第134話 引き絞られる弓(下)

 モリブデン鋼で作った極端に重たい矢じり。

 先ほどの鉛のものと体積重量、ついでに重心まで同じになるように調整してある。

 矢じりには溝が彫ってあり、内部に毒を溜めておける構造だ。これに毒を含浸させていく。僅かでも周辺に散ると恐ろしいので、なけなしのオドを使用して毒液自身を操りながら慎重に。


 それをフヨウはこともなげに受取り、一切の迷いなく射ち放った。

 全身を覆う防護服も、多少ましとはいえ、会話も難しいほどの強風もものともせず。矢は数秒の滞空の後に、当たり前の様に相手の触手の付け根に突き刺さる。

 成功だ。

 五百メートル先のたった数十センチほどの隙間。それは間違いなく神業と言える精密射撃だった。


 今回使用した毒は有機リン系の化合物。

 構造は非常に単純だが、ごく少量で多大な効果を発揮する恐ろしいものだ。

 当然人間にも作用するので、俺は手が震えないように気を付けながら取り扱っている。ただ肌に数滴付着するだけでも簡単に死ぬ可能性があるのだ。

 フヨウにだってそのことは説明してあるけれど、それでも手先が鈍るようなことはなかった。鋼どころではない、金剛の精神力かもしれない。


 しかしながら、数千トンを超えそうな巨体ともなればこの毒でも相性が悪い。

 同じ効果を発揮させようと思えば、十キログラム単位でぶちまけなければならないだろう。それを行うのは無理だった。

 でも、体の中に直接射ち込めるなら話は別になってくる。俺が解剖を行って調べたスキュラの構造。全身を覆う外殻の隙間、特に触手の付け根は脆弱だった。ここに重たく鋭い矢じりを使えば循環を行っていても攻撃を通せる可能性はある。そして、なぜかこの内側のすぐ近くには呼吸器に連なる臓器がある。

 毒の効果は神経系の阻害。端的に言うなら、呼吸や血流を邪魔することができる。


 文字通り息の根を止めることが難しくても、精神を乱す効果はあるかもしれない。こいつにとって命綱となっている循環。それを行うための集中力を奪う。

 今回、ここに来た最大の目的はフルーゼとの再会と安否の確認ではある。

 しかし、それを全てに優先するつもりはない。ここにいる人達が危険に陥るくらいなら撤退するつもりだったし、その確率は低くないと、そう考えていた。

 そんな状況になってもギース氏はまたここにやってくるだろう。だから、その時に少しでも突破をしやすいようにしておきたい。そういった考えからこの戦法は選んだ。

 例えば、今使用している毒は仮に相手を弱体化させる『だけ』だったとしても、今後それを回復させることのない不可逆性の毒だ。後遺症を残し次の突破口の足掛けにする。

 生物として弱者である人間の武器はこの諦めの悪さにある。


 同様の攻撃を五発繰り返し、フヨウはその全てを的中させた。想定を随分と上回る成果だ。

 今までのところ、相手に目立った動きはない。

 俺たちが打ち込んでいる矢は相手にとって針程度の大きさのものかもしれないが、全く無視できるようなものなのだろうか。

 あるいは、その巨体のせいで想定以上に『鈍く』なっている可能性がある。

 生き物は、体の全ての部分に痛覚があるわけではない。人は指先に一センチ刻みで針が刺さればその全てを認識できるが、背中だったら正確な数を把握することはできない。

 それと似たようなことがこいつにも起きているのかもしれない。


持っている素材の都合から、いくつか毒を変えながら攻撃を続けた。

 そして今、スキュラのマナ反応は最初の頃から変化しているように感じる。

 焦燥、不安、不満。人間のものとは異なるが、そういった印象が伝わってくる。魔物でも、これだけ強い魔力を持っていれば感情らしきものがわかるんだな……。

 とはいえ、表向きに暴れ始めたりするわけでもなく、やつはこちらのことを認識できていないのではないかと思う。やるべきことをやってしまおう。

 あるラインを超えて大暴れでも始めようものなら峡谷の崩落くらいは起きそうだ。それに巻き込まれては元も子もない。


 最後の毒であるフッ化水素酸を込めた矢を渡す。

 オドにはもう少し余裕があるのでポリエチレンの被膜カプセルを作り、外に溶出しないように追加処置を施した。相手に刺さった時点でそれが破れ、成分が流れ込む構造だ。

 御多分に漏れず、この物質も恐ろしく危険なものだ。

 一滴でも肌についてしまえば後で地獄の苦しみを味わうことになる。フヨウの玉のお肌に傷をつけるわけにはいかない。


 そんな危険物質を、幾分慣れてしまった精神で淡々と渡していく。一本、二本……。三本目は珍しく外してしまった。ん……? 何か様子がおかしいか?

 目が霞んだような気がして望遠鏡を降ろして見る。

 五百メートルの彼方にぽつんと見えるフジツボの様なスキュラが震えている? そう感じた。

 もしそれが本当なら、この距離でわかるほどだ。

 かなり大規模な運動をしていることになる。僅かな時間の後、気のせいでないことを示すかのように「ぶぅぅーん」という鈍い振動のような音が聞こえた。次いで動き出す触手。


 これまで、あのスキュラは触手を積極的に動かすことはなかった。

 たまにゆらゆら動いているのが見えたくらいだ。それもそのはず、自身が動けないあいつはエネルギーを無駄遣いできないので捕食と保身以外に運動をする理由がないのだ。


 そのセオリーを覆すように振り回され始める触手。その様子をあっけに取られてみている俺。


「次の矢を。二本同時で良い!」


 珍しく大きな声を出したフヨウは、風にかき消されないように要望を俺に伝えてきた。この環境でも射ち込みを続けるつもりらしい。

 問答をするよりも、矢を射る方が早い。そう考えた俺は、用意していた次の矢に加え、もう一本に魔術を施すと一緒に手渡した。

 数秒後にはその二本もスキュラに向かって飛び立っていた。

 もう着弾を確認する余裕はない。どうせ振り回される触手のせいでうまく確認できないだろう。


「撤退するぞ!」


 少しでも早い方が良い。そんな気がする。

 攻撃に使った毒液の空瓶なんかを放置したまま。必要なものだけを手早くまとめるとフヨウと一緒にみんなの方へと駆け出す。


「どうした!作戦は失敗か!?」


「わかりません。ただ、スキュラが暴れ始めました。一度撤退して様子を見ましょう!」


 この距離なら体長の数倍の長さを誇る触手も届くことはない。

 しかし、大量のサンドワームの活動が活性化する可能性がある。そうなれば退路の確保どころの話ではない。

 また、峡谷の岩盤も脆いものなので、あの触手が当たれば崩落が発生する可能性があった。

 直接巻き込まれなくても、強風に砂や砂利が混じると行動を阻害される恐れもあるだろう。


「みんな背嚢だけ背負え、外にあるものはいい。移動するぞ」


 ギース氏の判断は速やかだった。フヨウと俺を防衛するために準備していた小道具はそのまま放置して旅装だけを持って動くことを指示するとさっさと歩きだす。

 みんなそれに続く。多少もったいないという気持ちもあるにはあるのだが、この判断がこれまでの遠征失敗時に彼らの命を助けてきたのだと思えば、反対する気にもならない。


 しばらく、速足で距離をとることだけに専念した。

 後ろからは薄いマナの中に感じる強烈なスキュラのオドの乱れ。そしていよいよ激しくなる触手の鞭打による破壊音が聞こえてくる。


「……おい、いったい何が起きてるんだよ……」


「わかりません。ただ、状況は変わったと思います」


「あいつを……、倒せそうってことか?」


「それも……、わかりません。ただ、狂暴にさせてしまっただけの可能性もあります」


「……あんな化け物が大暴れなんてぞっとしねぇな。あのままだったらどうする――」


 そこで急に黙り込んでしまった。何か考えをまとめるようにゆっくりと口を開く。


「――スキュラ対策に、暴れさせて疲れた所を狙う、っていうのがあるよな」


「ええ、聞いたことがあります。石なんかを投げてわざと反応させるって」


 拠点防衛型のスキュラは反射的に触手を使う。

 しかし、エネルギーを温存しなければならない非移動型でもある彼らは基本的に持久力が低く、その状態は長続きしない。そんな特性を活かした戦法だ。


「それが、今ならできるってことか?」


「……俺たちだけなら無理です。見たでしょう。あんな矢が当たっても、ほとんど反応がなかった相手です。矢や剣でちょっと切っただけじゃあ傷は作れても殺すことは無理ですよ。その前に、周囲のワームでこっちがやられます。投石器でもあれば別ですが」


 あの巨体を物理的に倒そうと思えば、攻城兵器が必要になってくる。

 あるいは、カイルの勇者の力があればなんとかなるのだろうか。

 ……どちらにせよ、ないものねだりをしても仕方がないか。


「指を咥えて見ているしかないのか……」


「それが、一番効果的かもしれませんよ」


「ん? それはどういう――」


「先輩! 反応が変です。あんまり悠長に話している余裕、ないんじゃないですか!」


 先を行くメイリアからの叱責。

 確かに彼女の不慣れなマナ感知でもわかるほどのことが後方で起きている。

 持久力の低いはずの怪物の反応は、弱まるところを知らずとげとげしくなるばかり。

 辺りに密集していたサンドワームも影響を受けて動き始めているようだ。あまりにも数が多く、個々の動きは把握できないが、こちらまでやってくる可能性は十分ある。


「わかった! 魔物が来たら俺が後ろで対応する! みんなはサウラの所まで走ってくれ!」


 もうとっくに峡谷の影に隠れて見えなくなった怪物。

 そちらから何か異音が聴こえ始めた。

 大きな風船が割れるような音、岩盤が割れる音、そしてじじじ、と砂が擦れるような音。これらの混ざった不快な和音が風に負けずに聞こえてくる。

 どれも気味が悪いものだ。最初の一つは触手が音速を突破した音なのかもしれない。元々、スキュラの触手はかなり高速で動く。

 それが数十メートルにも及ぶ長さを手に入れた時、先端部分がマッハの速度に至ってもおかしくない。


 想像を絶する破壊が行われている可能性はあるが、もう今の俺たちにはあまり関係がない。むしろ、危惧するべきはサンドワームの動きだ。

 どういうわけか、あいつらにとってそこまで居心地のよくなさそうな峡谷に信じられないような数が集まっていた。

 かなりスキュラの方に密集していてくれたおかげで、今まで被害らしい被害は受けていない。こいつらが破壊から逃げようとすれば、移動のできない怪物よりもずっと現実的な危険として俺たちに降りかかることになる。

 とにかく優先するべきは距離を稼ぐこと。そして仲間との合流だ。

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