XXI.理科室の恋心

「神の目を欺けばあるいは……、可能かもね」


 県立K中学校、校舎一階の理科準備室。


 古びたパイプ椅子に腰かける男性教師は意味深な面持ちで一言口にすると手元のコーヒーを啜った。


 普段理科の授業が行われる理科室に隣接する、この通常の教室の三分の一に満たない小部屋が、メアにとって数少ない学校生活においての安らぎの場である。


 精神的な疲れが溜まっていたメアは昼休みに、昼食もそこそこに理科室に訪れていた。


 正確には理科室の隣、理科準備室だ。


 部屋の蛍光灯のいくつかは切れてしまっており、ただでさえ薄暗いにも関わらずブラインドはすべて下り切っている。そんな室内の埃っぽい空気に薬品の香りが入り混じる。棚には透明や暗褐色の薬瓶が規則正しく並べられ、それぞれに内容物を示すシールが貼られているが、そのどれもが日焼けして薄く黄ばんでいた。


 だが、試験管やメスシリンダーといった実験器具も背の順に綺麗に整頓されており、管理する者の几帳面さが伺えた。


 そんな静謐さを保つこの部屋で、メアは「異世界へ行くことができるか否か」などという低俗な質問をしてしまったことを後悔すると同時に自分を責めた。メアは滅多なことで自身を責めたりはしない。それは、ほとんどの場面において他がメアよりも正しいということがなかったからだ。


 しかし、それは本来のメア自身の性質に基づいての言動に限った話。今回ばかりは少々邪な心が働いた。以前からしつこく異世界の存在を主張する時緒と、加えて異世界出身を自称するあの妙なクラスメイト。


 メアの本意ではない。

 

 どうかしていただけだ。


「神を……どういうことです?」


 聞いてしまった手前、無下にはできない。


「この世界が神様の創造通り、あるいは想像通りに動いているってことさ」


 そう掠れた微笑みを見せながら話す声は囁くように小さく、だがそれが理科教師、西連寺さいれんじの特徴でもあった。決して今メアと二人きりだからというわけではなく、事実授業中に、「先生聞こえません」と生徒から二、三度指摘が入るのが通例である。


「神様がどうとではなく、もっと、その、科学的にお願いします」


 「理科の先生なんだから」とまでは続けなかったが、いかにくだらない質問とはいえ、有耶無耶に返された気がしてメアは唇を尖らせた。


 対する西連寺は「まいったな」とでも言いたげに寝癖混じりの頭をぼりぼりとかいた。


 身なりはいつ見ても薄汚れた白衣ばかり。年中変に頼りなさげな困り顔で顎には無精ひげを蓄え、よくよく注視すればまだ青年のようなあどけなさがあることがわかるのに、必要以上に歳を食っているように見られてしまう。そんないかにもうだつの上がらなそうなこの理科教師が、唯一メアがこの学校内において心を許せる人物であった。


 メアはよく個人的に理科準備室に赴いては西連寺に勉強の教えを乞いていた。西連寺はプライドの高いメアが教えを乞いても気にならないくらいに色々なことを教えてくれる。それは単に西連寺が油断すると相手のことを考えず、説明に通常の学習要領を外れた高度な知識や専門用語を織り交ぜてしまうからであり、通常ならば教職者として身勝手この上ないのだが、その身勝手さがメアからすればかえって教科書の「勉強」の枠に捕らわれない、まるで研究者のような風体に見える時がある。そしてそれがメアの目には理不尽さというよりも、高尚でどこか魅惑的なものに映った。


 メアの周りの人間は、子供ならば酷く劣っており、反対に知識を持った大人であるならば例外なくメアを子供扱いした。


 だが西連寺は違う。メアのことを対等に見ている。少なくともメアはそう感じている。その上でメアのまだ知らない知識を披露してくれる。これ程までに有意義な会話のできる相手はこの学校内に留まらず、恐らく外のどこにもいないだろうと、メアは確信していた。


 そしてメアが西連寺の元を訪れる理由は他にもある。


 それは至極単純で、だがメア自身心の中で自覚しながらも、そのことに迷っている真っ最中でもある。


「…………」


 目で追ってしまうのである。


 軽く目を伏せてコーヒーを啜る手元を、だらしなく壁に寄り掛かりながら足を折る仕草を、何気ない挙措の一つひとつを、目で追ってしまう。


 そして知らないうちに両の頬が熱を帯びていることに気付く。


 メアは西連寺に淡い恋心を寄せていた。


 まったくその意が通じる筈もない西連寺に、メアは照れ隠し気味にもう一度、先程の説明を促す。


「先生!」


「うーん……」


 西連寺は考え込んでしまう。そしてその思案気な表情にメアは思わず見惚れそうになる。お世辞にも健康的とは言えないその面構えが、そのような表情も相まって一層儚く、けれども単純な〝弱い〟という感じはせず、どこか近寄り難い擦れた大人の雰囲気を醸し出している。


「科学的にって言われてもなぁ。例えば〝神の存在証明〟のように哲学的に考えるのが関の山だと思うけれど」


「哲学的な話は好きじゃありません」


 またもメアは照れ隠しにプイっとそっぽを向いて見せる。


「何故だい?」


「科学的じゃないから」


 それに最近は〝哲学〟という言葉に、あの下僕たちと集まる秘密基地もとい怪しげな絵本屋でよく見かける他称幽霊の不審な女性が連想させられる。〝幽霊〟は科学から最もかけ離れた存在だ。


「でもね、その昔、今ほど学問に隔たりはなかったんだよ? 哲学は科学の始まりとも言うし……、ほら、ピタゴラスは哲学者であると同時に優れた数学者でもあったって言うしね」


「昔の話は好きじゃありません」


「何故だい?」


「今の方が大切だからです」


「そうかい……。じゃあ、〝今〟の話をしようか」


 そう言うと、西連寺は机に置いていた飲みかけのミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。見慣れたメーカーのラベルが貼られたそれは、どう見てもコンビニ等でよく見かけるものであり、メアは怪訝そうに眉を顰めた。


「例えば、このペットボトルを床に落とす」


 言いながら、西連寺は自身の胸の辺りの高さで水が入ったままのペットボトルを持つ手を離した。当然のごとくそのまま床へ向かって落下し、一度低くバウンドしてから転がり、その先の机の脚で止まった。


「今一度だけほんの少し跳ね返って、そのまま床に転がってそこの机の脚で止まったね」


「はい。それが何か……」


「それはね、〝そういう決まり〟になっているんだ」


「どういう決まりですか?」


「つまり、ペットボトルは重さに従って落ちた。床で一回跳ねてそこに転がった。跳ねる高さ、跳ねる方向、転がる距離、転がる方向。それらはすべて落とした高さ、角度、ペットボトルの中に残っていた水の量、床の材質、硬さ、色々な条件を元に決められた法則でああなったんだ。現実的には難しいけど、まったく同じ状況を再現できるなら、まったく同じ結果になる筈だよ。反対に条件がどれか一つでも違えば、まったく同じ結果にはならない」


「えぇっと……あ、いえ、知ってます。物理学の問題ですよね?」


「まあ、細かい物理の内容は高校に行ってから習うから今は割愛するけどね」


 別に今物理の話をされても構わない。そう思ったが、メアは黙っていた。西連寺はメアのことを子供扱いする人間ではない。であるならば、むしろそういった強がりを口に出す方が子供だと思ったからだ。


「この世の中には決められた法則がある。そしてもし、そんな法則を作ったのが神様のような存在なら、この世の中は神様の手によって生まれたゲームのような世界なんじゃないかっていう考え方があるんだよ。どう? 面白くない?」


「…………、あんまり……」


 メアは正直な意見を漏らした。だが、そんな下らない戯言の類も同世代のクラスメイトから聞くと腹が立つだけにも関わらず、意中の相手の口から出たものだと、どこか少年のような可愛さというものを感じてしまうメアであった。


「それに、それが〝今〟に関係する話なんですか?」


「そうなんだ。とある実験でね、とても小さな小さな、顕微鏡で見るよりももっと小さな、目に見えないくらい小さな世界での実験なんだけど。その小さな世界ではね、今僕たちが当たり前のように目の当たりにしている法則とは異なる動きを見せることがあるんだ。まあそんな実験自体はかなり前からあるものだけど、今になっても説明が付かない、わからないことだらけなんだ」


 だから〝今〟の話さ、と言ってすっかり冷めてしまったであろうコーヒーに口を付けた。


「神様もそんな普通なら見えないくらいに小さなところまで細かく法則を作るのは大変だからねぇ。サボっちゃったんだよ、きっと……」


 西連寺は、大変な時は自分もサボりたくなる、と口にしかけて慌てて取り繕った。


「見えないからサボっちゃうなんて、神様も子供ね。先生がいない自習の時の男子みたい」


「勉強をサボるのは良くないけど、適度にサボるのは悪いことじゃないよ? ゲームって言うと、例えばテレビゲームってあるじゃない? 人間だってテレビゲームを作る時、不必要な場所まで作り込まないでしょ? ありとあらゆるところまで作り込んでいたら一生掛かってもテレビゲームなんて完成しないしね。普通は見える場所、想定できる場所までしか作らない。完璧なんて求めちゃあ何もできなくなる。ポリゴンの裏の世界は何にもなくて普通なんだ」


 時緒と違ってテレビゲームに一切興味のないメアは黙って結論を待つ。


「だからね、最初の話に戻るけど、〝神の目を欺けば〟可能なんじゃないかな? その、異世界ってのに行くのも。だって神様も思いがけないような、想定できないようなことをすれば、神様の法則の外の現象が、つまり、何が起こってもおかしくないと思わない? 要するに可能性の話だけどさ」


「それが、先生の考える異世界へ行く方法ですか?」


「うん、どう? 納得できた? 合格?」


 顎に手を当て、少し考え込んでからメアは結論を出した。


 それはメア自身の率直な意見でもあり、西連寺の、困ったり照れたりする顔が可愛くて好きだからという理由でもあった。


「すっごく、くだらないですね」


「はは」


 西連寺は苦笑いしながら寝癖頭をぼりぼりとかいた。


「でもまあ、わたしの知り合いに、『車に轢かれて死ぬ』のが異世界に行く方法だって主張する人間がいるんですが、それよりはいくらかマシですけど……」


「ふーん。でもあながち遠くないんじゃない? 僕の考えと」


「はあ? どこがですか?」


 くだらないと評したとはいえ、時緒のような未熟な考えが先生の考えと同列に並べられたことに耐え切れず、メアはつい声を荒げてしまう。


「だって、体験したことある人、いないでしょ? 今生きている人間で『死ぬ』ってことをさ。確認できない以上、色々な可能性があると思わない?」


 確かに先程、「要するに可能性の話」だと西連寺は言ったが、そんなことを言い出したらキリが無い。そんなもの思考停止と同義だ。


「思いません」


「だよねぇ……」


 メアがそう言い切ると、西連寺はまたも頭をかいて誤魔化すような笑みを浮かべた。

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