Ⅻ.これで嫌わずに

 その日の授業を終えて帰路。

 メアは曇り空を仰ぐ。


 この世界はくすんでいる。


 何処も彼処も淀んだ空気が満ちている。


 それは例えば、毒のようなものだ。


 その空気を吸い続ければそれは血液を伝って循環し、脳に、内臓に、筋肉に、身体を組織する細胞全土にその毒は蔓延し、やがてくすんだ世界の一部へとなり下がる。


 人間は細胞レベルでどんどん変化している。


 一分一秒たりとも同じではいられない。


 毒に侵され続ける。


 そうならない為の特効薬は、常に意識すること。


 意識を強く保ち、そこに立ち続けること、それが唯一のワクチンだ。


 この世界で石川メアという個を揺ぎ無く確立する為には、そうするしか他ない。


 他からの空気にいとも簡単に流されるのも、影響されるのも、価値観を普遍的に保てないのも、ある種の病気だと、メアは思っていた。


 傍らにはユウリという少女。


 いつからか、ユウリは長い髪を一つ結びにするようになった。メアを真似たのであろうことは明白だった。


「石川さん」


 教室で一度は「話しかけるな」と突き放したものの、今のユウリはメアに普通に話し掛けてくるし、こうして寮までの帰り道も普通に付いてくる。


 それは何もユウリが図々しい性格だからではなく、(鈍感な部分がある意味図々し性質とも言えなくはないが)メアがユウリという少女に対して徹底して冷徹を貫けていないからだ。結局、最終的にメアから話し掛けてしまっているし、最終的にメアの方から関わってしまっている。


 そうしているうちにユウリ自身もメアが「真に冷たい人間だから冷たい接し方をしているわけではない」と考えるようになってしまっていた。


 メアは思っていた。


 これは〝病気〟だと。

 意識を強く保たねば。


「石川さん?」


 今だって別にユウリと仲良くしたくてこうして一緒に下校しているわけではない。最近この界隈で女子生徒が巻き込まれる事件が多発していることを鑑みてだ。


 最初にその事件の話を担任の篠原から聞いた時は、巻き込まれに行く方にも原因があると評したが、この世間知らずの少女には一般常識や常人の感覚と呼べるものが通用しないのだ。わけがわからないうちに巻き込まれる可能性だってある。


 そしてその可能性があるならば、それを防ぐのは不本意とはいえ風紀委員である自分の役目でもある。


 これは決してこの少女の為ではない。意識を強く保たねば。


 そう考えていると、ポケットから着信音が鳴る。


 表示された「母」の一文字を確認し、メアは目にも止まらぬ速さで電話を切った。


 まったくこの世界の住人は四方八方からメアを脅かそうとする。

 近くにいても遠くにいてもあの手この手で。


「石川さん。あのー石川さん」


 早歩きのメアの横を小走りで付いてくるユウリは、お揃いの髪をブルンブルンと左右に揺らしながら返答の無いメアの顔を覗き込むようにした。


 そこでついにメアの中で何かが切れた。


「何よ! うるさいわね! 話し掛けないで!」


 急な返答にユウリは思わず黙り込んでしまう。


「うるさい、うるさい、あーっ! うるさい! ホンっとうるさい!」


 黙りながらも、律儀に早歩きのメアと歩調を合わせていた。だが一度火が付いたメアは止まれない。


「それにあんた、髪型被ってんのよ。横並ばないで。仲良しって思われるでしょ!」


「思われますでしょうか? それに思われたところで、何か不都合でも…………」


「あるのよ! あんた、クラスで嫌われてるのよ。わからないの? そんな奴と仲良しって思われたらわたしまで変に思われるでしょ!」


 この言葉は嘘であった。メアにもわかっている。ユウリは単に世間知らずなところを変人扱いされて面白がられているだけで、実質クラスで一番嫌われているのが自分なのだと。そんなことは別に良いと思っていた。


 だが、そんな嫌われ者の自分と世間知らずが仲良くつるんでいるだなんて、傍から見たらかなり惨めな光景だと思ったのだ。


「わたしは例えクラスのほとんどの方から嫌われたとしても、誰か一人にでもに好かれればそれで良いと思っています」


「あっそ。それじゃあ残念だけど、あのクラスであんたのこと一番嫌いなのわたしだから」


 メアは冷たく言い放った。


 言いながら一瞬心が揺らぎかけたが、同時に意識を強く保つと念じていたメアの言葉は、真っすぐな音となってユウリの耳に届いた。


 瞬間、ユウリは歩みを止める。


 それに気が付いてメアも歩みを止め、振り返った。


 だが、ユウリは落ち込む様子を見せず、その代わりに一心不乱に自身の持つバッグの中を漁り、何かを探す素振りを見せたかと思うと、一本のハサミを取り出した。家庭科の授業時に使った布等を切る為の裁ちバサミだ。


「これなら嫌わずに一緒にいて頂けますか?」


 メアが何か反応を見せるよりも速く、ユウリはそのハサミで自身の髪を肩位までの長さを残してバッサリと切り落とした。


 ゴムで束ねられたままの黒髪が一房、ふわっと地面に横たわる。





「きゃぁぁぁぁぁぁあ!!」





 そのあまりにも唐突な行動に、メアは一秒程遅れて悲鳴を上げた。


 それからのメアは混乱の渦の中にいた。


「あああああああああなた! おおおおおお女おお女の子がぁ! おおおおおお女の子のだだだだだ大事なかかかか髪をおおおおおっ!?」


「石川さん落ち着いてください。ただ髪を切っただけですよ?」


「くぁwせdrftgyふじこlpくぁwせdrftgyふじこlpくぁwせdrftgyふじこlp!!」


「どうしましょう師匠、石川さんが故障してしまいました……」


 騒ぎを聞きつけたのかユウリの胸ポケットから顔を出したネズミに問うが、いつもならちちちと鳴いて返事をしてくれるネズミ師匠も、不思議そうに首を傾げるような仕草をした。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ…………」


 年頃の少女がいきなり何の躊躇いもなく髪を切り落とすという暴挙に、未だ混乱が収まらないメアであったが、何とか呼吸と、勢いで少しずれた眼鏡を整えると、


「あ、あんた! ちょっとこっち!」


 そう言ってユウリの手を掴み、無理矢理引っ張る形で駅の方角へ向かった。

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