだ。


「そんな語る事でもないだろ?」


 家族のことを話したがる男は少ないと思う。


「えっと、その、倉橋理沙です。サイエンスの論文読みました。あの、希美さんが出ている雑誌は基本、全部集めています」


 いつもの歯切れの良さはどこへやら、理沙が珍しく、わたわたしながら、姉に話しかける。


 なるほど、ファッション誌を購読しているのではなく、姉の記事を集めていたのか。


「ありがとう、新谷希美です。哲也の姉をやっています」


 優しい声音で自己紹介をする姉。


「姉であることを職業みたいに言うなよ」


「私は研究者の前に姉だからね」


 あたかも名言を言ったかのように、少し満足気な表情を見せる姉。


「握手して貰ってもいいですか?」


 少し遠慮がちに姉に話しかける理沙。


「もちろん」


 そう言って理沙の手を握る姉。

 姉が初対面の相手にここまで優しいのは珍しい気がする。


「ありがとうございます」


 何がそんなに嬉しいのか、満面の笑みを浮かべている理沙。


「私から見れば、理沙さんが羨ましいよ、可能性が残されているのだから。私と違ってね?」


 姉はそう言って、意味深な笑顔と共にその言葉を理沙へと送った。


「その言葉は流石に年寄り臭いよ、そんな歳じゃないだろ?」


「そう言う意味じゃないのよ、哲也には一生わからないわ」


 何故だか少し、寂し気な表情を浮かべた姉がそう言った。


「可能性自体が、全く無くなる事は無いと思います! ましてや、希美さんは不可能と言われていた研究を可能にしてきたのですから」


 理沙の言葉に熱がこもる。


「ありがとう。なんだか、自分の事のように語るのね。きっと理沙さんも、私と同じなのね」


「え?」


 察しの良い理沙でさえ、少し困惑した様子だ。


「私達、きっと趣味が似ているわね。連絡先を交換しない?」


 姉が誰かを自分と似ているなどと評したのは、初めて見る。それに、プライベートな連絡先交換ともなると、天変地異の前触れかも知れない。


「は、はい!」


 急いで、カバンの中からスマホを取り出す理沙。


 無事連絡先は交換されたようで、姉が何やら理沙に文を送っているようだ。


 ピロリン、と言う音が鳴り、スマホの画面を確認する理沙。


「え?……」


 今日何度目とも知れない、理沙の動揺が漏れ出していた。


「しー」


 困惑する理沙に向かって、真っ直ぐ伸びた人差し指を口の前に持ってくる姉。

 その表情は、悪戯っ子が友達と秘密を共有する時のような、ワクワクとソワソワが混同した様子だった。


 まぁ、どちらにせよ、友達の少ない姉と、友達の少ない友達に、新たな友達が出来たことは喜ばしいことなのだろう。

 何も知らない僕は、素直にそう思うのであった。

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