第9話 ユウタ君の憂鬱
僕の住む部屋はアパートの一階で、掃き出し窓を開けると濡れ縁があって、狭い庭がある。庭といっても、路地とアパートの敷地を区切る低い生け垣から建物までの、ほんのわずかな空間で、庭と呼んでいいものか、といった程度の場所である。
そこを菜園にしてみようという気になったのは、甘利さんの言葉があったからだ。
「あら、いい土」生け垣越しに甘利さんは言った。
二月の初め、暖かな冬晴れの日のことで、この近くに市民農園を借りている甘利さんが収穫したネギと大根を、お裾分けに寄ってくれた時のことだった。路地から声をかけられて、僕は掃き出し窓からサンダルをつっかけて、その「庭」に下りた。
「そっか。私には分からん」おそらく手伝いに呼ばれたのであろう宇山氏が言った。
「分からないかなあ。この黒々と、ふかふかした土」
言いながら、甘利さんは竹の背負いかごからネギと大根を手渡してくれる。見たところ宇山氏は手ぶらだ。相変わらずだ、と僕は思う。女性の荷物を持ってあげる、といった気遣いとは無縁の人だから。
僕たちは生け垣を挟んで、路地と庭で立ち話をする格好になった。
「この栗の木」
甘利さんが左手から伸びる栗の大木の枝を指差した。隣の大家の敷地から塀越しに伸びたその枝は、初冬の頃、こちらの庭に盛大に葉を落とす。
「それが自然に腐葉土になるんだよ」
甘利さんが言うのなら、なるほどその通りなのだろう。言われてみれば、その狭い庭が肥沃な土地のように思えてくる。
「こんにちは」
三人で立ち話をしていたところへ、ユウコさんが通りかかった。息子のユウタ君の手を引いている。今日のユウタ君はまたずい分と幼い。先週会った時は中学生くらいに見えたものだけど、小学一年生くらいに見える。
「また池ですか?」僕は聞いた。
ユウコさんは、はにかんだ笑顔で「ええ」と答えた。ちょこんと頭を下げると、甘利さんと宇山氏の後ろを通り過ぎ、アパートの入り口側へ歩いていった。
「おやおや、今の子」宇山氏が言った。
「そうだよねえ」甘利さんが同意して宇山氏を見上げる。
「分かりましたか?」
僕が言うと二人はそろってうなずいた。
ユウコさんは息子のユウタ君と、二階の二〇一号室に住んでいる。父親の姿は見たことはない。二人で暮らしている様子だった。
「少々不安定なのかな、あのご婦人は」宇山氏が言った。
「分かりませんけど、ユウタ君はよく伸び縮みしてます」
「あまり頻繁だと心配よね。あの子、齢はいくつなんだろう」
甘利さんに言われて僕は、ユウタ君の本当の年齢を知らないことに気がついた。
翌日、僕は庭にジャガイモを植えることにした。「今植えれば、梅雨入り前に収穫できるよ」と、甘利さんがくれたからだった。甘利さんに借りた鍬で畝を二つ作り、五個ずつ三十センチほどの等間隔に、ジャガイモを置いて土をかぶせた。ジャガイモはたっぷりもらったから十個くらい種芋として使ってみよう。ここの土でジャガイモが、どんなふうに育つのか甘利さんは興味があるようだった。時々、様子を見に来ると言っていた。
ひと仕事終えて庭の隅にある水道で手を洗っていると、路地を歩くユウコさんとユウタ君が生け垣越しに見えた。ユウタ君はまた大きくなっている。昨日は小学生に見えたのに、今日の身長は百七十センチ以上ありそうで、何やら顔も大人びている。ユウコさんが僕に気がついて庭をのぞき込んだ。
「どうしたんですか、それ」
「ジャガイモを植えたんです。家庭菜園にしようと思って」
「一階の方はいいですね、お庭があって」
「収穫できたらお分けしますよ」
「あら、うれしい。何しろ食べ盛りの男の子がいるものだから」
ユウコさんは本当にうれしそうに笑った。ユウタ君は路地に突っ立ったまま、あらぬ方向を見ている。その態度は、親に反発し始める頃の中学生といった感じだ。
また池に行ってきたのだな、と僕は思った。
アパートから南へ十五分ほど歩いて駅の高架をくぐり、さらに五分ほど歩くと大きな池のある公園に着く。公園の中に池があるというより、大きな池の周りに遊歩道を巡らせ、ベンチや東屋を設えた、といった趣の公園だ。少しばかりの雑木林が残っている他は、池は住宅地に囲まれていて、その上にだけぽっかりと空が広がる。東西に細長いひしゃげたヒョウタンのような形をした池で、アパートから歩くと、北東の角にたどり着く。その公園の池が、出来た謂われはどこかで聞いたことがあった。
昔々、真夏に一ヵ月もの間、雨の降らないことがあった。その時、この辺りに住む人たちが総出で雨乞いを行ったそうだ。一週間続けた雨乞いの最後の晩、湧き上がった黒雲に、見守っていた人たちの期待が高まった。その刹那、雷鳴とともに大ガエルが空から降ってきた。大ガエルは降ってきた勢いで体が半分地面にめり込み、顔だけを土から出す格好になった。そして無表情に首をめぐらすと、その口から滔々と水を吐き出し始めたのだそうだ。そのようにして溜まった水でできた、そんな言い伝えのある池である。
「大鍋に汁物を作ろうと思ったのだけど、長く使っていなかったから天袋にしまったままになっていて……。ユウタに取ってもらおうとしたけれど、小学生の背丈じゃ届かないし」ユウコさんは涼しい顔で言う。
そんな理由でユウタ君を大きくしたのか。先週一旦小さくしたのはどうしたわけだったのだろう。問い詰めるつもりはなかったけれど、理由を聞いてしまった。
「春先の水がぬるむ時期は、どうも気持ちが落ち着かなくていけません。そわそわします。それもあってユウタを小さくしてしまいました。箪笥の引き出しにしまってあやした、赤ん坊の頃が懐かしくて。でも自重して赤ん坊までは戻しませんでした」
そこまで小さくしたら大変だ。
「それで調子はどうですか?」
「だいぶ落ち着きました。そうしたら急に食欲も出てきて、大鍋にキノコ汁をたっぷり作るつもりです。ユウタも大きくしたし」
「大きくされたり小さくされたり大変だね、ユウタ君も」
努めて明るく僕はユウタ君に言った。
「僕、四年生だよ」
不貞腐れたようにユウタ君が言う。
「あら、そうだったかしら。忘れそう」
ユウコさんが微笑む。そうか、ユウタ君は四年生なのか、と僕は思う。
「キノコはあまり好きじゃないけど、大きくなるとお腹が空くんだ」
長くなった手足を、ぶらぶらさせながらユウタ君は言った。ひょろりとしているけれど、成長期の男の子の食欲はばかにできない。
「私もこう見えて、大食いなんですよ」
ユウコさんがまた薄く微笑む。
「あまり池を周るのはよくないですよ。昔、大家さんに聞いたことがあります」
大家というのは大きな古狸なのだけど、いつも人の姿をしていて四百年は生きているという噂がある。狸の特性か、基本的にはいい加減なのだが、物識りであることに疑いはない。
「知っています。でも春先だからでしょうか」
ユウコさんは、また季節のせいにした。
ユウコさんがユウタ君を連れて、池の周囲を歩いているのを何度か見かけたことがある。池の北東の角から西に向かって、道沿いに植えられた太い柳を「ひとーつ、ふたつ」と数えながら。そんな古くからの言い伝えの
「今日は南に向かって周ってきました。平坦な道なのに上り坂を歩くような感覚です。やっぱり大きくする方が疲れるのでしょうね」
「僕、カレーの方がいいなあ」
ユウタ君が子供らしい意見を言った。
「まだ早い。周るのは梅雨入りしてから」
その声に二階の窓を見上げると、ツキヒコ(トキヒコかもしれない)が顔を出していた。
「何が、かな?」
僕がそう訊ねると、
「大ガエルは雨が好き」
隣から顔を出したトキヒコ(ツキヒコかもしれない。二人はそっくりなのだ)が言った。「今はとても不安定」
「ああ、道理で……」
相変わらず涼しい顔でユウコさんは言った。
「知らなかったんですか?」
「ええ、あの古狸はそんなことまで言わなかったし」
そう答え、一瞬眉根を寄せるような表情をした。
「ありがとうね。ツキヒコさん、トキヒコさん」
ユウコさんは二階の窓を見上げて言った。
「いえいえ」
「どういたしまして」
二人はそう言って顔を引っ込めた。
その夜、二階からはカレーの匂いがただよってきた。
ユウコさんが、ユウタ君のリクエストを受けつけたのだろう。おそらく大鍋にたっぷり作ったであろうカレーを、僕もお裾分けにもらった。そのカレーにはいろんな種類のキノコがたっぷり入っていて、夕飯に食べたらとてもおいしかった。
あの時、ユウコさんが見せた眉根を寄せるような表情は、一瞬だったけれど般若のようにも見えた。早く季節の変わり目が過ぎて、ユウコさんが落ち着いてくれればと切に思う。
初夏になってジャガイモが収穫できたら、ユウコさんにもお裾分けしよう。そのジャガイモでカレーを作れば、ユウタ君も喜ぶかもしれない。失敗しないように、ジャガイモの育て方を今度甘利さんに聞いてみよう。
その夜は、そんなことを考えながらカレーを食べた。
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