第13話 春宵奇譚 その2

 枯草ばかりの日当たりのいい土手の斜面に、萌え出したばかりの青葉がちらほらとのぞく。土手の上を通る小道はリコのいつもの散歩コースで、その日もリコは下を流れる小さな川を眺めながら、踏み固められた土の上を歩いていた。日は西に傾き始めたものの、夕暮れにはまだ間がある。犬を連れた年配の男性が前からやって来て、リコは道を譲ろうと斜面に一歩足を踏み出して立ち止まる。男性は軽く会釈をしてリコの脇を通り過ぎていった。

 すっかり春めいてきてうれしい。

 リコの目にする小さな川は、この先にある雑木林を水源に、平らな土地をゆるゆると流れる。ほとんど流れているように見えないその川の、瀬音はまるで聞こえなかった。

 すっかり水温むって感じ。

 頭のてっぺんに当たる日差しは春の陽気で、顔に当たる微かな風も南から吹いている。もうすぐ日の暮れる時間だけれど、ちっとも寒くない。季節の変わり目で、まだ寒くなる日もあるだろうし油断はできないと思うものの、気持ちが自然と浮足立ってしまう。リコのいつもの悪いクセだ。

 枯草を踏みしめたまましばらく立ち止まっていたリコは、ふと自分の足下に目を向けた。フキノトウが土から頭を出していて思わず顔がほころぶ。急いでしゃがみ込み、フキノトウに手をかけた。その根本をつまんで持ち上げて……そこで何か気になることでもあったのか、肩越しに後ろを振り返った。さっきすれ違った犬の散歩の男性の、後ろ姿をじっと眺める。

 もっと道から離れたところのものにしよう。

 立ち上がったリコの目が土手の斜面を下る。少し離れたところにもフキノトウは行儀よく並んでいた。列を作って川へ向かうように頭を出しているので、リコはますます浮足立つ。フキノトウは丸っこくてまだ小さくて、半分土に埋まっていて、目立たないのだけど、一度気がつくと不思議にそればかりが目につく。

 がっついてるみたいで、みっともないな。

 少し冷静さを取り戻して、リコはゆっくりと土手を下りる。そしてもう一度しゃがみ込み、肩から提げていたカンバス地のトートバッグから、お守りとしていつも入れてある十徳ナイフを取り出した。折りたたまれた刃をつまんで引き出して、フキノトウの根元に当てる。手際よく三つほどを切り取って少し考える。

 今夜食べる分だけなら五つあればいいかな。

 リコはもう二つを切り取ってからバッグの中を探る。昼食に買ったパンが入っていた紙袋があったはず。軽く土を払ってその紙袋に、五つのフキノトウを入れた。満足して立ち上がった時、数歩先にツクシが一本生え出ているのが目についた。

 ツクシにしては少々太いそれを、ツクシと見誤ったのは、全体に白っぽくて薄い茶色をしていて、フキノトウを摘んでいた土手の草の中だから、思い込みがあったせいかもしれない。それが風に揺れる。

 揺れてる?

 リコは目をしばたたいた。風に身をまかせているようには見えない。意志があるような不自然な揺れ方。一歩近づくと、それは中ほどから直角に折れた。川上に向かって、まるで何かを指差すみたいに。

 えっ、指?

 リコはそのかたわらにしゃがみ込む。まじまじと見なくても、この距離ならそれがもう間違いなく指だと分かる。

 曲がっていた指がそのまま真っ直ぐに川上を向いて伸び、ゆっくりと元に戻った。伸びたり曲がったり、また伸びたり……幾度となく同じ動きを繰り返す。

 ほっそりしてる。女性の指っぽい?

 リコは自然と指差す先を見てしまう。

 あらら……。

 そこから数歩離れた先にも、地面から生え出た指が見える。リコも今度は最初から指だと思った。近づくと伸びたり曲がったり、先ほどの指と同じ動きをし始める。一度気がつくとそればかりが目につくものだ。その先に点々と続く、動く指が見えた。

 お葬式の案内の貼り紙みたい。あれ、最近見ないけど。

 そのユーモラスな動きに、リコは今にもスキップしそうに歩きだす。案内される先に興味が出てきた様子。

 いや別に、案内されてるわけじゃないって、知ってますけど。

 軽口も飛び出す。

 行く手に見える小さな橋の上をランドセルを背負しょった子供たちが、転がるようにかけていった。橋の向こうの雑木林がこちらに長く影をのばす。いつの間にか、日もずい分と傾いているのだった。

 点々と続く指は橋の向こうを差し示す。川べりを歩くリコは、そのまま橋の下をくぐる。小さな橋のこと、一瞬影が差してすぐに向こう側へ出た。


 その途端――照明を落としたようにいきなり夜になった。


 リコはびっくりして振り返る。

 ついさっきくぐったはずの橋がずい分と遠くにある。橋の下から見える向こう側の風景が、トンネルの出口のように、そこだけぽっかりと明るい。

 ……なんで?

 リコは不思議に思いながらも辺りを見回す。気を落ち着けてみると、うすぼんやりと明るい気もする。右手の土手の上に街灯などはなく、いつの間にか歩く人もいない。見上げた夜空もいつもと変わらず、ぽつぽつと星が瞬くだけで月も出ていない。不意にさらさらと、瀬音が耳についた。瀬音以外は何も聞こえず、そのことで辺りの静寂がいっそう引き立つ。

 とりあえず、戻ろっか。

 リコはぽりぽりと頭をかく。橋に向かって一歩足を踏みだすと、背中の側が妙に明るくなった気がして振り返った。

「なんと!」

 リコはまたも目をしばたたく。

 天を衝くかというほどのおおきな枝垂れ桜が満開だった。

 さっきなかったよね、あれ。

 狭い土手に張ったごつごつとした太い根は、隆起してその一部が川の中まで伸び、その胴回りは大人五人が手を回しても抱えきれそうもないように見える。やや赤味の強いピンク色の花を目一杯つけた枝が、地面や川面の近くまで枝垂れていて、風もないのにゆらゆらと揺れる。木全体がピンク色のもやにけむるようだった。

「綿菓子みたい」

 リコが率直な感想を口にする。

 根元まで近づいて幹にふれてみる。気のせいか鼓動を感じる。ふれながら幹の周りを一周する。ピンク色のベールの内側から外の世界を眺めているようだった。リコは座り心地のよさそうな、盛り上がった根の一つに腰かけた。

「いいもの見た」

 興奮覚めやらぬ様子でため息を一つく。その足下に指が一本、真っ直ぐに突き出していた。思わずリコはつられて上を向く。枝垂れる枝の尾を引いて、花が自分目がけて降ってくるようで目まいを覚える。

「桜に酔いそう」

 目を戻すと指は十本に増えていた。それぞれに、ゆっくり、ゆらゆらと揺れる。リコは立てた膝にあごをのせ、しばらくその様子を眺める。

「この感じ、見たことある気がする……」 

 実は最初に見た時からずっと気になっていたことだった。

 しばらく眺めてリコは「あっ」と声を上げる。

「チンアナゴ!」 

 胸のつかえが取れたようで、リコはすっきりする。

 以前に水族館で見たことがある。水槽の中の砂地の底から細い体を立てて、何匹ものチンアナゴがじっとたたずんでいた。そのとぼけた様子がユーモラスでかわいくて、とても印象に残っている。その後、砂の巣穴の中には、出ている部分の数倍に及ぶ長い胴があると知って、あまりかわいくないかも、と思ったりもした。


 さて、いつまでもこうしているわけにもいかないし。

 リコは夕飯に食べようとフキノトウを摘んでいたことを思い出す。立ち上がってお腹の具合を確かめる。いい感じに減ってきている。フキノトウは天ぷらにするつもりだった。

 そういえば天ぷら粉、うちにあったっけ? 念のために買って帰った方がいいかな。お店、まだ開いてるよね。このへん夜になっちゃってるけど、まだ夕暮れのはずだし。帰ったらご飯を炊いて、その間にお風呂に入って、フキノトウを揚げるのはお風呂の後にしよう。

「それじゃ、今日はありがと」

 まだ思い思いに揺れている指たちに手を振って、リコは橋に向かって歩きだす。さっきよりだいぶうす暗くなってはいるものの、橋の下から見える向こう側は、まだ夕暮れに差しかかったばかりの風景。帰り道が明らかなのでリコは安心して歩く。

 こうした手合いは金気かなけを嫌うって言ったから、十徳ナイフをわざわざ買って持ち歩いているのに。あの、狸さんったら。まあ、今日は別によかったけれど。

 そしてリコは、天ぷらは塩で食べよう、と不意に思いつく。

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夜を拾いに @sakamono

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