第12話 秋の雷(いかづち)
大家さんからは時々卵をもらう。僕がいつもスーパーで買う鶏卵よりも少し小振りで、日の当たる加減でうっすら水色をしているように見える。その日も部屋にいた僕は、アパートの低い生け垣越しに大家さんから声をかけられた。
「ありがとうございます」
卵を五つ、両手でつつむように受け取りながら僕は言った。
「その日のうちに食べてまうのが一番や。明日また持ってきたるからな」
気前よく言うけれど、そんなにたくさん卵ばかりも食べられない。
「今年もじきにシーズンオフやから、閉店セールや」
シーズンオフ? 卵ってそういうものだっけ? そんな僕の怪訝そうな顔には頓着せず、大家さんはアパートの前の路地を自宅の方へ歩きかけ、
「あっ」
と、僕にも聞こえるくらいの大きな声を出して立ち止まった。
「二、三日、用事で留守やから、家賃は週末にしてや」
そう言うと、アパートの隣の自宅へ入っていった。
しまった、家賃の支払い。忘れてた。期限を一週間ほど過ぎている。それとなく催促するところが、さすが大家を長くやっているだけのことはある。噂によるとこの辺りの大地主で、四百年は生きている古狸らしい。
家賃は毎月手渡しで、大家さん曰く「ご近所づき合いは大事やで。月にいっぺん、こんなふうに話をするのも仕事のうちや」とのことで、「健全なアパート経営」のために必要なことなのだそうだ。
「話が長くて参ります。あれ、趣味の骨董自慢をしたいだけに違いありません」
そんなふうに言うのは隣の天城さんだ。その意見には僕も半ば同意する。
大家さんの家の玄関を、入ってすぐ右に事務所といった体の部屋があって、毎月そこで家賃を手渡すのだけど、入り口をのぞく三方の壁に三段の棚が設えられていて、所狭しと自慢の骨董が並べられている。焼き物が好きなのか、大小の皿、小鉢、徳利、盃、蕎麦猪口、箸置きなど。どういった趣味なのか、焼き物のかけらのようなものもある。大きくて重そうな、信楽焼の狸の置物が、棚の下の床の上に直接いくつも並べられていた。
棚の上の骨董たちはガラスケースに入れられるでもなく、ほこりをかぶっていて、あまり大事にされているようにも見えない。部屋の真ん中に安手の応接セットといった、ソファとローテーブルがあって、大家さんがいつも座るソファの、すぐ後ろの棚に置かれた骨董だけは、ほこりもかぶっておらず、手入れがされているように見え、その辺りに置かれたものが、近頃の大家さんのブームのものだと分かる。
僕は週末までに銀行へ行って、お金を下ろしてこようと思う。それよりも、今はこの卵をどうするかだ。全部ゆで卵にしてしまおうか。簡単だしつまみにもなる。ご飯のおかずにしてもいいし。
部屋に戻ろうと縁側に足をかけた時、ふと視線を感じて左を見ると縁側に首だけ出した天城さんが、じっとこちらを見ていた。
「こんにちは」
内心びっくりしたことを悟られないように、努めて落ち着いたふうを装って僕は言った。
「大家さんに卵もらったんです。いかがですか?」
天城さんは一転、喜色満面といった顔つきになって、うれしそうに縁側からサンダルをつっかけて僕の方へ来た。
「私もたまにいただくのですが、大家は狸の血筋でしょう? どうもそりが合わなくて……いえね、卵は大好きなので、いただけたらうれしいのですけれど」
天城さんは、僕が両手で捧げ持つようにしていた卵を一つつまみ上げた。左手に持ったその卵の先端を、デコピンの要領で右手で弾いて穴を開け、その穴に口をつけると天を仰ぐように上を向く。天城さんののどが動く。
あら、まあ。流れるようなその所作を、僕は感嘆の思いで眺めた。
「ごちそうさまでした」
天城さんは空になった卵の殻を僕の手に戻した。
「どういたしまして……なんか、その……ワイルドでしたね」
言うべき言葉を探して、僕はどうにかそれだけのことを言った。
「さすがライチョウの卵はひと味違います。悔しいけれど」
天城さんは僕に向かって深々と一礼すると、縁側から部屋の中へ入っていった。
へえ、これはライチョウというトリの卵なのか。
とりあえずは思わぬところで一つはけた。もう一つ勧めればよかったということは、後から思いついた。
アパートの路地をはさんだ目の前には、そこだけ宅地開発から取り残されたような雑木林があって、大家さんはそこで、ライチョウというらしいそのトリを放し飼いにしていると聞いた。路地から林の奥へ続く小道が、中を一周して戻ってこられるようになっていて、踏み固められた小道の
その夜、残りの四つの卵を僕はゆで卵にした。
秋も深まった午後の五時は、もう真っ暗だった。銀行からの帰り道、さっきから家路を急ぐ僕の目の前の空が時折光る。光る度、大きな黒雲の輪郭が目に映る。びっくりするほど大きな黒雲で、何だあれ? と不思議なものを見た気になったけれど、すぐに、ああ入道雲かと納得する。遠雷も聞こえる。家に着くまで降ってくれるなよ、祈る気持ちで足を早める。
両脇に家の並ぶ、住宅地の路地の先にアパートが見え、降られずに済んだとホッとした時、白いものがひらりとアパートの低い生け垣を跳び超えて、路地を横切った。布団のシーツがひるがえったように見えたそれは、アパートの前の雑木林に吸い込まれていった。
そのまま早足でアパートの前まで来ると、僕は雑木林をのぞき込むように入り口の小道へ一歩踏み入った。雑木林の中ほどに一つだけある街灯が、小道の少し先に直立する白いシーツを照らしていた――天城さんだった。
「こんばんは」と、僕は声をかける。
天城さんは、ひらひらの白いワンピース姿だった。「しっ」と、人差し指を立てて口元にあてる。そしてゆっくりと林の奥へ進む。
別に天城さんにつき合う義理はないのだけれど、僕は何となく後をついていってしまう。小道に降り積もった落ち葉を、カサカサいわせながらついていくと、度々天城さんに「しっ」と言われる。天城さんはなぜこの道を、音もたてずに歩けるのだろう。何かコツでもあるのだろうか。
天城さんは時折立ち止まり、腰をかがめて小道の脇の下草へ手を突っ込むと、そこに生えている草をかき分ける。何かを物色している様子。住宅地にある雑木林のこと、周囲の家から漏れる灯りと林の中に一つだけある街灯で、辺りの様子は薄ぼんやりと分かるけれど、下草の茂みの中の卵を見つけるにはかなり暗いと……しまった! 考えないようにしていたことだったのに。ここで天城さんが何をしようとしているのかは明らかで、僕は平静を装って努めてそれを考えないようにしていたのだ。でももう遅い。一旦そう考えてしまったら、建前として天城さんを咎めないわけにはいかない。
「ちょっと、まずいですよ」僕は後ろから声をかけた。
「何がです?」振り返りもせず天城さんは言う。
「いや、だってほら……」僕は口ごもる。
「いいんですよ、今日で最後になるはずですから」
腰を伸ばして振り返った天城さんが、僕の目の前に卵を掲げてみせた。
「
空を見上げる天城さんにつられて、僕も上を向く。空は、コナラやクヌギの枝葉に覆われていて少しも見えない。小道にこれだけ葉を落としていても、雑木林の木々はまだたっぷりと、その枝に葉をつけているのだった。枝葉のシルエットが、思い出したように光る遠雷に浮かぶ。
「そうですね」
僕は適当に相づちをうつ。天城さんの言いようは、よく分からないことが多いので、こんなふうに応対することが多い。でも今は、そうも言っていられない。
「いや、だから……」
そう声をかけた時、天城さんは数歩先の下草の中にしゃがみ込んでいた。
「ほら」
また、つまみ上げた卵をこちらに見せる。その時、僕はふと気がついた。ここで放し飼いにされているというライチョウは、どこにいるのだろう。僕の言葉に「ああ、それなら」と、天城さんはまた上を向く。天城さんの視線の先は、雑木林の真ん中にある山桜の大木で、視線をたどると太い幹から二つに分かれる太い枝のその股に、一羽のライチョウがうずくまっているのが分かった。少しも動かずじっとしている。眠っているのだろうか。
「あっちとそっちにも」天城さんは、もっと高い枝を指差す。
高いところはわずかな光りも届かず、闇にまぎれてよく見えない。目を凝らすと二羽の鳥のいるらしいことが、どうにか分かった。あれもライチョウか。
「あんなところで寝るんですね」
「いつもは草むらの中で寝ていましたよ。やっぱり今夜見に来てよかった」
天城さんが僕の隣に来た。並んで一緒に見上げる。
その時ぽたりと、顔に雨粒が当たった。
「降ってきちゃいましたよ」
雨が降りそうだったので急いで帰ろうとしていたことを、すっかり忘れていた。今は生い茂る葉のおかげで、あまり濡れることもないけれど、雨が激しくなってくればそうもいかない。
「これは風花みたいなものですよ。
そうしている間にも、雑木林の葉をたたく雨音が、次第に大きく周りに降ってくる。
「もう帰りましょう」
卵を戻させることはあきらめて、僕は言った。大家さんに義理立てすることもないのだし。
「もう少し。せっかく渡りを見にきたのですから」
またよく分からない言いようだった。
雨はそれ以上激しくなりもせず、遠雷は相変わらず遠雷のままで、時折光る夜空が枝葉の間から眺められた。
もちろん先に帰ることもできる。「それじゃ、僕はお先に」と、何気ないふうを装って歩きだせばいいだけだ。けれどその時のその場の空気に、僕は足を動かせないでいた。周囲の空気が次第に張りつめてくるようで、気のせいか頬がひりひりする。
「痛っ!」
頬に手をやった途端だった。この感じ、静電気? 秋も深まったとはいえ、冬の乾いた空気になるにはまだ早い。しかも今は雨も降っている。まじまじと頬にふれた右手を見る。右手がぼんやりと、青白く光っていた。その光は内側からにじむように淡く、目の前に掲げてみると、天城さんが透けて見えた。天城さんも体全体がぼんやり青白く光っていた。
「天城さん、光ってますよ」
僕の言葉に、ライチョウを見上げていた天城さんがこちらを向いた。どこか笑っているようなその顔は、「あたなもですよ」と言っているようで、僕は自分の体を検分する。なるほど天城さんの言う通り、右手だけではなく僕の体もぼんやり青白く光っていた。
「いよいよです」
天城さんの声に、その視線の先をたどる。山桜の股にうずくまっているライチョウも、ぼんやり青白く光っていた。そして、それまでじっとしていたライチョウが、ゆっくりと上下に体を揺すり始める。呼吸に合わせて動いているようにも見える。その度に、次第に体が膨れ上がるようだった。でも、そんなことはなくて、よく見ると膨れ上がっているのは、体の周りの青白い光だけだった。ふと上を見ると、高い枝にとまっている二羽のライチョウも同じように光っていて、三羽のライチョウがその光で、山桜の大木にちょうと逆三角形の形を作っていた。だんだん強くなる光は、青白い色から白金へと変わり、辺りが明るくなってゆく。
「ちょっと、ぴりっときますよ――」
その刹那、上にいた二羽のライチョウが同時に猛烈なスピードで、木の股めがけて滑空してきた。そして木の股にいたライチョウと光がふれあった瞬間、下にいたライチョウは弾かれたように、降りてきたライチョウに負けないくらいの猛スピードで真上に上っていった。まるで砲弾が発射されたようだった。その時空気は激しく震え、大音響に全身を包まれたような感覚がしたのだけれど、辺りは無音だった。降りてきた二羽のライチョウも木の股を蹴り上げ、その反動で最初のライチョウに引っ張られるように真上へ飛び上がった。三羽の光の点はあっという間に小さくなり、辺りはまた暗くなった。
「ちょっと、ぴりっとしました」
いつまでも無言で空を見上げている天城さんに、僕は言った。手も体も元に戻っている。湯上がりのように、ぽかぽかとした気怠い気持ちよさがあった。
「たまに渡りを失敗することがあるんです」天城さんが言った。
「失敗すると、どうなるんですか?」
「真っ逆さまに落ちてくるので、拾って持ち帰って……」
ようやく天城さんが動きだした。雑木林の出口に向かって並んで歩く。
「おいしくいただきます」
さすが天城さん、どこまでも実利的な人だ。
翌日はよく晴れていて、でも空気は少し冷たくて、一晩で季節が一つ進んだような、そんな朝だった。空気がすっかり入れ替わったな、と思う。僕は昨日下ろしたお金を手に、昼前に大家さんの自宅を訪ねた。もちろん、家賃を支払うためだ。
「ごくろうさん」
大家さんはいつもの部屋に僕を招き入れ、ソファに座るように勧めるとお茶を淹れてくれた。三方の棚に並んだ骨董の数々で相変わらず圧迫感というか、閉塞感というか、そんな圧を感じる部屋だ。
「はい、これ」
僕はひと口お茶をすすって、封筒ごとローテーブルの上に家賃を置いた。大家さんは、いつものように中をあらためると「とう」にアクセントのある言い方で「ありがとう」と言った。両手で持った湯呑みに口をつける。
「夕べは、えらい雷やったなあ」
「あれ、そうでした? 遠くで鳴っているだけみたいでしたけど」
「一発だけ、どかんとえらい音がしたやろ」
あー、何となく思い当たる節がある。
「トリが渡りをしたんやろな。卵のお裾分けも
「あのトリ、ライチョウっていうんですね」
僕は天城さんから得た知識を披露してみる。
「トリの種類は、よう分からん」
大家さんは、またひと口お茶を飲んだ。そしてローテーブルに湯呑みを置くと、突き出たお腹を苦しそうにひねって、骨董がたくさん置かれている後ろの棚を物色し始めた。
あのトリは、大家さんが放し飼いにしているものとばかり思っていたけれど、そういうわけではないのらしい。どこからか渡りをしてきたトリが、雑木林で秋まで過ごし、またどこかへ帰ってゆく。と、いうだけの話みたいだ。そうであれば、天城さんが卵を拾い集めても、別段問題はなさそうだ。大家さんはトリの種類も知らずに、僕にその卵を渡していたのか……。
「どうや、これ。おもろいやろ」
後ろの棚から目当てのものを取り上げられたらしく、無理な姿勢から元に戻って、大家さんは深くソファに座り直した。手にしたものをローテーブルの上に置く。
それは、ビー玉のような丸い珠だった。ピンポン球ほどの大きさがある。手にしてみろという顔で大家さんがこちらを見るので、僕は慎重にその珠をつまみ上げた。
ガラスのような艶のある黒い珠の表面に、青、白、緑、オレンジ色の斑文が浮いている。オレンジ色の斑文が、にじむように珠の多くの部分を覆っていた。その様子は、水に浮いた油の皮膜を思わせた。手に持った珠を眺め回すと、角度によって黒と見えた珠の色が、濃紺にも見える時があった。そしてほんのわずかに、あざやかな緑のサシが入っているようにも。僕は透かしてみようと天井の電灯にかざした。
「まだ透けんやろ」大家さんが言った。「半年かけて絹の布で丁寧に磨いたんや。もうちょっと磨いたらしばらく寝かせて、中に何が見えるかは、その時のお楽しみや」
「きれいですね。タマムシのハネみたいだ」
僕は素直に感想を述べて、大家さんに珠を返した。
「タマムシやない、ハンミョウや」
大家さんは僕から珠を受け取ると、また苦しそうに体をひねって、後ろの棚にその珠を置いた。珠にはコースターサイズの小さな座布団が敷かれている。まだ愛着があるとみえる。
さて、用件は済んだ。
大家さんからもらった卵はゆで卵にして、まだあと二つ残っている。そうだ帰ったら、あれを味付け玉子にしよう。今から漬ければ、夜に飲む時のつまみにちょうどいい。あれから三日経つけれど、冷蔵庫に入れてあるし、まあ大丈夫だろう……。
僕はお茶を飲み干すと、「ごちそうさまでした」と言って立ち上がった。
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