第49話『勝ち負けと価値観』
レポートを書き上げ図書館を後にした僕ら。
現在は、理沙が前々から行きたいと言っていた、大学の近くに新しく出来た喫茶店に立ち寄っている所だ。
店内に漂うコーヒー豆独特の香りが思考を落ち着かせる。
「ねぇ、哲也。さっきの話では勝利した考えが多数になり正しさを持つって流れだったけれど、勝負をしないって正しさはないのかしら?」
ブラックコーヒーの注がれたカップを片手にゆっくりと語りかけてくる理沙。
「うーん。例えば、争いを好む人と争いを好まない人がいるとするよ。その二人の違いは何かな?」
「価値観かしら?」
小首を傾げながら問い返してくる理沙。
「そう、価値観についてさ。歴史を振り返って見ても、価値観の相違が人々を争わせるケースが多いからね。価値観の争いと考えた場合に、争いを好まない人は争えば負けたことになるし、争わなかったとしたら勝ってしまう」
「どちらを選んでも勝ち負けのつく争いをしていることになるのね。たとえ争いを避けても、争わないという価値観を相手に押しつけてしまうわけだから」
コーヒーから漂う香りを楽しみながらも同時に会話も楽しむ理沙。
「非暴力や解脱、それに悟りなんかも一つの価値観である以上、そこには勝敗が生まれる」
人間である以上、価値観を持たないことは不可能だ。したがって、本当の意味での悟りは人間には開けない。
「確かにね、勝ち負けにこだわらないことにこだわっている時点で、その人にとってはこだわらないことが勝利パターンになってしまうわけね」
澄まし顔で話してはいるが、瞳の輝きから、好奇心が溢れ出している理沙。
「人間はみんな勝ちたがる生き物なんだろうね」
多くの人がギャンブルの類にはまるのも、勝利の味が格別だからだろう。
魔大陸においてもその価値観は変わらず、賭博場が大盛況だったのを思い出す。
「哲也が勝ちにこだわる所を見たことがないけれど、それは勝ちにこだわらないことをこだわっているのかしら?」
コーヒーから漂う湯気を見つめながら、僕に問いかける理沙。
「僕の場合は、勝ちたいと言うよりも、負けたくないって感情が強いかな」
「人間の原動力は、勝利への欲求よりも敗北を避ける時の方が強くなるなんて話もあるものね」
心理学にも造詣の深い、理沙らしい意見だ。
「徒然草にもそんな一節あったよね?」
僕は理沙へと問いかける。
「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり、だったかしら?」
相変わらず知識を引っ張り出すのがはやいな。
「そうそれ。まぁ、別にその考え方に感化されたわけじゃないけれど、数回の勝利を得ることよりも一度も負けない生き方の方がいいなって」
特にこれと言った信念ではないが。
「勝ちにはこだわらないけれど、負けるのは嫌。これが本当の負けず嫌いってわけね」
微笑を浮かべ、楽しそうに語る理沙。
「負けず嫌いっていうと、強気なイメージがあるけれど、負けるのが怖いって捉えると、弱気なイメージになるよね」
「物の見方次第ってわけね」
自分の中で何かがしっくりきたのか、理沙はそう言って、しきりに頷いていた。
「理沙は勝ちにこだわるタイプの負けず嫌いだよね」
「確かにそうね、勝負には勝ちたいし、欲しい物は欲しいし、食べたい物は食べたい。でもこれって、当たり前のことよね? なぜか欲求に素直な事が悪いみたいな風潮は少なからずあるけれど」
カップの下に敷かれたコースターを指でなぞりながら理沙はそう言った。
「それこそ、悟りやら解脱やらを口にする人には禁欲することが良いと言う価値観が定着しているし、悟りまでとはいかなくとも、欲求を抑えることを美徳として捉える人は多いよね」
僕がそう言うと直ぐに理沙が口を開いた。
「哲也はどうなの?」
「まぁ、欲求に素直になれることも、欲求を抑え込む術を持つことも両方出来ればバランスが良いよね」
これはこれで、バランスをとりにいくと言う勝利パターンに入ってしまっているのだろうか。
「良いとこどりの、負けない意見ね。たまには負けてくれない?」
柔らかな面差しで降伏を促してくる理沙。
「そんな、値切りみたいに言われてもね」
「あら、これは上手いことを言って話をそらす、哲也の得意な勝利パターンね?」
「いざ口にされると恥ずかしいからやめてくれ、営業妨害だよ」
「じゃあ、私の勝ちね?」
「いや、なんだかんだ言っても、僕自身がこのやり取りを楽しんでいる以上、僕の価値観では負けていないよ」
「やっぱり、負けず嫌いね」
何が可笑しいのか、あごに手をやり優しく微笑む理沙。
会話を楽しんだ上にスマイルまで頂いたわけだから、これは完全に僕の勝ちが決まったな。
この話を口にすると、きっと何かを言い返されるのは目に見えているから、そっと胸の内にしまい、勝ち逃げさせてもらうとしよう。
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