第75話『チェックメイト』
ソピアさんが取り出した物の正体は、僕にとって馴染みある物だった。
「これはチェスですね……」
テーブルの上にはガラスで出来たチェス盤と、ランタンの火を受けて美しく輝く駒達が置かれている。
「チェス?」
ナイトの駒を指で掴みながら、訝し気な表情で問いかけてくるソピアさん。
「はい、この盤の上で、その駒達を動かしながら戦う遊戯です」
「なる程、遊戯だったのか。アリス・ステラの迷宮区から発見されたものだから、てっきり魔道具かと思っていたよ」
じっくりと駒達を観察しながらソピアさんが言った。
「これが迷宮区内にあったのですか?」
「いや、回収した現物は黒と白の石で出来た物だったよ。それを模して、私達がガラスで作ったものがこれさ」
その横顔は少しだけ、誇らしさを感じさせる。
「ルールを説明しますか?」
「あぁ、ちょっとこちらに来て貰えるかな」
「えっと、はい」
意図はわからないが、ひとまず彼女の言葉に従い、隣に並ぶ僕。
すると、顔をぐっと近づけてくるソピアさん。白く美しい小さな顔が一気に眼前まで迫る。
「え、あの、その」
そうして、しどろもどろしていると、彼女の額が僕の額と重なる。ソピアさんの少し冷たい体温が重なり合う額から伝わってくる。
「じゃあ、このチェスとやらのルールを思い浮かべてくれるかな?」
至近距離から聞こえてくる囁きが僕の鼓膜を揺らす。心臓の鼓動が早鐘を打っている。
動揺しながらもソピアさんの指示通り、頭の中にチェスのルールを思い浮かべる。
「ほぅ、なる程、シンプルに見えつつも奥の深いルールだね」
ゆっくりと額を離しながら、ソピアさんが言った。冷たい体温が離れていく感覚がほんの少し名残惜しくも感じる。
「今の一瞬で読み取ったのですか?」
「あぁ、ヘクセレイ族は身体接触の度合いによって精神魔法の効力が強まるのさ」
「なるほど、それで額を合わせたのですね」
「びっくりしたかい?」
悪戯っぽい微笑を浮かべながら、問いかけてくるソピアさん。
「えぇ、急だったもので少し驚きました」
「嘘だね」
「え?」
「君の精神の揺れは相当なものだったよ?」
そう言って彼女はからかうような笑顔を浮かべている。
まぁ、確かに、少しと言うにはいささか動揺し過ぎていたかも知れない。
僕は照れ隠しの意味も込めて、口を開く。
「では、チェスのルールは分かって貰えたようなので、対戦してみますか?」
僕はそう言いながら、盤に駒を並べる。
「じゃあ、先手は頂くよ」
ソピアさんがキングの前にあるポーンを前進させる。
「なぜその手を?」
初心者は端にあるポーンを動かしがちだが、さっきの一瞬で、僕の記憶にあるチェスの定跡まで読んだのだろうか?
「これは空間を支配するゲームなのだろ? なら、この手が支配図を広げるのにベストだと感じたのだが」
淡々と語るソピアさん。
「すみません。飲み込みの早さに驚いてしまっただけです」
なるほど、単純な思考力の高さからくる選択だったのか。
「では、続けよう」
ソピアさんのその言葉をきっかけに、黙々と駒を進め合う僕達。
互いの駒も少なくなり勝負は終盤に差し掛かっていた。形勢はほぼ互角。いや、僕の方が僅かに不利だ。まさか、初めてチェスをやる相手に追い詰められるとは……。
しかし、この局面は姉との対局で見たことがある。勝ち筋はまだ残っている。
「フィロス君、髪に塵が付いているよ」
僕が手順を確認していると、正面に座っているソピアさんが僕の頭に触れる。
「あ、すみません、ありがとうございます」
「君はとても賢いのに、少し警戒心が薄いようだね?」
そう言ってソピアさんがビショップの駒を動かす。
「はぁ、僕の負けですね……」
「敗因には気づいているんだろ?」
「最後の一手は精神魔法で僕の手を読んだのですね?」
ソピアさんの細長い指が僕の頭に触れた瞬間、僅かだが精神魔法による干渉を感じた。
「いや、一手目の瞬間から覗かせて貰っていたよ」
妖艶さと無邪気さが同居した不思議な微笑を浮かべながら、ソピアさんが言った。
「あれ、最後以外は触れられた記憶はないのですが?」
「身体接触はあくまで、精神魔法の精度を上げるだけだからね。勿論、普通に使うことも出来るのさ」
涼しい顔で淡々と言うソピアさん。
なるほど、通りでことごとく作戦が潰されるわけだ……。
「僕はこれでも精神魔法への耐性は高いはずなんですけれど」
ここまで手を読まれてしまったのは、正直悔しい。
「単純な理屈だよ。フィロス君は盤上の動きにだけ集中しきっていたからね。逆に私は君の心の機微にだけ集中していたよ」
種明かしを始めたソピアさん。
「なるほど、盤上だけを見ていた僕は、相手を見られていなかったのですね」
駒を動かすのは人間なのに、僕は盤上の情報だけを頼りに勝負して負けたのか。
「もう一戦どうですか?」
「あぁ、もちろん。君も案外負けず嫌いなんだね?」
そう言ってソピアさんが意外そうに笑う。
「では、失礼します」
僕はそう言って、しれっと先手を指す。
次は精神魔法を警戒しつつ、しっかりと局面を見極めよう。
静かな部屋に駒音だけが響く。
文字通りの心理戦が始まった。盤上での心理戦と精神魔法による盤外戦術、二つの読み合いを高速で切り替えながら進行していく対局。
絶妙な拮抗状態が続いていたが、僕の勝負手が決まった。
「チェックメイト」
なんとか二連敗は避ける事ができた。
「ねぇ、フィロス君、最後にもう一戦だけどうかな?」
涼しい表情を見せながらも、負けず嫌いの片鱗を見せるソピアさん。
その後、僕達は交互に勝ち負けを繰り返し、最後の一戦と言う名の終わりの見えない戦いを二十戦程繰り返すことになった。
「ステイルメイトですね……」
二十一戦目にしてようやく、盤上に引き分けの図が出来上がった。
「少々長くなってしまったね。君のことを心配して、アンスちゃん達が部屋の扉の前まで来ているようだ」
精神魔法で察知したのか、ソピアさんが扉の方に視線をやる。
「では、今日はここまでにしますか」
少しばかり、チェスに夢中になり過ぎてしまった。
ソピアさんの後に続いて部屋の外に出ると、そこには、そわそわした様子のアンス王女が。
「ず、随分と時間がかかっていたみたいね?」
何故だか、少し不安そうな顔で問いかけてくるアンス王女。その後ろには、アイとラルムもいるようだ。
「フィロス君があまりにも情熱的でね、少しばかり長引いてしまったよ」
含みのある言い方をするソピアさん。
「ちょっと、フィロス!?」
顔を真っ赤にして詰め寄ってくるアンス王女。
「ソピアさん、誤解を招く発言は止めてください」
「誤解かどうか、みんなで記憶を確かめるかい?」
ソピアさんはそう言いながら、僕の手を握る。するとその瞬間、精神魔法が干渉してくる感覚が……。
脳内に再生されるのは、先程の部屋での記憶。僕がソピアさんと額を合わせているシーンだ……。
普段は色彩豊かなラルムの瞳が、荒んだ灰色になっている。視線がどこまでも冷たい。
「マスターとのリンクが切れてる間にこんなことがあったのですね?」
小さな拳を握りしめながら、アイが言った。
「あれ、そんなに距離は無かったと思うけれど、リンクが切れていたの?」
僕がアイに問いかけると、横にいるソピアさんが口を開く。
「さっきの部屋には仕掛けがあってね、部屋の中にいる人は、部屋の外からの精神魔法には干渉されないようになっているのさ。まぁ、機密保持の意味合いが強いかな?」
「なるほど、そう言うことなんですね」
壁に特殊な仕掛けがあるのだろうか?
「そんなことよりも、さっきのは何?」
アンス王女の翡翠色の大きな瞳が僕を射抜く。腰のレイピア付近にちらつく腕が僕の鼓動を加速させる。
「ち、違うんですよ、意識の共有をする為に」
その後も僕は誤解を解く為、言葉を尽くした。
「そのチェス? とか言うゲームのルールを説明するだけなら、口頭でも良かったんじゃないの?」
アンス王女が訝しげな表情で言った。
「いや、効率が、その、ね?」
なぜ、僕は追い詰められているんだ? どうにかこの流れをステイルメイトに持ち込みたい。
「フィロス君も満更じゃなかったよね?」
不敵な笑みを浮かべながら、ソピアさんがそう言った。
チェックメイトみたいですね……。
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