第140話 縁(中)

『そうだ。まずは自己紹介しないとね。私は』


『しってる、フルーゼ。このまえきいたから』


 そうか、最初に言ったんだっけ。ちゃんと覚えてもらっていて嬉しい。


『じゃあ、あなたの名前を教えて。そっちはまだだわ』


 本当は大人たちに彼女のことを訊ねたときに知っていたのだが、やはりこういう事は本人の口から聞きたい。


『アニエス。お母さんからもらったなまえだって、お父さんがいってた』


『……大切な名前なのね。わかった、覚えたわ。それじゃあ早速だけど名前を書けるようになりましょうか。大切なものをなくすことのないように』


 このあたりでは植物の茎を解(ほぐ)して編んだ布のようなものを紙として使用している。想像通りあまり安いものではない。しかし、ただ文字の練習をするだけなら簡単だ。

 そこら中が細かい砂だらけなので、日陰にさえ入ればいくらでも書いて消す場所がある。


『なくさないように……』


 こうして、私とアニエス。二人の特訓が始まった。





 彼女の言語習得状況は特殊だ。

 北大陸語と南大陸の公用語。二つを会話ができる範囲で使いこなしている。

 一方で片方は拙い幼児語、片方は傭兵のようなぶっきらぼうな表現という、どちらも改善の必要がある状況だった。

 そして、より深刻なのは粗野な南大陸公用語の方だ。

 なにせ、エンセッタでの会話はほとんどこの言葉で行われている。その印象が悪いというのは大きな問題だろう。

 幸い、話をしてみると彼女の語彙は少なくはない。

 悲しいことがあってふさぎ込んでいた間もずっと周囲の言葉に耳を傾けていたのだろう。

 同年代の中で極端に単語を知らない、ということはなさそうだった。

 そうとなれば彼女に必要なのは文法と言葉使いの矯正ということになる。


 しかし、ことは単純に運ばない。語彙があるといったところでこの子は六歳。まだまだ幼い。

 私だってこちらの言語を学び始めてから二年と経っていない。

 なにもかもを効率良く教えることはできない。

 とはいえ、それでもかまわないと思って始めたことだ。

 大切なのは一緒になにかすること。

 もしも二人ともわからないことがあれば、母にでも、他の大人にでも訊ねればよいのだ。苦労したことは深く覚える。

 学ぼうという姿勢を持っていることは周囲の記憶にだって残る。

 新たな人とのつながりを得る機会になる。

 遠回りをしてもそれが無駄になってしまうわけではない。


 ゆっくりとではあったが、彼女は言語を習得し、それよりも早く集落に受け入れられるようになった。

 無論、彼女の見た目がその弊害にはなっていたと思う。しかし、それ以上に同情が勝った。

 流行り病によって大切な人をなくした経験は多くの人が持っていたし、それを知らない子どもにだって何度も言い聞かされている。

 そんな子が頑張っている様子を見せられれば無下にする者ばかりではない。

 子どもの中には天邪鬼もいて、そういった理由で優しくされている彼女が気に入らないという意見もあった。しかし、そのあたりも彼女の人間関係が自然と解決してくれた。

 今、私を除いて彼女のことを最も心配しているのは父親の友人だったという彼女の里親だ。

 彼は商隊の人間で、離れて暮らすことになった今も義娘のことに心を砕いていた。

 そして、この地の子にとって商隊の人間というのは特別な存在なのである。

 内心でどう感じようと、そこに所縁のある人物を強く害しようとしたりはしなかった。

 距離をとっているうちに、彼女が南語を学んで融和していき、いつしかわだかまりもなくなって普通に話をするようになっていた。


 大切な要素(もの)は最初から揃っていた。

 ただ、きっかけだけが必要だったのだ。

 それを与えることができたという自負が自分の中にある。

 自分のやり方で新たな友人ができたというのも誇らしい。

 このことは、アイン達への手紙にも書こう。

 何事もなかったかのように『新しい友達ができた』と。少しだけ恰好をつけたい気分なのだ。


 勉強を始めて少ししたころ、私は一大決心をして彼女に一つの質問をした。

 それは「なぜ里親の元を離れてエンセッタに戻って来たのか」というものだ。

 ずっと気になってはいたが、最初の彼女にはとても聞けるような質問ではなかった。

 繊細な質問であろうことは想像に難くない。

 彼女の答えは、


『お父さんとのやくそくだったから。ここでいっしょにくらすって。なにもわからないうちにここをはなれてみんなとたびをしたけど、なんだかもどってきたほうがいいとおもったの』


 約束というものはわかる。

 彼女に遺された大切なもの。

 お父さんのお墓だってここにあるのだろうから、それだけで戻ってくるには十分な理由だ。

 なんとなく思った、というのは直感ということだろうか。

 何が彼女にそうさせたのかはわからないけれど、里親は彼女の願いを叶えることにしたらしい。

 ひとところにとどまった方が彼女のためだとそう思ったのかもしれない。

 エンセッタに、小さいなりに孤児を受け入れる環境があったのもその助けになった。

 彼女はこれまで辛い日々を送って来たが、決して周囲に優しさがなかったわけではない。

 私はそれを伝えることができるだろうか。伝えたいなと思う。


 数年の月日を過ごすうちに、私たちはすっかりエンセッタに溶け込んでいた。

 狭い共同体であるこの地では、人は多かれ少なかれ天の神殿に関わって生きることになる。

 母親が巫女である私はもとより、神殿に後ろ盾をしてもらって生きているアニエスにも当然そう言った義務がある。

 幼少時に神殿より課せられる義務というのは平たく言えば学習と信仰、そして労役である。


 この地は乾いた土地で碌な収穫物もないような所だが、それでも人は生き、乏しいながらも農作物を作っている。

 その源泉となる水はどこから来ているのか。

 年にひと月少しほどの間は雨季がある。

 集落の随所にある井戸にはそのときの水が溜められているのだが、これだけでは不足することも多い。

 しかし、ほとんどの人間は生活用水が不足する状況というものを深刻に考えたことはないはずだ。それはなぜか。

 答えは簡単で、雨季に関わらず活用できる水源がこの地にあるからだった。

 その場所こそ天の神殿。その地下である。

 どういったわけか、神殿の内部、地下構造は非常に広大な空間を有しているらしい。

 ほとんどは危険だという理由で封鎖されているが、ごく一部、ほぼすべての人に公開された場所がある。そこが神殿の地下にあると思しき湖、の端の端、小さな石造りの部屋と釣り堀のような水場だった。

 雨季以外の期間、集落のほとんどの人間は日に一度、割り振られた時間にここを訪れて水を汲む。そして、天の恵みに対して祭壇に感謝を捧げるのだ。

 生活用水の確保と信仰の二つを一度に済ませられる、などという考えは不遜だろうか。

 そこそこ大きい瓶を頭に乗せて上り下りのある地下へ水を汲みに行くというのは結構大変で、これができるようになると子どもは一人前になったと認めてもらえるようになる。


 その日はアニエスに初めて水汲みの仕事が割り振られた日だった。





 二人で頭に瓶を乗せて神殿への道をゆっくりと歩く。

 流石に毎日人が通るだけあって歩きやすい場所だ。

 ちょっとでも躓こうものなら大惨事になってしまうものね。


「大丈夫? 疲れてない?」


 いつもより少し口数が少なくなっている友人に声をかける。


「……ちょっと、だけ」


 かえってきたのは肯定の声。しかし、それ自体は想定の範囲内だった。

 多くの子どもはこの道を初めて通るときに、慣れない瓶を持って長く続く坂道を昇るのに苦労するものなのだ。

 だから、こんな場合の対応も用意されている。


「わかったわ、この先に少し広くなっている所があるの。そこに大きな木があるから、その木陰で休みましょう」


 神殿の周辺には、地下水のお陰か珍しく林のようなものがある。

 その木はそんな中でも特に大きなものだった。定番の休憩場所の一つだ。


「……ごめん」


 あやまる必要なんてないのだけど、アニエスはそれ以外のことを言えないというのもよくわかる。


「初めての子ってこんなものよ」


「でも、フルーゼはちゃんと水を運べたんでしょ」


 それはちょっとズルをしたからだ。

 私には循環という強い味方があって、力仕事をずっと楽にこなすことができる。

 しかし、それについて気になる点がある。


「出発した時は、全然平気だったのにな……」


 彼女は運動が得意だ。

 子どもの身空で隊商について移動ができるほどに強い体を持っている。

 そして、それが出来た理由は魔術にあるのではないかと私は思っていた。

 初めて会った時から彼女は循環をしている様子だった。

 なのに、これくらいのことで疲れるというのは逆におかしなことではないのか? そんな疑問が浮かんできた。


「少し良いかしら?」


 そういって彼女の肩に手を当てる。アインが昔そうしていたように……。


「何?」


「気分が楽になるお呪い、っていうよりも魔法かな」


 そういいながら彼女のオドを探ると、やはりほとんど循環していない。

 それに、今こちらを向いた彼女の眼の色、いつもより赤みが薄くなかっただろうか。

 そんなことを考えながらほんの少しだけ自分のオドを流し込んで最低限の循環を行ってみた。


「あ」


 効果はすぐに出た。私も経験があるのでわかる。もう大丈夫だろう。


「どう、歩けそう?」


 手を離して問いかけると、


「うん大丈夫。走ってでもいけそう」


 とすぐに答えが帰って来た。

 それはちょっと言い過ぎかな。瓶を落としちゃう。


「無理せずに行きましょう。さっきまでは辛かったんだから」


「はーい。でも本当に大丈夫だよ。さっきフルーゼがお呪(まじな)いを使ってくれたおかげでコツがわかったから。気を楽にすれば良かったんだ。ちょっと緊張してたのかな」


 気を楽に? 彼女はいつも使うことができていた循環が出来ていなかった。

 それが力を抜けばできるようになるものだろうか? 私の感覚ではどちらかというと逆なのだけれど……。


「どうしたの? 出発しないの?」


 そういう彼女の様子はいつも通りに見える。

 マナに感じる反応も強くなったし、瞳の色も綺麗な赤のままだ。

 本当に不調は緊張のせいだったのではないかと思わされる。

 しかし、さっきオドが循環していなかったのは確かだ。


 これまで、私は魔術のことを内緒にしてこの地で生きていた。

 それは、多くの人にとってそれが馴染みのない力だったからなのだ。

 しかし、もしかしたら彼女にはそのことを打ち明けた方が良いかもしれない。

 今回は立ちくらみ程度の不調で済んでいるが、彼女が自然と使いこなしている循環は危険なものなのかもしれない。

 やるべきことが一つ増えるな、と思いながら、瓶を担いでアニエスの後を追った。

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