おむにばす

佳祐

言霊

【言霊】





「大丈夫。」

光汰郎が聴いた、初めての彼の言葉だった。


 発作で彦馬が倒れたという報せが入ったのは、土曜日の午後だった。電話を受けた七支が努めて冷静にそれを伝えた声は部屋にやたらと響いて、七支の声が絶えた一瞬の後、満島の握っていたカップがその手からすべり落ちた。凍りついた部屋の空気が、カップ諸共砕け散った。

「あ…あ」

意味を成さない声が転がり落ち、その自分の声に反応した様に一歩を踏み出した彼は、破片を踏んだ音で床を見て初めてカップを割ったことを認識した様だった。

「…あ…片付けるね」

破片と紅茶の散っているのも構わず床に満島が膝をついたところで、歩み寄った七支が止めた。

「素手じゃあ危ないよ」

七支に破片に伸ばした手を掴まれた状態で、満島は静止した。七支が次の言葉を迷っているのがわかった。

「…病院へ行」

「行かない」

怯えと動揺を孕んだ張り詰めた声が、七支の言葉を遮った。

「行かない」

「満島…」

 満島の髪が揺れる。

「行かない!」

 空気が動いた。暁だった。彼は七支の肩に手を触れ、そっと離れた七支と入れ違いに満島の前に屈み込んだ。

 暁の唇が動いた。

「大丈夫。」

 息を、呑まずにはいられなかった。光汰郎が初めて耳にする少し掠れたその声は、優しさと力を纏ってその場の全員の耳朶を打った。

 暁の言葉には、言霊が乘るんだ。

 七支の言葉が反芻される。

 言霊。その言葉がぴたりと当てはまる、恐ろしいくらいに心地よい静かな声音に紡がれた言の葉が、

「大丈夫だよ。」

満島の震えを取り払い、部屋の空気を温める。顔を上げた満島の揺れる瞳を捉えて、暁は彼の両腕をそっと支えた。

「彦馬は、大丈夫だよ。そしてさとる、諭が側にいることは、きっと、彦馬の力になる。」

ゆっくりと語るその声が空気に染み入った。

 瞬きを忘れた様に暁を見つめていた満島の目から、涙が落ちた。血の気の無い唇が噛みしめられ、首が縦にこくりと振られる。ゆっくりとであったが満島は自分で立ち上がり、一つ呼吸をすると、こた、と呼んだ。

「運転、頼める?」

 光汰郎は頷いた。車を出すのを敢えて人に頼むあたりに、いつもの満島の落ち着きが戻ってきたのがわかる。

「行こう」

「皆、ありがとう。行ってくるね」

満島の言葉に、その背に添えられていた暁の手が、肩にぽんと置かれた。七支も満島の手を取る。

「一緒に行こう」

 七支の言葉に微笑もうとしてしかしできず、満島の唇が震えた。再び唇を噛んで彼は頷き、その目からもう一粒涙がこぼれた。

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