XXII.九綯燐華の世界
その日は雨。
分厚い灰色の雲が覆いかぶさるようにして空を埋めている。
燐華は普段通り途中までの帰り道を時緒と共にし、家に着いた。
次の異世界召喚術式作成会議は、ユウリが無事魔術師の手記を解読した後に行うことになっている。その為今日は特に予定もない。
家の戸の前で折り畳み傘を閉じて雨露を払う。
だが、燐華にはその眼前に立つ古い日本家屋が果たして「家」と呼べるものなのか、未だにわからずにいた。
曇りガラスの張られた古臭い引き戸に手を伸ばしたところで一瞬立ち止まる。そして、そこだけ色が剥げて朽ち葉色になった取っ手を、朧げに見つめる。
いつもだ。
この「家」に住み始めてからというもの、燐華が何の躊躇いもなくこの引き戸に手を掛けたことはない。それはこんな雨の日であっても変わらずであった。そうしている間にも傘から曝け出した頭に雨粒が降り注ぎ、ばたばたと容赦なく濡らしていく。
「はぁ……」
と、自然と溜息が漏れる。曇りガラスに朧げに映る姿では自分でもどのような表情をしているかわからないが、恐らく友人たちの前では見せたこともない暗い表情をしているのだろう。燐華にはそれがありありと想像できた。
いつもなら友人たちとの約束が無くても公園等で適当に時間を潰すところだが、こう天気が悪くては仕方がない。立ち読み目的で駅前の古本屋までいけば雨露をしのげるかもしれないが、わざわざそうまですることでもない。
燐華は「ふぅ」と短い息を吐いて無理矢理
「あら燐華ちゃん、おかえりなさい」
チャイムを聞きつけ、ぱたぱたと忙しなく現れた女性は笑顔で燐華を出迎えた。だが燐華には、その笑顔は彼女が無理をして顔に張り付かせているものだとわかっていた。
「…………」
特に返事をするでもなく、燐華は無言で靴を脱ぐと足早に女性の横を通り過ぎる。一瞬引きつらせながらも辛うじて笑顔を保たせながら女性は慌てて通り過ぎた燐華の方へ向き直り、声を掛ける。
「り、燐華ちゃん。雨、大丈夫だった?」
「……折り畳み、持ってたから…………」
「そうなの……、良かった……」
それ以上会話が続くことはなく、燐華は速度を緩めないまま自室のある二階への階段を上がった。
家に入る前に作っておいた筈の気持ちは、折り畳み傘を持っていたことを報告する一言ですべて使い果たしてしまった気がする。燐華は、自室に入るとベッドになだれ込んだ。
先程出迎えた女性は燐華の実の母ではない。父方の兄の妻、つまり燐華の叔母にあたる人物だ。
燐華は三年前に交通事故で両親を亡くしている。あの日のことは今でも鮮明に覚えている。小学生の燐華から見ても飽きれてしまうくらいに仲の良かった父と母は亡くなる日、燐華を家に残して旅行へ行ったのである。わざわざ平日に父が有給を取ってまでして。そういったことは度々あった。だから燐華はその日の朝、学校へ行く準備しながら楽しそうに荷物をまとめる二人を飽きれながらもどこか微笑ましく眺めていた。それが彼女の目に映る最期の姿となるとは露ほども知らずに。
二人だけの旅行をずるいと思ったことはなかった。両親は優しかったし、幼いながらも他の家と比べても特に仲の良い夫婦なのだろうなと思っていた。だから燐華はそんな二人のことがむしろ微笑ましくもあり、何よりも好きであった。
だが年中のほほんとしているばかりでなく、活発だった両親の血が災いしてか、粗暴でやんちゃだった燐華が悪さをした時には、本気で叱りつけてくれた。父とは、生来負けず嫌いな燐華と度々同年代の女の子では到底考えられない程の激しい取っ組み合いの喧嘩を披露することもしばしばであったが、毎回最後にはしっかりと仲直りをした。
そんな生活が何の前触れもなく、終わりを告げたのだ。
そしてわけも分からないうちにこの家に引き取られることになった。幸い苗字は同じであったので学校生活にさして支障は無かったが、これまでの生活とは一変してしまった。
叔母は間違いなく良い人だ。父の兄である叔父も、父に似ず一見怖いくらいに堅物だが、間違いなく良い人なのだと、燐華は思う。
しかし、そんな叔父夫婦の善意が燐華にとっては、かえってこの家での生活において息苦しさを助長させる要因にもなっていた。
自分がろくでもない子であることは燐華自身が一番自覚している。
自分みたいな子がいきなりこの家に上がり込んで、快く思う筈がない。表面には出さないが、きっと心では疎んでいるに決まっている。
その奇妙な矛盾が、叔母たちの柔らかい表情とは裏腹に燐華のことを締め付けていった。
ベッドに横たわったまま、乱暴に結んだ髪を解くと、微かに残る雨水が頬に跳ねる。
両親を亡くしてすぐの燐華は特に荒れていた。
それこそ最初のうちは深い悲しみの中で膝を抱えてばかりいたが、自暴自棄の中でそのやり場のない感情はすぐに周囲への暴力へと転じた。そしてそんな燐華に対してなおも優しさを向ける二人が、燐華には理解できず、そして我慢ならなかった。わからないからこそ、心の靄は増すばかりであった。
決定的だったのは、クラスメイトの男子と喧嘩になった際、両親がいないことを馬鹿にされたことに怒り、その男子を階段から突き落として病院送りにした時のことである。
幸いその男子は骨折もなくすぐに退院したのだが、事態を重くみた学校側は保護者として叔母を学校に呼んだのだ。その時のことは燐華の脳裏に鮮明に焼き付いている。怪我をした男子の母親に向かって一心不乱に頭を下げる叔母の横で、燐華はひたすらに拳を握り、叔母の目を見ないように頭を伏せていた。結局、最後まで謝罪する叔母の目を見ることはなかった。
家に戻った時に叔母が燐華に向かって言ったのは、怒りの言葉でも、何かを諭すような言葉でもなかった。ただ一言「ごめんね」、そう言ったのだ。その時になってその日初めて叔母の目を見たが、悲しそうに歪ませたその目元に微かに涙を浮かべていたのがはっきりとわかった。
その時だ。
違う。
そう、思った。
それが一体「何が」かはよくわからないし、まだ幼い燐華の未成熟な思考力では、それを上手く推し量ることも適当な言葉に言語化して説明することもできないが、明らかに「違う」ということだけは、他でもない自分自身の感覚が証明していた。
あの時叔母が口にした「ごめんね」が、燐華には心底許せなかった。
ごろんとベッドの上で寝がえりをうち仰向けになると、所在なさげに制服のポケットから携帯電話取り出す。ちょうどその時である。友人(当の相手は頑なにそれを認めたがらないが)からメールの着信が入る。
燐華は仰向けのまま気怠そうな手つきでメール画面を開くと、胡乱な眼差しでその内容を眺める。
『解読が終わったらしいから明日秘密基地に集合ね。時緒には明日言っといて。今伝えるとうるさそうだから』
内容を理解すると、顔の上に上げていた携帯電話を持つ手を力なくベッドに放った。
そこでようやく彼女の表情に薄い笑みが戻る。
居場所がないと思っていた自分に、何となく「楽しい」と思える場所ができた。最近では仲間も増え、自分を入れて四人。
あの連中といるうちは、この家で感じている名状し難い暗い感情を忘れられる。本来の九綯燐華でいられる。
それは恐らく、あの三人が自分とどこか近い人間だからでろうことが、燐華にはそれとなしにわかっていた。
「わかる」というよりも「感じる」という感覚の方が正しいのかもしれない。当人たちの口から詳しい何かを聞いたわけではなかったが、燐華自身はそれを強く感じるし、当人たちも、気付いているいないに関わらず、そういった雰囲気に惹かれて自然と集まったのであろうと思うのだ。使い古された言い方をするならば〝類は友を呼ぶ〟である。
「異世界……かぁ……」
何と無しに呟く。
現在、つるんでいるうちの一人、燐華と同じ学校に通う友人が「異世界」なるものにご執心である。そして成り行きでその異世界というところを目指すことになった。
「くっだらないなぁ」
そう毒突きながらも自然と笑みが毀れる。
正直燐華自身はその「異世界」というものに何ら興味はなかった。だが、何でも良かった。何でも良いから、あの連中と馬鹿をやり、度々行き過ぎては変に真面目でお節介焼きなあの子からお叱りを受ける。その繰り返しが純粋に楽しかった。
目を閉じて、その時のことを想像する。
そうしている間だけは、この息苦しい空間の中で少し気分が晴れていくのがわかる。
「燐華ちゃーん。ケーキ食べるー?」
下で叔母の呼ぶ声が聞こえて、燐華の意識は現実に戻された。
異世界。
文字通り、この世界とは「異なる」世界。
興味はない。だが、仮に。仮にだが、その「この世界」とは異なる世界に行ける方法が本当に存在するならば、この世界での今の生活を終わらせて、その異なる世界で一から、あの子たちと共に新たな生活を始められるならば、それは存外悪くない。そう思えた。
終わってしまえば良いと思う。何もかも。
それが叶うのなら、異世界だってどこだって良い。
無論、あのご執心な友人と違い、燐華はそのような世界の存在をにわかには信じられない。
だが、同時に思う。
きっと、信じなければ行けないところなのだろうと。
だから今だけは信じてみることにした。
異世界の存在を。
この世界を終わらせる、何かを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます