人と機械と機械と人 (横読み向け 行間調整版)

榎本愛生

第一章 発現

第一章 1-1


 二二三九年。ブルックリン。ニューヨーク州。アメリカ合衆国。



「ねえ、ケヴィン。クレソンの様子を見てきてくれない?」



「心配は無用です、アシュリー。あなたが筋肉トレーニングをしている間に確認しました。発育は良好。害虫の姿もありません。葉の裏に潜む個体も認められませんでした。他の作物も、すでに確認済みです」



 階下から屋上の家庭菜園に上がってきたアシュリーの依頼に、家庭用アンドロイドのケヴィンが堅苦しい口調で答えた。


 日課の一つである午前中のトレーニングで乱れたポニーテイルを結い直したアシュリーは、屋上入口付近に掛け置いてある麦わら帽子を被り、それから蛇口の近くに置いてあるジョウロを手に取って、畑へと向かった。いつもケヴィンが、事前に水を汲んでおいてくれる。




 都市部にあるマンションのペントハウスの屋上一面に広がる、テニスコート五面分ほどの広さがある菜園に植えられた野菜たちに水を与えて回るのが、一人の女性と一体のアンドロイドの日課となっている。


 菜園には何列もの菜壇が所狭しと並び、あらゆる種類の作物が植えられている。


 空いたスペースには、試験栽培に利用されている鉢植えがごちゃごちゃと置かれており、しかもそれは増える一方で、さらなる雑多な風景を作り出しつつある。


 排水は抗菌防臭処理されるので嫌な臭いはしないのだが、土に含まれる有機堆肥の臭気だけは消せず、田舎の香りに満ちている。




 夏の日差しは畑の水分を瞬く間に奪っていくので、様子を見ながら、何度か水を与えてやらなければならない。


 決められた時間に自動で水を撒く機械もあるのだが、アシュリーはそれを使わない。幼少の頃から、彼女はケヴィンと共に水を撒く時間を愛していて、この習慣をもう二十年も続けている。どんな厄介ごとがあっても、ケヴィンと屋上で過ごせば、不思議と気が晴れた。




 ブルックリンのクリントンヒルに建つこのマンションの周りには、昔ながらの外装をそのまま留めているビルや、最先端の外装で仕上げられた真新しいビルが整然と並んでいて、見ようによっては、建築物の美術館と言えなくもない。




 北東を流れるイースト川の向こうには、ミニチュアのようなマンハッタンのビル群が見える。


 住むよりも眺めるほうが素敵な街だと、アシュリーは夜景を見ながらよく思う。住むなら断然、クリントンヒルのほうがいい。




 多くの高層ビルが立ち並ぶクリントンヒルは、時折、強いビル風が吹き上げてきて厄介なこともあるのだが、このマンションの屋上で得られる婉美えんびな時間に比べれば、じつに些細なことだ。


 少々強い今日のビル風も、いつものように汗ばんだスポーツウェアの中に入り込んで、火照った体を冷ましてくれる。




 春先に二十五歳の誕生日を迎えたアシュリー・フェロウズ=オオモリは、五歳の誕生日からずっと一緒に暮らしている家庭用アンドロイドのケヴィンと共に庭の手入れをしながら、出勤までの時間を有意義に過ごす。


 彼女は、父がマンハッタンのミッドタウンで経営している複数の店舗の一つである高級レストランを任されているのだが、働き出すのは、いつも夜からだ。昼は働いていない。


 怠けているわけではなく、経営戦略の一環として、敢えてそうしているのだ。上客たちは、いつも決まって夜に来店し、深夜に去る。




 アシュリーはジョウロで水をやりながら発見した菜園の変化を、ケヴィンに伝えた。


「見て、三つ葉はそろそろ収穫できそう」


「三世代目も無事に育ちましたね。ここの土と気候に、見事に馴染んでいます。相変わらず、植物の適応能力には驚かされます」


 そう答えたケヴィンは、僅かにずれた麦わら帽子を被り直した。


 彼はいつも麦わら帽子を被り、上品で洗練された深い藍色のスーツを着たまま、菜園での農作業に従事している。


 ロボット兵のコンピュータが流用された高性能アンドロイドであるケヴィンは、泥跳ねが生じるような粗野な動作はしないし、アシュリーが飛ばした水滴や泥や土も、軌道を予測して容易に避けるので、スーツが汚れる心配はない。




 三つ葉の茎を数え終えたアシュリーが、眩しい太陽にも負けないほど輝く笑顔で言った。



「もっとたくさん収穫できるようになったら、皆にも分けてあげたいな。珍しい野菜だし」



「日本のハーブですからね。一度も食べたことがない方も多いでしょう。クセもそれほど強くはありませんし、きっと楽しんでいただけるはずです」



「素敵。でも、もっと収穫できたらなあ」



「お父様とお母様とあなたが消費しても余るほど、潤沢な収穫量が記録されていますが?」



「もっと食べたいわけじゃないの。施設に野菜を寄付したいのよ。野菜は高いから、お金を寄付するよりも喜んでもらえそうな気がするの。実現性のない、ただの夢だけどね……」



 鬱憤を払うように、大袈裟な動作で額の汗を拭くアシュリーの目に、屋上菜園の鮮やかな緑が飛び込んできた。眩しい日差しが腕によって遮られたことで、作物の花や小さな果実が、はっきりと見える。


 中でも一際目を引いたのが、遠くに植えてあるパプリカの未熟果だった。


 未成熟な緑のパプリカを見たアシュリーの心に、子供の頃に感じていた気のはやりと期待感がよみがえる。




 幼い頃、パプリカが赤くなる季節になると母方の祖母がやってきて、昔ながらのパエリアパーティーが催されるのがお決まりだった。


 幼いアシュリーにとって、パプリカはカレンダーのようなものだった。パプリカが緑から赤に変わらないと、おばあちゃんは来ないし、みんなでパエリアも食べられない。


 緑が赤に変わるのを、毎日ずっと待っていた。彼女にとってパプリカの赤は、幸せの色だ。


 年老いた祖母は滅多に来なくなったが、現在はアシュリーが親戚と一緒に祖母の家に出向いて、思い出のパエリアを振舞っている。




 このような文化的な思い出を、アシュリーは他にもたくさん記憶している。


 彼女は、日系である父方の祖父譲りの円やかな顔に、アングロサクソン系である父方の祖母譲りの茶色の髪と緑がかった瞳を持ち、アフリカ系である母方の祖父譲りの健康的な浅黒い肌を輝かせ、そしてヒスパニック系である母方の祖母譲りの屈託のない笑顔でよく笑う快活な性格を有しており、見た目にも文化的にも、あらゆるものを受け継いでいる。




 彼女は大人になってから、子供時代に他の子よりも楽しいイベントを多く体験していることを自覚し、とても幸せな気分になった。


 様々な国の愛の形が、この身には詰まっているのだ。他人との外見の違いなど、取るに足らないことなのだ。私は幸運だ。心の底から、そう思った。


 その幸福感は、大人になった今も続いている。


 屋上で育てている様々な作物を見る度、彼女は自らのルーツと触れ合える。だから、菜園での作業が好きなのだ。

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