第72話『対局と対話』

 ある哲学者は言った。哲学とはチェスの定石のようなものだと。人生において、考え方の手引きをしてくれるものだと。


 心の中にある二つ以上の意見をこの世の掟になぞらえたルールに従って、考え、動かす。

 確かに哲学とチェスには似通った性質があるのかも知れない。


 * * *


「ナイトをeの5へ」


 姉の静かな声が僕の部屋に響く。


 朝一番で姉が、折りたたみのテーブルとチェス盤を持って僕の部屋へと進入してきたのだ。


「自分で盤を持ってきたのに、盤は見ないのかよ……」


 姉の指示通り、黒のナイトを言われた位置に置く。

 姉は先程から口頭で指しており、チェス盤には見向きもしない。頭の中で全ての駒の位置を把握しながら対局しているようだ。


「私は必要ないけれど、哲也は盤がないと集中出来ないじゃない」


 まるで自分の部屋かのように、ベッドに寝転がりながらそう口にする姉。


「一般的には盤無しで指せる人の方が珍しいだろ?」


 僕も出来ないことはないが、駒の位置の暗記に気を取られて、どうしても悪手が増えてしまう。


「次の手はまだ?」


 次の手を催促する姉。


「四手後に詰みだろ? わかっているのに聞くなよ。僕の負けだ」


 僕が負けを認めると、姉は小さく笑う。


「ねぇ、哲也。チェスの起源は知ってる?」


「あぁ、古代インドのチャトランガだろ?」


 たしか、将棋のルーツもそうだったはずだ。


「そうね。そしてそのチャトランガは、戦争好きの王様に、戦争を辞めさせる為に作られた、戦争を模した盤上遊戯と言うわけ」


「うん、それがどうしたの?」


「哲也はもし、さっきまでやっていたチェスが、本当の戦争だとしたらどうする?」


 天井から視線を外し、僕の瞳を見つめる姉。


「僕は敗戦国の王として首をはねられたね」


 先程の結果を振り返り口にする僕。


「そうかしら? 例えば、さっきの私の勝ち筋はナイトを犠牲にして成り立つものだったわよね?」


「うん」


「例えば、そのナイトが私の大切に思う騎士だったとすれば、私はあの位置にナイトを動かせたかしら?」


 まるで瞬きの仕方を忘れたかのように、じっとこちらを見つめながら、姉が問うてくる。


「そりゃ、わからないけれど、少なくとも、それを選べる立場にある人間なら、勝ち筋を捨ててはいけないと思う。全員が死ぬ未来よりは、一人でも誰かが生き残った方がいい」


 命の勘定は複雑だ。僕ごときにはあまりに難解で、だからこそ、単純に数として捉えることでしか、はっきりとした意思決定が出来ない。


「私は多分、大切な駒を逃してしまう人なんだと思う。だから、さっきの対局が戦争なら、私はナイトを動かさず負けていたよ」


 僕にはその言葉が意外に感じた。

 姉の世界はきっと、自分自身を中心にして回っている。そしてそれは、自然なことだ。人よりも優れた人が玉座に座る。理想的な状態だとさえ言える。


「姉さんの自己愛に勝てる他者なんているの?」


 僕は少し冗談めかして言った。


「私の場合はある意味、自己愛の延長かもね」


「どう言うこと?」


 相変わらず、捉えどころのあり過ぎる言葉を使う姉。


「知りたい?」


 気軽な口調で問い返してくる姉。


 含みのある笑顔の中に、ほんの少しだけ寂しさが同居しているように感じるのは、僕の勘違いだろうか。


「いや、やっぱりいい。僕の頭じゃ理解出来ないだろうし」


 またしても、冗談めかして返す僕。


「そうね、懸命な判断よ」


 姉は短くそう答えた。


 その後も僕達は十戦程、チェスを指した。


 戦績は僕の九敗だった。最後の一戦だけはなぜか、黒のナイトが動きを止めて、僕の勝利となった。

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