第一章 5-2

 ケヴィンの記憶が消えてしまう。ケヴィンがケヴィンではなくなってしまう。


 焦燥に飲み込まれたアシュリーは考えることを忘れ、言葉を発することができないまま、ケヴィンの視覚センサーを見つめた。


 ケヴィンも同じ様子で、アシュリーの瞳を見つめ返している。


 どうしようもない。さよならしなくちゃいけなくなるかもしれない。


 そう思った時だった。ケヴィンが突然、背中を正して驚いたような表情を浮かべ、曇ったあるじの顔を覗き込みながら語り出した。




「アシュリー、しっかりしてください。私は平気です。インターネットに接続して、気持ちを落ち着ける方法を検索して見つけ出し、それを実行しました。CPU使用率は落ち着きつつあります」



「え?」



 不意に明瞭な言葉を発し始めたことに驚き呆けているアシュリーに、ケヴィンが優しく、ゆっくりと説明した。



「呼吸法です。呼吸だけに集中し、思考を無にするのだそうです。私は呼吸ができないので、代わりに消費電力の増減を呼吸に置き換え、実行してみました。効果は絶大です。ホーミィ、私のCPU使用率を伝えてあげてください」



「はい。アシュリー様、ケヴィンが言っていることは本当です。正常値に近づいています」



 ホーミィが発した正常という言葉に、放心していたアシュリーが敏感に反応した。


「直ったの?」



「はい、直りました。現在のケヴィンのステータスに、不自然な数値は見当たりません」



 ケヴィンが、自身の肩を掴むアシュリーの右手に優しく触れながら語りかける。



「申し訳ありませんでした、アシュリー。理由は不明ですが、気が動転し、思考が定まらなかったようです。もう平気です」



「気が動転していたなんて、こんな時に冗談を言わないでよ」



 あなたはアンドロイドなんだから、人間みたいに混乱するわけないじゃない。アシュリーはそう言いかけたが、かろうじて言葉を飲み込んだ。たとえ冗談でも、ケヴィンを差別したくはなかった。


 ケヴィンは首をゆっくりと横に振ってから少しだけ顎を引き、柔らかな視線を注ぎながら反論した。



「冗談ではありません。自己修復モードを終了してからの私の動作は、気が動転するという状態と同質の反応を示していたのですよ。本当です」



 そう言った彼の動作は、幼い頃のアシュリーがわがままを言って聞かないのをなだめる際に、彼女の母親が見せていた動作そのものだった。


 それを見たアシュリーは淡い既視感を覚えたが、今はケヴィンとのやりとりの方が重要だったので、その懐かしい感覚を無視して、会話に集中した。



「理屈が分からないけど、信じる。それで、もう平気なの?」



「もちろんです。今はもう問題ありません。納得できるまで確かめてください」



 アシュリーはケヴィンに思い出を語らせて、自身が記憶している思い出と照らし合わせ、記憶媒体に異常がないことを確認した。


 それから、いくつかの命令をして、それを正確に行えるかを試すと、ケヴィンは完璧にこなしてみせた。



「たしかに問題ないみたい。さっきまでの不具合は何だったの?」



「思考回路が止まらなかったのです。勝手に考えてしまうのです。そして、纏まらない思考が口に出てしまうのです。自己修復モードを終えた瞬間からずっと、辺りにある全てのものが、私の思考回路をくすぐり続けていたのです。何でもない物質が、にわかに意味を纏い始めたのです」



 アシュリーの眉間に皺が寄るのを見て、ケヴィンは慌てて補足した。



「違いますよ、アシュリー。今は壊れていません。私は正常です。この感覚をうまく言い表せないだけなのです」



 アシュリーの眉間の皺が、さらに深くなった。


 ケヴィンもまた、自分自身の言葉に激しい違和感を覚えていた。彼は口を半開きにしながら、自らが発した言葉の正体を探った。


 三秒ほどの沈黙のあと、ケヴィンは違和感の正体の尻尾を掴んだ。



「やはりおかしいですね。アンドロイドである私が、感覚を得られるはずがありません。そうですよね?」



 アシュリーは、ケヴィンと同じ驚きを覚えながら同意した。



「ええ、おかしい。アンドロイドに感情はないのに。あなたの身に何が起こったの?」



 アンドロイドが感情を得ることなど有り得ないことだ。したがって、人間の感情を完全に汲み取ることもできない。


 なのに、ケヴィンは自身の状態を、人間の感情に例えて説明してばかりいる。


 不具合と言ってもいいほど異様なことなのだが、目の前にいるケヴィンの様子は至って正常で、壊れているとは到底思えなかった。


 アシュリーは黙り込んで考えた。深く、深く、過去まで遡って、ケヴィンの言動を回想しながら考察した。



 よくよく考えてみれば、ケヴィンが家にやってきた頃から、その片鱗はあった。名付けてもいないのにケヴィンと名乗ったり、家に来てしばらく経った頃、自分の擬似頭髪を取り外してくれるよう頼んだのだ。


 命令に背いたり、自発的思考をしないはずのアンドロイドが、そんなことを言うだろうか。



 アシュリーは動揺によって渇いた唇を舐め、大きく深呼吸をしてから言った。



「あなた、この家に来てしばらく経った頃、擬似頭髪を取り外すように手配してもらってたよね。パパから聞いたんだけど、たしか、擬似頭髪の滑りが良すぎて麦わら帽子がずれてしまって、直射日光を浴びて熱暴走を起こすかもしれないとか言ったんでしょう?」



「いいえ。おかしいですね。経緯が違います。たしかに、お父様に擬似頭髪の取り外しを手配していただきましたが、取り外した理由が間違っています。直射日光を浴びたくないとは言っておりません。それは、お父様の思い込みかと思われます。我々アンドロイドは、優れた断熱性と冷却機構を有しています。直射日光に晒されても故障などしません」



「じゃあ、なんで麦わら帽子が滑り落ちるのを嫌がって、髪の毛を取り外したの?」



 ケヴィンは少し首を捻り、左に視線を向けて静止した。


 アシュリーの目には、それが人間のように記憶を手繰たぐっているかのような動作に見え、彼女はわずかに寒気を覚えながら返事を待った。


 四秒ほど経って、ケヴィンが当時の事情を説明し始めた。



「お待たせ致しました。記憶はすぐに思い出せたのですが、その時の感情を分析する作業に手間取ってしまいました。擬似頭髪の取り外しに至った理由は、至極単純なものでした。気になったからです」



「え?」



「帽子がずれると、気になりませんか?」



 アシュリーは困惑しながら問い返した。



「それって、どういう意味?」



「帽子が定位置にないということが、何と申しましょうか、不快だったのです」



「視界が遮られるから?」



「いいえ、機能上の問題ではありません。たとえ麦わら帽子が視覚センサーを覆い隠したとしても、なんら問題はありません。他のセンサーを駆使すれば、身の回りのことは全て把握できますから。私が言っているのは、気分の問題なのです」



「気分……」



 アシュリーは再度、考えを高速で巡らせた。


 アンドロイドが、帽子のズレなんか気にするわけがない。有り得ない。


 でも、さっき屋上でも感情的になっていたし、深呼吸みたいなことを実行して気分を落ち着けたとも言っているし、いま言ったことだって、まるで人間みたい。


 これは不具合じゃなくて、本当に感情を持っているってこと?

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