XLIV.難航
「それはどういう……ことでしょう?」
「どうもこうも、だから俺だって、その絵を描いたの」
不意のことで意味を掴みかねたユウリに対し、久世はそう平然と言い直した。
「総長はなぁ、何でもできんだぞ! 見た目はこんなだけど勉強もスポーツも、絵心だってあんだ! 隙なんてありゃしねぇ。完璧ってやつよ! ほれ! この特攻服の刺繍も総長がデザインしたんだぞっ! すげーだろっ!」
取り巻きの少年の一人がずいと前に出ながら総長の有能っぷりを力説するが、「見た目のことは余計だ」とすかさず久世から制裁を貰っていた。
「でもほんと意外ね、あんたみたいな粗暴な奴が美術部だったなんて。まあ、絵自体も粗暴だけど」
「う、うっせぇ! 好きだったんだよ。絵」
メアの言葉に久世はやや狼狽え気味になる。ほのかに頬を染め、出会ってから初めて見せる久世の余裕を欠いた様子に、メアは少し良い気味であった。
「でもこれって……」
時緒が声を潜めながら言葉を漏らす。
「うん、これで……」
燐華も同じように声を潜める。
「「揃ったぁー!!」」
そして二人同時に腕を振り上げ、腹の底から叫び声を上げた。周りの少年たちもわけがわからないまま呼応するように「うぉー!!」と雄叫びを上げる。
「ちょっと待ってよ燐華、時緒。その絵の作者を見つけたからって、まだ目的通りの絵を描けるって決まったわけじゃないでしょ?」
既に異世界への扉を開いたかのような達成感に浸る二人に、メアは釘を刺す。
「聞き捨てならねぇな」
「え?」
だが、反応したのは久世の方だった。
「そんなふうに言われちゃあ、やらねーわけにはいかねー。どら、描くもん持ってこいや」
ムキになって変な対抗心をメアに対してぶつけてくる。
そのいかにも子供染みた様子にメアは嘆息した。
それからはユウリ監修のもと、久世による〝飛竜の翼〟の絵制作が続いた。
「ふえーん……」
と嘆き声を漏らすのは時緒である。
二人が絵の制作にあたっているあいだは特にやることもないので、メアは時緒と燐華の宿題を見て過ごすことにした。
周りには同じくやることがなく手持ち無沙汰になってしまった取り巻きの少年たちが暇つぶしにと書架の絵本を読んだり、カーペットに直に寝そべりながら昼寝を敢行したりしていた。
哲学的幽霊の女性以外に特に客がいたところを見たことがないメアだが、何かの手違いでもし仮に今一般客が来店したらこの異様な様子をどう思うだろうと心配になった。
「ふえーん……」
数学のテキストを前にしてまるで鳴き声のように定期的に腑抜けた嘆きを漏らす時緒を余所に、メアが久世とユウリのグループを見遣ると、ちょうどユウリが深く溜息を吐くところであった。
「何? できたの?」
メアはユウリに声を掛ける。だが、その様子を伺うにあまり進行状況は芳しくないようだ。ユウリはメアの方を一瞥すると力なくもう一度息を漏らした。
「全然ダメです。むしろ遠ざかって行ってるとさえ思えます」
テーブルの上には既に何度か書き直したと思われる絵が散乱している。翼を持った躍動感のある竜の絵たち。感想こそ表に出さないが、その一部を見る限りではメアには良く描けているようにも思える。
だが、唯一〝正解〟を知るユウリからすれば、そのどれもが失敗らしかった。
「センスの欠片も垣間見えません。酷いです。反吐が出そうです」
「まあ、俺は絶賛お詫びの真っ最中なんだけどさー。もっと他に言い方あるくね?」
連続した制作作業で疲れが出ているのか、久世は覇気のない声色でそう漏らす。
「すみません。社交辞令というものを知らないもので」
「真顔で言うことじゃなくね?」
そのやり取りを辛抱強く眺めていたマサが徐に歩み寄る。
「総長ー、もうやめましょーや。こんなわけわかんねーガキの遊びに付き合ってやる義理ねーっすよ」
「うっせぇ! 義理ならあんだよ」
「でもよぉ、こんなメンドーなことになるなんて、総長は後悔してねーんすか?」
「壮絶にしてるよ! たった今! チクショウ!」
久世はたった今ユウリからボツをくらった画用紙を破り捨てながら吐き捨てた。
「埒が明かないので10分程休憩にしましょうか。頭を冷やして下さい」
添削する側も楽ではないのか、ユウリが辛辣気味にそう言うと久世は「はぁー!」と、あからさまに長い深呼吸をし、テーブルに突っ伏した。
「メアちゃーん。わたしもお絵かきが良いー」
「ダメよ。ほら、早く次の問題解きなさい」
時緒の集中力は限界を向かえていた。元より集中力に欠ける上、今まさにその真横では異世界へ行く為の作業が行われているのだ。
「でもこれ難しーよぉ。難問だよぉ。世紀の大難問だよー? 解いたら学会で賞金1億円とか出るやつだよぉ……」
何を大げさなと呆れた様子でメアは時緒のテキストを覗き込む。
「えっと、どれどれ……」
そしてテキストを見るなり言葉を詰まらせた。時緒の行き詰っている数学問題、それはメアにとっても確かに難問と呼べるに相応しいものであった。
「はぁ? 何なのよ、これ……。ホントに難しいじゃない……。ふざけてんの……?」
メアは時緒に聞かれないように口元だけでもごもごと文句を垂れながら、頭で計算式を構築していく。
「ところでおめーらは何やってんだ?」
ユウリからしばしの休憩を言い渡された久世は、ずいとメアと時緒のあいだに割って入る。
「ちょ、ちょっとぉ!」
メアはあからさまに嫌そうに眉を顰めた。
だが、久世は構わず、
「宿題かぁ? えーと、なになに? あー簡単じゃねーか。奇数ってことはnをゼロ以上の整数だとすると2n-1だろ? だからこれをこうやって代入して、ここをこうしてっと――」
時緒のシャープペンを奪い取り、勝手にテキストに式を書き込んでいく。スラスラと書き込まれる数式は久世という少年の風体に反して妙に綺麗だった。
「嘘でしょ……」
「すごーい! メアちゃんよりも早かった!」
心底信じられないという様子のメアと、正直に感嘆を漏らす時緒。
「はぁ? 俺ぁ高校生だぜ? 中坊の宿題くらいわかんだろ。ふつーに」
傍から聞けば確かにそうなのだが、メアには依然納得がいかなかった。確かに中学校の数学問題とは言え、時緒の通う学校は一応は進学校だ。こんな見るからに勉学とは無縁そうな男子高校生にしかも一瞬で解かれるとは、目の当たりにした今でも信じ難い。
「休憩は10分と言った筈です」
二人の反応のやや得意気になった久世だが、無情なユウリの言葉が彼の耳に入った。
「あいよ……」
久世は力なく了解すると、再び絵の制作作業へ戻って行った。
時緒の宿題の残りを確認する限り、後は単純な計算問題のみであった。これで一息吐けると、メアは頬杖を突いた。ふと燐華がシャープペンを鼻と唇のあいだに挟みながら退屈そうに適当な鼻歌を鳴らしているのを視界の端に捉える。
「あんた、宿題は?」
「終わったよーんだ」
燐華はそう言うとしっかりと回答の書きこまれたテキストをひらひらとメアに示した。
メアが「あっそ」と感慨の籠らない返事をすると、燐華はテーブルに突っ伏す形でシャーペンを挟んだままの顔を頬杖のメアの高さに合わせる。
「メアってさ、泣いたこと、ある?」
微睡むような虚ろな眼差し、普段の燐華にはない優しさを含んだ声色に、メアはばつが悪くなりやや眼球を横へ逸らす。
「ないわよ」
「泣きたくなったら言えよ。助けてはやれるかは……わからないけど」
いつもの燐華なら「赤ちゃんの時にも?」とでもからかいそうなところだが、そんな戯言が彼女の口から出る様子はなかった。そしてそれはメアにとってからかわれるよりもずっと不都合でもある。
「メアってさ、あんまり周りに甘えたことないでしょ」
「はぁ?」
「メア、覚えてる? わたしたちが出会った時のこと。何だか泣きそうな顔して一人でこのお店にいてさ……」
「泣きそうじゃないし!」
話を切り上げたくて少し声を荒げて見せるが、燐華はそれを「はいはい」と軽くあしらう。
「よくさ、泣きたい時は泣いても良いんだよって、言うじゃん。でもあれって嘘だよね。泣いても、涙が止まらなくなっても、そばにいてくれる人がいて初めて成立する贅沢な対処の仕方だよ」
「何が言いたいのよ?」
「別に。あのさ、わたし昔泣き虫だったんだよね。でも最近は泣かないようにしてんだ。だってさ、一回でも流れちゃったら、止まらなくなりそうじゃん? 『止まれっ! 止まれっ!』って念じてもね、そう思えば思う程ね。だからわたしは泣かないんだ。どんなに泣きたくなっても、グッと我慢するの」
「ホントに何なのよ……」
メアが返す言葉を探していると、カタンと、燐華が顔に挟んでいたシャープペンを落とした。
「でもわたしにはもうメアたちがいるから、いつでも泣けるね」
そう言って視線を泳がすメアに燐華は薄い笑みを見せた。
「あの子もさ、たまに泣きそうな顔してる時ある」
燐華が視線を送った先には久世に対し絵の指示をするユウリの姿。あの四六時中無表情に近い少女が泣きそうな顔? メアはこの燐華という少女の目には何が映っているのか、わからなかった。
「だーもうっ!」
静寂を破ったのは、久世が派手にテーブル上の画用紙をまき散らす音であった。どうやらついに堪忍袋の緒が切れたらしい。
「わっかんねーよ! 抽象的過ぎてよぉ! だったらその飛竜の翼ってやつを持って来いや!」
「それができるならあなたの絵は必要なくなりますが、大丈夫ですか? 無駄な絵の書き過ぎで頭どうかしちゃいましたか?」
「あー、どーかしちゃってたねぇ! ごめんねぇ! クソがぁっ!」
「ふえーん……メアちゃーん。世紀の大難問だよぉー」
隙間を縫うように時緒の嘆き声。
「今にも泣きそうよ……」
惨状にそう漏らしたメアを眺め、燐華は何故か満足げに微笑んだ。
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