第10話 山蟻
濃い緑の葉を四角くきれいに刈り込まれた生け垣は、板塀のようにも見える。道路に沿って続く生け垣は、小学校の敷地内にあって、僕の背丈よりもずっと高い。幹の下半分には枝葉がないから、目隠しの役には立っていそうもなかった。低いフェンスの向こう側に並ぶ様子が、何かの形に似ているように思った。
買い物帰りの夕方、そこを通りかかると生け垣に、赤い花が一斉に咲いていた。その日にいきなり全部が咲いたはずはないから、今まで少しずつ咲いていたのだと思う。それに気がついていなかった。
赤い花はうつむくように咲いていた。真ん中に黄色の大きな
生垣に沿って歩いていると後ろで、ぽとり、という音の気配がした。実際に音が聞こえたわけではなく、何となくそんな音を聞いたような気がしたのだ。振り返ると、首を落とされたように赤い花が道端にぽつんと転がっている。落ちた花は他と違って、赤地に白を墨流しにしたような模様をしていた。近づいてしゃがみ込み、落ちている花をつまみ上げた。花の中をのぞき込むと密集した黄色い蕊が、もぞもぞと動く。興味を惹かれ、しばらくその姿勢のまま眺めていると、蕊の先から真っ黒な人の形をしたものが這い出てきた。全身が真っ黒で、つやつやとした光沢を帯びている。濡れたようなしっとりとした深い光沢だ。角度を変えて見ると、その光沢に青や緑が混じる。昆虫の体表の、構造色みたいなものか、と思う。
その真っ黒な人の形をしたものは、四つん這いの姿勢のまま、きょろきょろと頭を振って辺りをうかがう様子だった。そして、ふと顔を上げ僕と目が合うと「はっ」として、動きを止めた。そいつは顔が真っ黒でその上小さかったから、どこが目でどこが口やらはっきりしなかったけれど、確かに僕は目が合った気がしたし、そいつが「はっ」とした顔つきをしたように思った。
少しの
その先に落ちているいくつもの花からも、次々に真っ黒な人の形をしたものが這い出して、同じように「サヨウナラ、サヨウナラ」と言いながら、同じ方向へかけだしてゆく。その声が次第に遠くなり、やがて聞こえなくなると僕は立ち上がって、すっかり暗くなった道を家へ向かって歩きだした。
翌日、僕はアパートの部屋の縁側に宇山氏と並んで腰かけ、緑茶をすすっていた。一緒に来た甘利さんは、しゃがみ込んで僕の植えたじゃがいもの様子を観察している。甘利さんは女性にしては極端に短い髪をしていて、その固そうな髪が柴犬の毛並みを思わせる。じゃがいもの根元に顔を近づけて匂いをかいだりするものだから、本当に犬みたいだと、思わず笑いそうになる。
僕が部屋の前の小さな庭で、じゃがいもを育てることになったのは、先日、甘利さんに種芋をもらって、ここを菜園にすることを強く勧められたからだった。その時甘利さんは、時々、様子を見に来ると言っていたけれど、本当に来てくれるとは思わなかった。
「私の思った通り、いい土だね。期待できそう」
甘利さんは立ち上がって、うれしそうに言った。宇山氏の隣に腰かけて湯呑みを手にする。
「いただきます」
「それでどう思う、今の話」宇山氏が言った。
僕は昨日の夕方の出来事を、たまたまやって来た二人に話していた。じゃがいもを観察していたけれど、甘利さんにも話は聞こえていたと思う。甘利さんは両手で持った湯呑みに口をつけ、ひと口お茶を飲んで、ふーっと大きく息を吐いた。
「山蟻でしょ、それ」
「山蟻?」
僕は怪訝そうな顔をしていたと思う。その顔で宇山氏を見ると、宇山氏も肩をすくめて首を振った。
「何だい、山蟻って」
「百閒の『山東京伝』にも出てくる、あの山蟻。宇山君は読んだことないだろうけれど……」
と言って、こちらを見るので僕も首を振った。僕の反応に、甘利さんは話の方向を変えたようだった。
「子供の頃やらなかった? 山蟻を捕まえてお尻から蜜を吸うの」
今度は本当に驚いた。確かに子供の頃、ツツジの花をもいで、元の方からその蜜を吸ったことはあるけれど、それとは少々レベルが違うように思う。
「なるほど。アブラムシがお尻から出す甘露を、蟻がなめるようなものか」
宇山氏が言った。
「そうそう」
甘利さんの言い方は、物分かりのよい生徒を教師がほめるようだった。
言われてみれば、あの真っ黒な人の形をしたものは花の中にいたのだから、その蜜を吸っていたと考えるのは妥当なように思われる。でも、食糧事情の悪かった時代ならいざ知らず、わざわざ今、その蜜なんかを吸わなくても。
「珍味っていうのは、それだけで珍重されるものなのよ。好きな人は丸ごと食べちゃうみたいよ」
「えっ、あれを」
「そう。軟骨みたいなこりこりとした食感で、ほのかに甘みもあって、おいしいみたい。酒の肴にするんだって。私は食べたことはないけれど」
甘みと聞いて、僕は蜂の子が食材として売られていることを思い出した。大きさは昆虫サイズだし、虫を食べる感覚か。
「でも、しゃべるんですよ」
「しゃべるといっても、それだけだよ。人語を理解してるわけじゃない。オウムや九官鳥だってしゃべるでしょう」
「僕の顔を見て『オハヨウゴザイマス』って、挨拶したんです」
少し食い下がってみる。
ふーん、という顔で甘利さんはお茶をすする。何か思うところがあるのだろうか。
「小学校のところの生け垣って言ってたよね、確か藪椿だったと思うけど」
「そうです」あの花は、藪椿というのか。
「校門のところで、毎日先生や生徒たちが挨拶していたら、自然とそれを覚えると思うんだよね」
ごもっとも。僕は納得せざるを得なかった。
「さて、じゃがいもの様子も見られたし、お茶もごちそうになったし、そろそろおいとましようか」
甘利さんが湯呑みを置いて立ち上がった。その言葉が聞こえているのかいないのか、宇山氏は「ああ」と気のない返事をして座ったままだ。
「珍味って、びっくりするくらいの高値がつくんだよな」
宇山氏がぼそっと言った。
ああ、宇山氏が言いだしそうなことだ。
「その件については甘利さんの方が詳しそうなので、お二人で話してください」
僕がぴしゃりとそう言うと、
「そうそう、儲け話は頭数が少ない方がいいでしょ。今からうちに来る? 相談しよっか」
それは誰がどう聞いても、甘利さんが宇山氏をいなしているように聞こえた。当然、宇山氏にも。
「分かった。とりあえず今日は、駅前の居酒屋で飯でも食って帰ろう」
「うん、そうしよう」
甘利さんが、にっこりと笑った。
二人を見送った後、僕は一人で縁側に腰かけて、空になった湯呑みを両手で持ったまま、小さなじゃがいもの菜園を眺めていた。
そっか、甘露か。宇山氏の言葉が思い出される。丸ごと食べるという人は、踊り食いの要領であれをそのまま食べてしまうのだろうか。さすがにそれは少々キツイ。でも、お尻から蜜を吸うくらいなら、味をみてみたい気もする。うまいのだろうか。
明日またあそこへ行って試しに、と思わないでもない。たぶん、味自体は大したことなくて、上乗せされたプレミアム感で満足が得られるだけなのだろうけれど。
とりとめもなくそんなことを考えていると、あの藪椿の生け垣は五平餅の形に似ている、と、ふと思いついた。
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