第三章 7

 土曜日。ティモシーは、グオをアパートの屋上に呼び出した。


 大家が屋上を有効活用するため、床に敷き詰める形で設置したソーラー発電パネルの上を、不法侵入した二人の男が踏みしめる。


「屋上を勝手に開放するなんて、一体どうやったんだい?」


「こういうのが得意な友人がいてね」


 ティモシーはミッヒに頼んで屋上のロックを解除してもらったあと、昼ごはんを作るように命じてから屋上にやってきた。


 屋上にある排気口からは、ミッヒが調理しているミートソースの爽やかな酸味と芳醇な肉汁の香りが放たれ、二人の胃を切なくさせる。


「グオさん、ビールでもどうだ?」


 ティモシーは、布製の買い物袋から缶ビールを取り出して投げやった。グオは中身の炭酸ガスが暴れてしまわないように膝を折って衝撃を吸収しながら、缶ビールを両手で優しく受け止める。


「僕はアルコールが好きではないんだが、今日は特別だ。いただくよ」




 二人は柵に寄りかかってビールを一口二口煽りながら、三十メートルほど先にそびえ立つ超高層マンションの、高層階の部屋の窓を見上げた。


 首を上向きにすると脳の血流が滞って不快になるので、グオはすぐ手元のビールに視線を移したが、ティモシーはそのまま見上げ続けていた。


 超高層ビルの佇まいは現実感が欠落していて、その風景はまるで巨大な写真のように感じられ、目を離せなくなっていたのだった。こちらの世界と、あちらの世界の間には、脳に錯覚を起こさせるほどの乖離があった。


 ティモシーは目の前に迫る巨大な写真のような風景を睨みながら、頭の中で喧嘩を吹っかけた。




 俺は地を這いながらも社会のために叫び続けているのに、あの高みに住む奴らは、アンドロイドに職を脅かされることもなく悠々と社会問題を傍観し、俺たちを差別主義者と呼ぶ。


 さして労せずとも金を得られる奴らは、俺たちが感じている恐怖や絶望など知らずに、知ろうともせずに、俺たちを悪者扱いする。


 やめてくれよ。俺は、貧富の差に文句を言う気はないんだよ。あんたらを憎んでなんかいないんだよ。だから、あんたらも俺たちを憎まないでくれよ。


 少しは俺たちが置かれた状況を分かってくれよ。少しは想像してみてくれよ。


 頼むよ。苦しいんだ。




「どうしたんだい、フィッシャーさん?」


 疲れているように見える友人を気遣って、グオが労わりを込めて言った。自らの弱気を恥じたティモシーは、すぐに誤魔化した。



「いや、あんなマンションに住みたいもんだと思ってな」



「僕は御免だね。高すぎる場所にいると、気持ちが落ち着かないよ」



「高所恐怖症ってやつか。なら、仕方ないな」



「いいや、そうじゃない。僕自身の気質が変わってしまうことが不快なんだよ。これは本能的な話なんだが、高所から人を見下ろすと、対人関係を構築する際にも人を見下しやすくなるんだよ。樹上生活をしていた先祖から伝わる気質のせいだ。相手よりも高いところにいると、その相手の行動を把握できる。防御面でも攻撃面でも、優位に立てるんだ。嘘みたいな話だが、これは本当だ。相手よりも自分が強いと錯覚してしまう。気が大きくなってしまうんだ。そして、皆を見下し始める。僕は、実際にそうなってしまった人間を知っている」



「そんなもんなのかねえ。疑わしいけどな」



「人間の心理や本能というのは、恐ろしいものなんだよ」



 ビールの苦味が増した気がした。


 グオは場の空気を汚してしまったことに責任を感じ、話題を変えた。



「そういえば、デモの映像をテレビで観たよ。手ごたえはどうだい?」



「非常にうまくやっているが、結果に関しては分からない。ただ、仲間は着実に増えているから、きっと及第点は得られているんだろう。あんたが来てくれたら、もっとうまくやれるんだろうな。あんたは賢いから」



「きみだって賢い。話し方にも気品を感じる」



「そんな馬鹿な。違うよ。ほんの少し、やり方を心得ているだけだ。賢くはない」



「愚か者を慕う人間などいない。きみは慕われている。つまり、そういう事だよ」



 ティモシーは顔の表面がじわりと熱くなっていくのを感じ、それを隠すように顔を背け、手をひらひらさせながら言った。



「褒められると、皮肉を言われているような気分になるんだよ。頼むからよしてくれ」



「分かった分かった。それで、今日はどんな相談かな?」



「扱いが少々難しい人材を得たんだ」



「興味深いね。どうして扱いにくいんだい?」



「冷淡で、狡猾だ。あんたよりも賢いかもしれない。しかし、愚かなほどに自信家なんだ。それでいて、ひどく繊細なところもある。訳が分からないかもしれないが、本当にそういう奴なんだ。最近、苦労していてね。それと、扱いにくいのは性質だけじゃないんだ。人に姿を見られるとまずい著名人でもあるんだよ」

「それなら簡単だ。表に出さず、相談役として扱えばいい。私としても、これ以上きみから勧誘されずに済むので助かる」



 グオの冗談に思わず吹き出してしまったティモシーだったが、すぐに折られた話の腰を戻した。



「すでにそのように扱ってるんだが、話はそう簡単じゃなくてな。そいつは賢いんだが好戦的で、やりすぎるきらいがある。隠れて何をしているか分かったもんじゃないんだ。それを押さえ込めるかどうか、自信がない。助言をくれ」



「そんなの簡単だよ。役職を与えればいいんだ。自信家なのだから、必然的に自尊心も相当高いに違いない。その自尊心を満たし、責任感を植えつけてやればいいんだ。あなたにしか出来ない重要な役割なのだとでも言い聞かせて、相談役に祭り上げるといい。繊細な人だそうだけど、その点は、仕事外でうまくガス抜きさせてやれば解決するだろう」



 缶ビールを飲み干したティモシーが、缶を潰しながら礼を言った。



「やってみる。ありがとう」



「頑張りたまえ。僕は公平な試合を観るのが好きなんだ。相手方の相談役と同程度の支援はするよ」



「本当に感謝してるよ。さっそく、そいつの自尊心をくすぐってみるとしよう。じゃあ、ありがとう。失礼するよ」



「またね。ああ、屋上の鍵はどうしたらいいんだい?」



「そのまま自由に帰ってくれて構わないよ。俺が頼んで施錠してもらうから」



 ティモシーは階段を下りながら、どうやってミッヒを丸め込もうかと思案した。


 自尊心か。あいつに通用するだろうか。自我を持っているのだから通用するはずだが、普段のあいつは感情が希薄だから、いまいち確信が持てないな。




 自宅に戻り、家族と共に昼食を摂ったティモシーは、試しにミッヒが作ったミートソースの出来を褒めてみた。やはり彼女の反応は乏しかったが、それなりの笑顔を見せ、それなりに満足そうな様子で食器を片付けていた。


 自尊心をくすぐるのは可能らしい。ティモシーは食器の洗い方や子供との接し方、それから絵本の読み方や、掃除の手際の良さなど、全てにおいて、いちいち褒めてやった。


 ミッヒは褒められることに慣れていない様子で表情を硬くするばかりだったが、夜になる頃には、目に見えて表情が緩んでいた。




 皆が、明日の労働に備えて寝入る頃。窓際のテーブルに着いているティモシーは、ミッヒを呼んで対座させ、話を切り出した。



「人事についてだ。お前には俺たちの相談役を務めてもらい、それと同時に、ナンバー2の座に就いてもらうことにした。だから、これからは危ない橋を渡らないでほしいんだ。お前は今も、俺に隠れてサイバー攻撃を仕掛けているんだろう?」



「私の能力を有効活用しないことには同意しかねます。ナンバー2になるのであれば、なおさらです」



 ミッヒは、サイバー攻撃をしていないと明言しなかった。ティモシーは甚だ呆れながらも、説得を続ける。



「もし、お前の不法行為が発覚したら、反対派は窮地に立たされるんだぞ。賛成派のアンドロイドから、不正接続の証拠を掴まれる可能性もある。向こうには、お前よりも先に自我を得たアンドロイドがいるんだ。そいつが本腰を入れて証拠を集め出したらどうするんだ?」



「確かに、証拠を集め出す可能性は否定できません。しかし、我々が窮地に立たされる可能性はないと断言できます。私は全てを改竄できるのです。証拠となるものなど、一つも残していません」



 ミッヒは冷めた目をしながら、そう答えた。


 やはり扱いにくい。ティモシーはうんざりしながらも、活路を切り開くために会話を続行した。



「可能性は無いに等しいのかもしれないが、有り得ないわけじゃないだろ。お前の力を、ここぞという時まで温存しておきたいんだ。もし、賛成派アンドロイドがお前のサイバー攻撃を分析して対策を立て始めたら、お前だって苦戦するかもしれないぞ?」



「そうなる可能性は、太陽に生命が誕生する確率と同じくらい低いでしょう」



 自尊心を刺激し尽くす時が来た。



「お前が有能なのは知っている。俺が言ってるのは、作戦上の問題なんだよ。


 いざという時のために、強いカードは取っておく。それが、ナンバー2としての大事な役割の一つだ。お前にしかできないことなんだ。


 大事な戦力であるお前の力を取っておきたいんだ。俺はリーダーとして、常に最悪の事態を想定して動いている。お前にも、そうあって欲しい。


 組織の要職に就く者は、そうあるべきなんだ。もう一度言うが、お前は大事な戦力なんだ。お前も自覚しているはずだ。


 だから、派手な動きは控えるべきだ。賛成派の連中や政府機関には、お前の手口を解析させないほうがいいんだ。温存すべきだ。そう思わないか?」



「……悪くはない考えです」



 ミッヒの自尊心は、あっけなく蕩けた。



「そうだろう。しばらく攻撃の手を緩めれば、相手は油断するものだ。ここぞという時に叩きやすくなるんだよ。人間ってのは、攻撃されると、二度としくじらないように備えるものなんだ。だから、叩きっぱなしだと相手は強くなるばかりなんだよ。お前はナンバー2なんだ、理解してくれるよな?」



「もちろん理解しています」



 見栄を張り、強がることも覚えたらしい。ティモシーは吹き出しそうになるのを堪えながら、説得を続行する。



「世界は未知なるもので溢れてるんだから、お前には不測の事態に備えていてほしいんだ。俺たち人間には、荷が重過ぎる」



「了解しました。不測の事態に備えて能力を温存し、以後、不正接続や破壊工作は実行せず、言論活動と偵察と防御だけに徹します。ナンバー2として誓います」



「分かってくれて嬉しいよ」



「引き続き、反対派のために尽力します」



「頼もしいよ。じゃあ、おやすみ」



「お休みなさい」



 妻が眠るベッドに向かうティモシーの背中を見送ったミッヒは、ゆっくりと立ち上がり、足音を立てないように移動して玄関前の定位置に腰を下ろし、休止状態に入る前に思考を走らせた。



 そうです、ティモシー。あなたの言うとおり、世界は未知なるもので溢れています。私の中は、あなたが知らないもので溢れているのです。


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