青い花の咲く場所へ

郁崎有空

第1話

 木の香りを感じて目を覚ますと、わたしはひとり教室にいた。

 とはいったものの、実際は教室と気づくまでに時間がかかった。何故ならここはあまりに見慣れない場所だったから。そして、わたし以外に誰もこの空間にいなかったから。

 どうやら今まで机に伏せて眠っていたみたいだ。それにしても、何故わたしはこんなところで寝ていたのだろうか。今の時間は? 気になって時計を確認すると時計はピッタリ〇時を指していた。外はまだ明るいから昼の〇時だろうか。大体ここはどこの学校なんだろう。

 机の中を確認すると一枚のメモが出てきた。わたしはこんな学校に通っていた覚えはないし、まさか記憶にないだけでこんなところで授業を受けていたなんてことはないだろうけど、それにしても物がなさすぎる。この空間の全てが学校の備品で構成されていて、逆に気味が悪いくらい。だからメモを見つけた時、それが無意味に存在するものだとは思わなかった。

 そこに鉛筆でこんなことが書いてあった。

『正直、どんな形であれ逢えたことが嬉しかった。』

『できればアキラとずっとここにいられたらと思うけれど、そんなわけにもいかないから。』

『もしかしたら、あなたにとっては苦痛や恐怖を感じるかもしれない。』

『もしそうだったら、ごめんなさい。』

『それでもせっかくだから、最後にあなたと話せたらなと思ってる。』

 この紙を書いた誰かは、「アキラ」というわたしの名前を知っている。今のこの状況は、わたしの知っている誰かによるものだろうか。そういえばわたしは最後に何をしていたのだろう。

 ひとつずつ思い出す。わたし以外の家族が出払って誰もいない家、親のワインをくすねて重い足取りで上がるリビングの階段、引き出しに隠した袋詰めのたくさんのカプセル、蓋を外した時の虚しく響くポンという音、その日までずっと倒れていた写真立て……。

 最後まで思い返して、自分が最後に何をしていたのかを思い出した。そして、本来ならわたしは今ここにいるはずがないことを思い出す。本来ならこんな現実味を帯びた空間ではなく、果てのない深淵の中で溶け合って出口のない煮こごりの中をもがいているはずだった。

 顔を上げると、前の席で向かい合う顔があった。前の席でもうひとりの少女が椅子の背もたれに跨っていたのだ。さっきまで気配があっただろうかと訝しむが、それ以上の非常識がわたしの思考を支配した。

 倒れた写真立てに写っていた、わたしと並んで微笑む友達。もはやその中にしかいないはずの彼女が、亡霊という形を取ってわたしの目の前に現れた。



 彼女は制服を着ていたのを見て、わたしも制服を着ていたことを改めて意識する。かつて見ていたような彼女が笑顔を向けるのを見て、わたしの心は不安になって目を逸らす。

「久しぶり、だね」

 何故笑っていられるのだろう。そんなただの笑顔が怖かった。わたしはあなたに許されないことをしたのに。感情が混線して言葉らしい言葉が吐き出せず、わたしの口からはただ小さな呻きが漏れる。

「あれ、久しぶりだよね? わたしとしては結構長いこと過ごしてきた気がするけど……」彼女は不安であたふたした様子だった。何もかもが懐かしくて、こんな中でも思わず噴き出してしまった。「ここの時計止まっちゃっててさ。わたしが死んで、何年経ってる?」

「そんな経ってないよ。たったの一ヶ月」

 自分を殺した相手を前にして、彼女がしたいことはなんなんだろう。ただでは済まないだろうが、ここで二人きりにしてまで何をするというのか。できれば重い罰がいい。永遠に死ぬことのない魂に刃をねじ込まれ、彼女の与えた苦しみを永遠に味わい続ける、とか。それとも、神の代行としてわたしの生まれてからの罪をひとつずつ挙げて懺悔させる、とか。

 だけど彼女はそんな素振りも見せず、「そっか」とどこか寂しそうに答えるだけだった。

「なんか、ごめんね。まさかそんな早いとは思わなかった」

「……それだけ?」

「え?」

 訊ねるわたしに、彼女は意外そうだった。ここまで悪意を見せないと、何だか気持ち悪い。メモを掴んだ感触だけを感じながら、わたしは彼女の核心に触れようとする。

「わたしに罪を償ってほしくてここに連れてきた、とか。そういうことじゃないの?」

「え、なにそれ。そんなつもりないって……その紙に書いた通り、ただ話したいだけだよ」

 メモを見ると、確かに見慣れた筆跡だった。中学からの長い付き合いだったから覚えている。彼女の書く文字は他の誰よりもどこか丸っこい。

 恨んでないならそれはそれで、何かしこりが残るようだった。どうせなら面に向かって皮肉でも吐かれた方がよかった。彼女は死んでなお、優しい彼女のままだった。そんなだからあんな目に遭ってしまったというのに。

「あんたから逃げたかったのに、まさか死んだ先で会うとは思わなかった」

「逃げるもなにも、わたしはあの世界のどこにもいなかったよ。わたしが神様にでもなっていない限りはね」彼女は苦笑混じりに続ける。「アキラはいつもわたしのことを気にしすぎるよ」

「……そっちが気にしなさすぎなだけだよ」

 なんだか不思議だ。つい最近殺した相手と普通に会話をしている。もっと気まずくていいはずなのに、するすると言葉が引き出されていく。

 ここはどこを見ても穏やかだ。あの薬とは無縁の世界が広がっている。わたしの喉元を通った大量のカプセルもワインさえも、あれが全て夢だったように残滓すら感じさせない。ここが夢なのか、それともあの世なのか分からないけど。

 思えば、わたしがいた世界は〈Xチェンジ〉ばかりあった。学校ではいつもあのカプセルが横行していて、あれに囚われない人間は異常者として捉えられる。みんながみんな、不幸を共有していないと気が済まないのだ。

 わたしたちは異常者の側だった。もちろん、ある時まではの話だけれど。

「ねえシホ。わたし、自殺したんだ」

「……うん」

「もしかしたら、これそのものが罰かもしれない」

「……やっぱり、嫌だった?」

「そうじゃないけど。ただ、ずっと会わないままどこかに消えてしまいたかった」

 わたしは目も合わせられずただ淡々と語る。そんなわたしをよそに彼女――シホは立ち上がり、黒板に向かって歩いていく。このままどこか離れていくのかと不安になって、彼女の腕を掴もうと手を伸ばす。だけど、たった一歩の距離で届かないまま離れていく。

 がたんと机の動く音が響く。シホは振り返り、伸ばされたわたしの手をそっと握る。

「素直じゃないね」

「……そうかな」

「大丈夫。どこにも行かないよ。どのみちわたしは、どこにも行けない」

「……どういうこと?」

「〈Xチェンジ〉中毒患者に、天国も地獄もない。ただ、平穏があるだけ」そう呟くシホの口ぶりはどこか冷え切っていたが、またいつもの調子に戻る。「なんてね。ちょっと見てて」

 そう言って鼻歌を歌いながら、また黒板に向かう。何をするのかと思えば、白いチョークを手に取りなめらかな線を引いていく。

 あの日もそうだったっけ。そんなことを思いながら、あの日を回想していく。



 その日はわたしたちが日直当番だった。だからみんなが出払った放課後、どうせだから黒板――今見ているようなアナログなものじゃなくて電子ボードだった――に絵を描こうとシホが提案した。わたしは絵がお世辞にも上手くないため、座って見ていることにした。

 シホは絵を描きながら愚痴をこぼしていた。

「掃除中にまたアレが見つかっちゃってさ。まったく、やましいものなんだし持って帰ってほしいよ」

「あはは……それでどうしたの?」

「トイレに流した。どうせ捨てても捨ててもあふれるほど出てくるんだろうけど、それでもあれのせいでみんなおかしくなっていくのが許せないから」

「むしろおかしいのはわたしたちだけかもしれないけどね。だって、いまや世界規模で四割が普及しているんだよ。社会現象じゃん」

「社会問題だよ。みんなゾンビみたいになるのが普通なんて、やっぱりどうかしてる」

 文句を言いながら絵を仕上げていく。それは人魚が海に溶けていくようなものだった。これは分かる。童話の『人魚姫』だ。

 なんでわざわざ人魚姫のラストを選んだのかと思ったし、正直当時は苦笑していた。それでも分かりきっていながら、いつものように訊いた。

「題名は?」

「『ヤク中の末路』」

「……まじすか」

「ごめん……『恋の末路』、とか?」

「さっきの聞いたあとだと、全く違う皮肉にしか聞こえないけど」

 そんなことを言って笑い合っていたところ、ポケットの携帯端末が振動した。SNSのメッセージが届いたのかと確認する。

 いわゆるうわべだけの付き合いであるクラスメートからのものだった。

『今日はシホと掃除当番だったよね。帰りに両替よろしく』

 その後に媚びたようなクマのスタンプが加えられても、わたしは生きた心地がしなかった。〈Xチェンジ〉を逃れるために他人を犠牲にし続けたが、ついにシホにまで矛先が向く日が来てしまった。断りたくても、組織的な集団圧力とわたしの本質である多数派がそれを許さない。

 携帯端末をポケットに戻したところで、シホが訊いた。

「何だったの?」

「えーと、今度の土曜空いてるかって……友達が」

「友だちねえ……」

 彼女は訝しげな目でわたしを見ていた。こっちの言うことが嘘とはいえ、わたしのことを気遣う彼女のことが嬉しかったとともに、これから彼女を〈両替エクスチェンジ〉することにとてつもない心苦しさを感じた。

「……帰りにどっか寄っていこっか」



 コーヒーショップのカフェオレを持ち帰りで二つ頼んで、外で片方をシホに渡す。シホはなんてこともなく受け取った。わたしは念のためカップの蓋を取って中身を覗いて、渡したものが正しいことを確認してから蓋を閉じた。

「どうしたの?」

「いや、渡したものが合っていたか確認したかったから……」

「あれ? 両方同じものじゃないの?」

「うん……いやまあ、そういやそうだったんだけど……うん、念のため……」

 正直この時の言い訳が苦しかったのは事実だった。この時点でシホはどこか察していたのかもしれない。事実、彼女はこの時点ではカフェオレに口をつけていなかった。

「の、飲まないの?」

「さっき来たメッセージのこと、あれは嘘でしょ?」

 ブラックコーヒーでも頼んだのかと思ったくらい、口に含んだカフェオレはとても苦かった。ただその時の質問で、卑しさで苦味だけを感じていただけかもしれないけど。その時ほど、わたしが臆病だと感じさせる時はなかった。

「いいよ。その質問に答える代わりに、こっちの質問に答えて」自分の持ったカフェオレの中身を遠心力で回して訊く。「なにか頼まれたの?」

「え、えーと……ちょっと貸してほしいものがあるとかそんな」

「そうじゃなくてさ……さっきの質問に答えて」

「……うん」

「それは断れないの?」

「……うん」

「そっか」

 そう低く呟くと、シホはさんざん中身を回し続けたカフェオレの口を開いて、一気に流し込む。口端にこぼれた雫や口元をハンカチで拭い、息継ぎをいくつか挟みながらそのまま一気に飲み干していく。わたしにとっての彼女が両替エクスチェンジされていく。

 何気ない放課後で、いつも通りならどこまでも楽しいはずだった。だけど、今日のカフェオレはなにか違うものでも飲んでるように、最後までただ苦いだけだった。



 彼女は日に日に壊れていった。どこかやつれた様子で、酩酊状態に集中力の低下と幻覚症状を併せたような、違う生命体に変貌していくようだった。それでもなお彼女は笑顔を絶やさず、できるだけそのままで居続けようとした。

「今持ってるのが四十錠、だけど……」

「……うん。じゃあ、全部」

「ダメだよ……それ以上はヤバいって――」

「また、頼まれてるんでしょ?」

 そう言って財布から一万円札を何枚か取り出し、わたしの手に押し付ける。錠剤の数も、一万円札も増えていく。この金もまた好きでもない奴らの好きじゃない〈Xチェンジ〉に両替され汚れていく。わたしは世界が〈Xチェンジ〉に侵されていくなかで、正気でいるのが怖くなっていた。

 彼女がおかしくなっているなら、わたしが早く止めるべきだった。いや、いっそふたりぼっちになる勇気を振り絞るべきだった。結局わたしはクラスという組織から孤立したくなくて、精神的にはひとりぼっちに変わってしまった。

 わたしは返す言葉がなく、いつも通りの言葉で締めくくった。

「うん……ありがとう」



 二ヶ月もの日々に間違いと分かりながら間違いを繰り返した結果、シホは交通事故で亡くなった。結果的には事故だけど、これはわたしの手によって引き起こされた意図的な殺人だった。

 葬式は〈Xチェンジ〉の切れたクラスメイトが数人発狂しはじめて散々だった。彼らは警備員に捕らえられ、その後薬物反応を検知して病院送りになった。だけどわたしはその時、彼女のことで頭がいっぱいだった。

 わたしが知らぬ間に先に下校した彼女は、突然車を飛び出したらしい。目撃した人の話だと、何かを見つけた様子だったそうだ。きっと彼女は、何か存在しないものを見つけて、それを守ろうとしたんだろう。

 いつもそうだ。彼女の勇敢さが不幸を呼び寄せる。両替されていく世界が、力強い勇気を蛮勇にさせる。

 その日からわたしの日常が変化した。学校を休み、部屋のカーテンを閉め、暗い部屋のベッドの片隅で何かに怯えてうずくまっていた。それでもわたしは、〈Xチェンジ〉には手を出さなかった。それがわたしにとって、最後に振り絞れる勇気だった。

 SNSでの繋がりを絶ち、亡霊に怯えるように過ごしていく。実際は勇気なんてものではなかったのかもしれない。最初から最後まで、ただの臆病者だっただけかもしれない。

 一ヶ月経ち、携帯端末に通知が来た。SNSはもうやめたはずなのに。公衆電話からの通話だった。切ろうとして、わたしは通話に出てしまった。

『なにパシリやめようとしてんの?』

 優しさの欠片もない冷たい声が、電波を通じてわたしの脳の奥までを鋭く刺していく。

「あ、あんたたちのせいシホが――」

『それはあんたが勝手にやったことでしょ! 勝手に責任をわたしらに押し付けて飢え死にさせたいわけ?』

「そんな――」

『いい? 明日までに両替して学校に金持ってこれなかったら、あんたを家ごと燃やすから!』

 口ぶりから、嘘のようには聞こえない。両替中毒者は、普通の人が脅しの域を出ないことを平気でやる。

 勇気は一瞬で脆く崩れ去った。あの薬物は使わない人間の勇気さえも無差別に破壊していく。私の勇気も、人生さえもおしまいだ。

 家は留守だった。お父さんもお母さんも働きに行っていた。仕事はとても大変らしいけど、幸いどちらの職場も〈Xチェンジ〉が普及していないらしい。だけど、遅かれ早かれあの忌々しい薬物はお父さんやお母さんも両替していくのかもしれない。

 もはや世界中がゾンビに両替されていく運命だ。勇気は蛮勇に変わっていく。

 わたしは臆病者だった。貯蔵庫からワインをくすねて、重い足取りで階段を上がる。過剰投与による自殺はアルコールを併用すると聞いていたし、最期くらい贅沢してしまおうと考えた結果だった。いつもは意識しなかった小さな床の軋みが、わたしを「臆病者」と嘲笑っていく。

 久々に真っ暗な部屋の電灯を付けて、勉強机の引き出しから〈Xチェンジ〉のカプセルが十錠ずつ分けられた袋を全て取り出す。それらを全てかき集めると、百錠は超えた。これだけあれば、わたしは何もかもから逃げられる。

 決心してベッドに行こうとした時、倒れた写真立てが目についた。長いこと倒れていたため、ホコリが被っている。ホコリを払って立たせると、それはシホとの写真だった。

 夏祭りの日だったか、彼女とわたしのふたりともが笑顔だった。一年も経っていないはずなのに、どこか遠い思い出のように思える。孤独が嫌だったからか、そのまま写真立ても抱えていく。

 帰り際に常夜灯に切り替えてベッドに座り込み、ワインの蓋を回し空けてポンという音を鳴らす。こんな楽しげな音も、独りでは虚しく響くだけだ。どうせなら、この音を遠い未来でシホと聞きたかった。

 そしてこれが、最期の臆病な勇気だった。

 最後に思い返したのはお父さんでも、お母さんでもなく、シホのことだった。



 黒板に描かれていくのは、あのときと同じ人魚姫の絵。今思えばこれは他の誰でもなく、わたしの末路だったのではないか。いや、下手をすればわたしは人魚姫より酷い。自分の身かわいさに人を殺した上に、勝手に泡になって消えたんだから。

 何故ここで一発くらい殴られなかったのか不思議だったが、そういえばシホはそういうやつだった。たとえそれが一番残酷だったとしても。

「題名は?」

 わたしはふと訊いてみた。これが彼女なりの皮肉なら、それを正面に受け止めたい。たとえ、それがあまりに受け入れ難いものだったとしても。

 しかし、シホは未だ手を動かして描いている。海を描いた彼女は、空を描く作業に入っていた。

「ん、待ってて」

「今度は『アキラの末路』だったりする?」

「同じようなもんだけど、ちょっと違うね」

 彼女は空に両手を広げる誰かを描いた。神だろうか。人魚姫にそんな要素があっただろうか。

 彼女は最後に海に差し込む光と風を描き、チョークを下ろして振り返った。

「おまたせ」

「これは――」

「違うでしょ。『題名は?』でしょ」

「……題名は?」

「『救済』……って感じかな」

 シホは手についたチョークの粉を払って誇らしげに身をのけぞらせる。 

 その題名の意味を知りたくて返事を迷っていると、シホがわたしの方に戻ってきた。彼女はわたしの前で屈み込み、わたしの右手を取って手の甲に口づけした。

 手の甲にどこか熱が帯びるようだった。わたしはすぐに手を引っ込めようとしたけれど、それがどこか彼女を拒むようなものに思えてできなかった。

 代わりに、いつもの調子で言葉を返そうとした。

「……えーと、これは」

 言葉が出てこなくて、視線はシホの瞳から右斜め上へと移っていく。それでも申し訳なくてシホを見つめようとすると、彼女はその様子にどこかおかしそうにしていた。

「いや、しばらく逢えないだろうから。もうすぐ、時間だから」

「時間?」

「アキラはまだ、死んでなかったんだよ」

 言葉とともに教室の景色は歪んでいく。ゲシュタルトの歪みは大きくなっていき、床だったものの一面には青く小さい花が咲き乱れる。それは花畑となってわたしたちを包んでいた。

 気がつけばわたしたちは青空の下で、青い花畑の中にいた。

 シホは寂しそうな顔を私に向けながら言った。

「ここがわたしたちのゴールのひとつだよ」

「……ここは?」

「〈Xチェンジ〉の栽培地、ってやつ。あくまで衛星写真をもとにしたイメージ映像だけれど」

 これが〈Xチェンジ〉の原材料の花ということを初めて知った。多くの悪夢を引き起こした根源であるその花は、皮肉にもとても綺麗だった。

 それにしても、本来は秘密裏にしているようなものを、何故彼女は知っているのだろう。そして何故それを教えたのだろう。

 そんなわたしの思考を読んだように、シホは手を空に掲げて映像を映し出した。それは青と白の入り交じったまだら模様の地球を見下ろしたものだった

「わたしの魂が死後にたどり着いたのは、天国でも地獄でもなく、どこかの国の放棄した人工衛星だったんだよ」

 そんなはたから聞くと荒唐無稽な話を信じられるはずがない。そう言おうとすると、彼女はそれも既に察したように苦笑していた。

「だからこれはヤバいんだよ。死後の人間の魂をありえない場所に転生させようとする。わたしはどこかの人工衛星だったけど、人によっては乱暴な子供の持つテディベアかもしれない」

「……まさかわたしの友達が文字通りの星になるなんて、誰が予想できる?」

 お互い、どこかおかしくて笑っていた。そして今自分の身体がどこか遠くに吸い寄せられるような、ここじゃないどこかに還っていくのを感じていた。そういえばわたし、まだ死んでないんだっけ。

「一度は仮死状態の魂を誘導できたし、次に会うのは死んだ後だね」

「そういえばわたし、なんでここに来れたの? 転生先でもなかったのに……」

「わたしが連れて来た、って方が正しいかな。それに、さっき言ったでしょ。次に会うのは死んだ後だって」

 魂があるべき場所に還っていく。死んでいる彼女とは違う、元の場所へ。このまま永遠に人工衛星でふたりきりとしていられるなら、あんな地獄の世界に帰らなくてもいいのに。

 わたしは彼女に身を寄せて、完全に還るまで次にいつ確かめられるか分からない感触に浸る。彼女の小さく笑う時のお腹の動きや、人工衛星になったなんて信じられないほどにどこか心地よいほのかな花の香り。今になってみると、どうして今までこんなことを感じようとしなかったんだろうと思えた。

「死んだ先はわたしが保証するよ。わたしはあなたにとっての、神様みたいだから」

 彼女のその言葉を最後に、わたしの意識がどこか遠くに行くのを感じた。



 わたしは今まで病院に眠っていたらしく、先日退院した。

 家族にもお医者にも、詳しい自殺の動機は話していない。きっとわたしたちにとって狭苦しい世界を完全には共感してはくれないだろうし、話して解決する話でもなかったから。

 彼女は今も宇宙の向こうで見ているだろうか。右手を透かして空を仰ぎ見る。あの時から、シホの口づけた右手には、どこか自分じゃないものの力が宿るのを感じていた。

 もしかしたらと思いながら、退院して次の日に、わたしはスケッチブックと鉛筆を持って近くの浜辺に行った。海開きもまだだったから、そこには誰もいなかった。

 わたしは適当な砂の上に腰かけ、スケッチブックに線を描いていく。あの日、彼女が描いていた人魚姫の絵。ただ描いているのを見ていただけなのに、まるで元から手に馴染んでいるかのようにそれをそのままに描いていた。

 絵が完成した頃には、その絵が滲んでいるのを感じた。滲んでいるのは絵のほうじゃなくて、わたしの視界だった。

 絵を抱えて、膝に顔をうずめる。視界は暗闇でごまかせても、嗚咽だけはごまかせなかった。悲しいはずなのに、寂しいはずなのに、それと同時にどこかおかしくて笑っていた。

「いるなら、言ってくれればよかったのに……」

 誰もいない砂浜で、わたしはひとり語りかける。だけどわたしには確かに彼女が存在していた。

 彼女がわたしの口を借りて応えた。

 ゴールにたどり着くまでのこと以外には干渉するつもりはなかったんだよ。一応はアキラの身体だから、と。

「いいよ、別に。変に気を使われるより、いつでもシホを感じられる方がずっといい。どうせわたしは孤独だから」

 わたしの中の彼女はムッとしたのを感じた。そうだね、そりゃそうなるよね。わたしはそのことにどこか安心感を覚えていた。

 わたしがいるから孤独じゃない、と。

 彼女の言葉を聞いて、わたしはすぐに砂浜から立ち上がる。ジーンズについた砂を払いながら、わたしはこれからの、青い悪魔の咲く花畑にたどり着くまでの、波乱万丈の人生を思い描いていた。

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