第73話『比較、選択、理解』

「おはようございます、マスター」


 僕の意識がイデア側で目覚めると同時に、アイがいち早く声をかけてくれた。


「おはよう、アイ」


 手短に返事をすると、僕の起床に気づいたアンス王女とラルムがこちらに振り向く。


「今日はこれから、馬車に乗ってヘクセレイ族の里に向かうのよね?」


 アンス王女が予定の確認をした。


「はい、アリス・ステラの残した文献に興味があるので」


 興味と言うよりも、僕の身に起きている奇怪な現象の原因が知りたいと言う、切実な願いなのだが。


「フィロスがそこまでして興味を持つ理由が今一つわからないのだけれど、哲学が関わっているから?」


 アンス王女が首を傾げながら聞いてくる。


「まぁ、そんな所です」


 なんだか、隠し事をしているようで、心苦しいが、地球とイデアを行き来するこの現象を迂闊に話して良いものなのかが判断出来ない。

 僕と思考を共有しているアイですら、地球での情報や記憶は上手く読み取れないようだし。

 アイ言わく、一部の思考にだけ靄(もや)がかかっているような感覚らしい。


「マスター、焼きたてのパンがありますよ」


 アイが机の上に置いてある木製のカゴを指差し言った。


「先程、施設の人が届けてくれました……」


 ラルムが小さな声で補足する。


「へぇ、美味しそう」


 香ばしい香りが鼻をくすぐる。その香りに誘われて、カゴの中から一口サイズに切られているバゲットを手に取ろうとした瞬間、アイがそれを先回りして、パンに緑色の謎のペーストを塗ってくれた。


「あ、ありがとう」


 僕はこの、正体不明のペースト状の何かに少なくない警戒心を抱きながら、アイにお礼を言う。


 こちらの世界の食事を楽しむ上で、僕なりに考えた重要事項がある。それは、ジュレ状の物やペースト状になった、原材料が分かりにくい食べ物はなるべく避ける事なのだが……。


「マスター、あーんして下さい」


 アイがワクワクした表情で、たっぷりと何かを塗りたくったバゲットを僕の口の前に差し出す。


「あ、あーん、ん? あれ? 普通に美味い」


 多分正体は、野菜のパテかな? 香ばしく焼かれたバゲットにべっちょりと塗りたくられた緑色のパテ。うん、味は美味い。けれど流石に塗り過ぎだ。


「大は小をかねると言いますので」


 僕の思考を共有したアイが謎の言い訳を口にする。


「いや、適量って言葉があるよね?」


 僕がそう言うと、アンス王女が椅子から立ち上がり、こちらに向かって歩いてきた。


「まったくアイはしょうがないわね。普通はこのくらい塗るのよ」


 アンス王女はそう言って、バゲットに薄っすらとオレンジ色のジャムっぽい何かを塗る。


「ほら、フィロス、口を開けなさい」


「えっと、あー」


 言われるがままに、口を開く僕。

 口の中に柑橘系の爽やかな酸味が広がる。


「ど、どう?」


 なぜだか、顔を赤らめながら、静かに問いかけてくるアンス王女。


「果実の爽やかな甘みがとても美味しいです」


 美味しいのは事実だが、そろそろ喉が水分を欲している。


 僕の思考を読んだアイがコップに水を注ごうとするが、その前にラルムが水の入ったコップを差し出してくれた。


「あ、ありがとう。なんで、わかったの?」


 精神魔法だろうか?


「起きてすぐにパンばかり食べていたら喉乾くから……」


 ラルムがもっともな発言をすると、何やら、他の二人が俯(うつむ)き始めた。


 そんなやりとりをしていると、部屋の扉がノックされた。


「はい」


 僕が短く返事をすると、鈴の音のような透き通った声が返ってきた。


「ヘクセレイ族、族長のソピアです。準備が良ければ外まで来てくれるかな、馬車の準備が出来たよ」


 知的さと可憐さが同居する美しい声に、思わず扉越しに聴き入ってしまいそうだ。


「わかりました。すぐに出ます」


 さて、今日も忙しくなりそうだ。


「マスター、声についての感想が長いです」


 隣にいるアイが何やらボソッと呟いているが、僕は気にせず支度を整えることにした。


 * * *


 宿泊施設を後にした僕達は、カルブ族長とヴォルフさんと族長の孫娘であるセレネに挨拶を済ませて、ヘクセレイ族の馬車へと乗り込んだ。


 ソピアさんが気を使ってくれたのか、僕達の乗る馬車は四人で貸し切りだ。


「それにしても、なんだか不思議ね。護衛の依頼を受けたはずが、こんな成り行きになるとはね」


 アンス王女が馬車の窓から外を眺めながら言った。


「行き当たりばったりで申し訳ありません」


 僕がそう言って頭を下げると、アンス王女が口を開く。


「昨日も言ったけれど、私達は個々の意思でついて来ているのよ? 次にこの件で頭を下げたら怒るからね?」


 言葉とは裏腹に優しい笑顔を浮かべるアンス王女。


「はい、ありがとうございます」


「うん、よろしい」


 そう言って、満足気に頷くアンス王女。


「ヘクセレイ族の里まではもう少し時間がかかりそうですね」


 窓から見える外の風景はのどかなもので、真っ直ぐな砂利道が続いている。


「最近はあまり、まとまった時間が無かったから、久しぶりに哲学の話でもしてくれない?」


 アンス王女のリクエストに応えるべく、少しの間、頭を捻る僕。


「では、一つ質問をします。正直者とはどの様な人物のことですか?」


 僕の問いかけに、アンス王女だけでなく、アイとラルムも考え始めた。


「嘘をつかない人のことかしら」


 少しの間を空けて、アンス王女が言った。


「では、産まれたばかりの赤ちゃんは正直者と呼べますか?」


 更に問い返す僕。


「何か、違和感を感じるわね。正直者と言うよりは、嘘をつけないだけとも言えるかしら?」


 アンス王女が早くも確信に触れる。


「そうです。赤ちゃんは嘘つきではない。けれど、正直者と言う訳ではないのです。正直者とは、嘘を口にすることや、身振りで人を欺く事がどのような事かを知っている上で、あえて正直な事を選ぶ人を指します」


 僕は言葉を選びながら、慎重に話す。


「確かに赤ちゃんは、嘘もつけないし、身振りで大人を騙したりはしないわね。赤ちゃんは正直に振舞っている時に、その選択肢以外の選択を知らないだけなのね」


 相変わらずの思考の冴えをみせるアンス王女。


 すると、ラルムも小さな声で参加してきた。


「その考えは全ての事に言えるような気がする……」


 瞳の色を目まぐるしく変化させるラルム。


「その通り。何かを理解するという事は、それが何の否定に当たるのか、何でない事なのかを理解しなければならない」


 ゆっくりとした口調で話す僕。


「マスターの思考が目まぐるしいです」


 アイが少し困惑した様子で言った。


「その目まぐるしさも、普段の僕の思考を知っているから理解出来るわけだよね」


 アイの発言に答える僕。


「つまりは比較する事で、理解は生まれるという事?」


 アンス王女が真っ直ぐな目で問いかけてくる。


「そうですね。比較し選択する。その行為が無ければ、その先に理解はないでしょう」


 僕がそう言うと、満足そうに頷きながら、アンス王女がこう言った。


「私達はみんな自分の意思でここにいる。比較し選択した、私達だけの道。だからきっと、この道は正しい」

 

 アンス王女のその言葉に耳を傾けながら、全員の視線は窓の外の真っ直ぐに伸びる道の先を見つめていた。


 哲学に正解は無いと言うけれど、こんな答えが正解ならばいいなと、小さく揺れる馬車の中でぼんやりと感じた。

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