ポエナの衝動

おかみ

I



『これはある男の手記を交えて書かれた一族の記録である』




 風を浴びたかった。日の光を求めていた。村に風が吹かないわけではない。光がないわけではない。けれどそれでも、草のにおいがする場所で、生の光を浴びるのがいちばんだった。

 一歩外に出れば求めたものがすべてあった。靴の底を挟んだ草の柔らかさがある。湿気を帯びていない空気のにおいを感じることができる。ウィータは新鮮な空気を取り込んでから歩き出した。村のそばに一人でいるのは危ない。このあたりに人間がいることはほとんどないが、用心するに越したことはなかった。

 周囲を確認しながらウィータは歩き出した。特に行く当てなどはない。当初の目的は果たされてはいるが、村の近くにいれば万が一見られた時にいいわけが立たない。姿形こそおなじだが、人間たちは彼らがどこを住処にしているのか知っている。彼らにとって人間とは、ただおのれと違うというだけで怯える臆病な生き物であった。怯えの先が暴力に走らないとは限らない。むやみやたらと傷をつけられるのが一番困る。彼らは、人間とは比べ物にならないほど長い生涯にわたって努力を続けるものたちだ。一時の感情で無駄にされてはたまらないだろう。

 慣れた足取りで、ウィータは森の中を進む。道ができるのを防ぐために毎度違う場所を歩くのが常だった。季節柄か木の根元には小さな花が咲いており、ときおり虫が蜜をすすっていた。風が草木を揺らして音を立てる。前に比べて温まった空気のなかにほんのりと花の甘いにおいがあった。そんな小さなことでも、ウィータには新鮮に感じられた。

 木の表皮や青々と茂った葉の一枚に触れた。森を抜けると川がある。遠い人里まで続く川だ。すこし下った程度ではまず見つかることはないほど距離がある。ウィータはそこで川に手を浸して温度を感じるのが好きだった。今の季節だと、村に引いたものよりもすこし暖かい。温度を想像するだけでウィータの心は踊る。

 川までそろそろか、といった頃合いだった。実際に川の流れる音が耳に届き、ウィータはふと顔をあげた。

 川のそばに見慣れない、白い塊があった。はぴたりと足を止めた。

 高さはウィータのふくらはぎ程度しかない。丸く、大きな石のように固まっている。風で白が揺れるところから、どうやら布でくるまれているようであった。

 ウィータは引き返そうかどうか迷っていた。このあたりは村のうわさもあって、人間が入ってくることはほとんどない。ゆえに、景色の中に見慣れない、それもあきらかに人の手が入っているだろう物体があるのは不自然すぎた。人間のほとんどは彼らことを恐れて近づかないが、攻撃的な部類もいる。野山で獣を狩るように、興味を引いておびき出すつもりである可能性があった。

 まわりに人の気配はない。けれど、ウィータが来るずっと前から息をひそめていたならば信用のできない感覚だ。なにか行動を起こされたとしても死にはしないが、傷を受けてしまうということが彼らにとってなによりも問題である。

 そうして、数々の可能性や危険を加味していながら、ウィータはその白い塊に近付くことを決めた。同胞がいたならば彼を止めたであろうが、そうであってもウィータは行くことをやめたかっただろう。頑固な類ではない。けれど、ウィータはどうしようもなくそれに興味を惹かれた。あとになってみれば、それは運命とでも呼べる感覚だったのかもしれない。

 ウィータは周囲に罠が敷かれていないか、なにかが動く気配がしないかを確認しながら注意深くそれに近付いていった。木々が少なくなっていき、視界が大きく開ける。そこでやっと、ウィータは白い塊がかすかに上下していることに気が付いた。まるで、呼吸のように浅く、細かく動いている。

 白い布に触れると、それはほんのりと湿っていた。風に吹かれてひんやりとしている。あたりを見回しながらしゃがみ込み、掌を置いた。柔らかく、それでいてやはり冷たい。ウィータが手を置いたのはちょうど中央当たりであったが、そこを中心としてそれは上下していた。

 そのころには、ウィータにはそれがどういうものであるのかという妙な確信があった。そして、周囲に気を配ることをやめていた。安全を確認したからというわけでなく、緊張と、頭の中でがなり立てる警鐘からだ。関わるべきではない。そうわかっているのに、ウィータの手は白い布をまくり上げた。

 ひとの足が見えた。大きさからして子供の足であろう。骨と皮しか見当たらないほどやせ細っていた。衣服らしき茶色の布は見るからに水気を含んでいて、小さな体のぬくもりを奪っている。すべてを見るまでもなく分かった。捨て子である。

 人間は自らの子を捨てることがある。淋しさを埋めるために子を作るウィータらにはわからない感覚ではあるが、意にそわなかったり、養いきれないとわかると捨てるのだ。この森周辺は村の噂があるため、人間たちにとっては絶好の子捨て場である。実際にウィータは死んだ人間の子供が森に横たわっているのを何度か見たことがあった。森のはずれには死んだ子を埋めるための花畑がある。

 ウィータは手に持った布をそのまま落とした。これまでであったら、その軽くなった体を抱き上げて墓場へもっていってやるのが常であった。彼らにとって子供とは愛でるものであるという認識が強かった。おのれの寂しさを埋めるためにこさえた子供である。償いと言ってもよかった。おのれと同じ悲願を抱いて、長く努力を続けなければならなくなるのだ。とうぜんであった。それが人間の子供であったとしても、彼らにとっては子どもである。人間は避けるべきというだけで、憎む対象ではないのだ。生きる筈であった子供へ、せめてゆっくり眠ってくれるようにと地面に埋めるのが彼らの中の常識であった。

 だが、この子供は生きている。

 先ほど触れたてのひらが、それを十二分に証明していた。体温が奪われた体で、それでも生きようと懸命に呼吸をしていた。感触がまだ残っている。意識すればなおさら、浅い動きが浮かび上がってくるようであった。水の温度を想像していたときとは比べ物にならない生々しさだ。

 ウィータはその場でしばらく立ち尽くしていた。いまならどんな者でも簡単に彼を害することができただろう。それこそ、横たわっている捨て子でさえも。しかしそこに誰も現れることはなかった。ウィータが危惧していた人間もおらず、ただ死にかけの子供と彼だけがいる時間が過ぎていくばかりだ。ゆえに、ウィータを現実に呼び戻すきっかけは、彼が自分自身で作るほかなかった。

 楽しみにしていた川に手を入れることもなく、ただただ子どもを見つめることしかしなかったウィータは唐突に動き出した。湿った布のうえからそのまま捨て子を抱き上げる。

 考えるのに疲れた彼は、とりあえず子供を村へ持ち帰ることに決めたのであった。

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