第7話 とこなめ大根

 自室のアパートに向かって細い路地を歩いていたら「おーい」という声が聞こえた。声の主は宇山氏だった。右手の畑の真ん中で手招きをしている。隣にしゃがみ込んでいる人が草むしりをしている様子だった。少し先に畑の入り口らしきところがある。「第八号市民農園」と墨書された立て札が路地沿いに立てられていた。立て札の脇に、奥へと続く踏み固められたあぜ道があった。ここから入っていいのだろう。僕はあぜ道へ踏み入って宇山氏に近づいた。

「奇遇だね。こんなところで会うとは」宇山氏が言った。

「僕のアパート、すぐそこですよ。何度も来ているでしょう」

「ああ、そういえばそうだった」

 本当に忘れていたと思う。この人の場合。

「こういう人なんです。宇山君は」

 隣にしゃみ込んでいた人が立ち上がった。女性だった。短い髪に麦わら帽子を目深にかぶっている。

「この人は甘利さん。『甘い利益』と書く。最近野菜作りに凝ってる」

「こんにちは」甘利さんが麦わら帽子を脱いだ。

 ずい分と短い髪。固そうなその髪に、僕は柴犬の毛並みを連想した。年齢不詳の中性的な顔だちで、どこか犬に似ている。そう思ってしまったのは、最初の連想からか。

「この前食べたサツマイモの生産者」

「ああ」宇山氏があの時言っていた、旧い友人というのがこの人か。

「焼きイモにしたって聞きました」

「おいしかったですよ」

 度々畑仕事の手伝いを頼まれるらしい宇山氏が、草むしりで腰が痛くなっただの、鍬をふるって手にマメができただの、ひとしきり文句を並べた。

「一応男だし、力仕事を任せられると思ったんだけど、あまり頼りにならなくて。雑だし」

 甘利さんが苦笑したので僕も曖昧に笑った。宇山氏ならばそうだろう。

「今日は収穫の手伝いだ。たくさんあるから何本か持ってっていいよ」

「それはありがたいです」

「私の許可、とらないの?」

 甘利さんはそう言いながらも、竹の背負いかごを僕の目の前に置いた。中には土のついた大根がたくさん入っている。日頃、店で目にする大根より、いくらか小振りだった。品種が違うのだろうか。一本手に取ってみた。三十センチほどの大きさで、葉の部分ばかりが立派だ。

「ちょっと小さいんですね。それに少々不格好」

 手に取った大根は先が二つに割れていた。

「収穫した大根がみんなそうなの。そういう品種なのかしら」

 そんな品種があるのだろうか。大方、宇山氏のいい加減な畝作りが原因じゃないのか。僕は背負いかごの中の、他の大根もいくつか手に取ってみた。なるほど、確かにどの大根も先が割れていた。

「足みたい。なんだか歩きだしそうですね」

「でしょー! 好きなだけ持っていって」

 急にくだけた口調になって甘利さんが言った。この大根、甘利さんには好かれなかったとみえる。本当は譲り渡したかったのか。宇山氏が、僕に向かって肩をすくめた。

「私の親類から種を分けてもらったんだ。山の中に住んでるんでね、畑も斜面に作る。だから大根もきっと、踏ん張りのきく形をしているんだろう」

 本気とも冗談ともつかない顔で言う。

「それじゃ二本ばかりいただきます。お隣にもおすそ分け」

「二本と言わず、五、六本持っていって」

 甘利さんが言った。

 僕は両手に二本ずつ、合わせて四本の大根をぶら下げて帰り道を歩くことになった。


 翌朝、目を覚まして枕元の時計を見ると午前十時を過ぎていた。夕べは少々飲み過ぎたか、と思いながらふとんから這い出した。小さな庭に面した掃き出し窓を開けて、冬の冷たい空気を顔にあて、眠気を追いやった。「おや?」

 昨日、宇山氏から(ではなく甘利さんから)もらった大根がない。帰ってきて、ここの縁側に土をつけたまま置きっぱなしにしておいたはずだ。ネコかカラスに持って行かれたか? いや彼らが持って行くには少々重いだろう。見回すと縁側の右手にある水道の下に、四本の大根が、もつれ合うようにころがっていた。こんなところに置いたっけ? 訝しく思いながら大根を手に取った。ネコがかじった跡とか、カラスがついばんだ跡とか、あるだろうか。ざっと検分したところ、そんなものは見当たらない。たぶん自分の勘違いなのだと思うことにした。縁側から水道に向かって、点々と土の跡がついていた。

 僕はたわしを持ちだした。ついでに水道で大根を洗うことにした。後で天城さんのところへ持って行こう。


「時彦、それはこっち。私の部屋へ。月彦、そっちの荷物はあなたたちの部屋へ持って行ってちょうだい」

 天城さんの声がした。僕はぼんやりした頭で、その声を聞いていた。大根を洗って、朝昼兼用の食事をした後、横になっているうちに眠ってしまったらしかった。時計を見ると午後三時だった。買い物をした帰りらしい天城さんが、時彦と月彦にてきぱきと指図していた。

「こんにちは」

 僕は掃き出し窓を開けて、生垣の向こうの路地にいる天城さんにあいさつをした。隣の庭で、天城さんから渡された荷物を持った月彦(時彦かもしれない。二人はそっくりなのだ)が、こちらを見て会釈した。

「友達からもらった大根があるんですが、いかがですか」

「大根? それはもう喜んで」

 僕が大根を手に持ってかかげると、飛びつかんばかりの勢いでひらりと生垣を飛び越え、僕の庭へ下り立った。大根を受け取ってしげしげと眺める。

「とこなめ大根ですね。めずらしい」

「とこなめ大根?」

「元々の大根の原種に近いもので、作っている農家も少ないので流通にのりません。自分の食べる分だけ作っている人もあるようです。辛味が強いんです」

 妙なところに博識だなと思いながら、僕は天城さんの言葉を聞いていた。

「月彦!」天城さんが二階に向かって呼びかけた。庭にいるのは時彦だったか。

 窓から月彦が顔を出した。

「おろし金を出しておいて。いつも使っているものでなく、サカエ屋の、あのおろし金。それから七輪と炭の用意。時彦、あなたはサンマを買ってきて」

 素早く指示を出すと天城さんは僕に向かって深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。いいものをいただきまして」


 それから僕は自分の部屋で読書をしていた。日が暮れかかる頃になって、よい匂いがただよってきた。ああ、これはサンマを焼く匂いだ。縁側から隣りの庭を見ると、時彦(月彦かもしれない)が七輪に向かってしゃがみ込み、うちわをふるっていた。網の上にサンマが三匹置かれていた。

「炭火焼きのサンマ、いいねー」僕は、つい気安い感じで話しかけた。

「冷凍ものしか手に入らなかったのですが、とこなめ大根があるので今夜の食事には満足してもらえると思います。ありがとうございます」

 あまりに感謝されると恐縮してしまう。

「食にうるさいのかな? あなたの主君は」と言うと、困ったような笑みを浮かべた。半分冗談で言ったのだけど。

「あの大根をおろすには手順があるらしく、少し時間がかかるようです。今おろしている最中で」

 大根をおろすのに手順なんかあるのだろうか。

 真っ赤に熾きた炭がサンマの皮を焦がし、皮からしたたる脂をかぶって猛然と煙をあげた。焼けたサンマが燻されてゆく。

「うまそう……」僕は思わずつぶやいた。

「焼きあがったら差し上げます。そう言いつかっておりますので」

「いえ、そんな」

「大根のお礼に、是非にとのことなので」

 このうまそうな情景を前にして、お礼の申し出を断れるほど、僕の意志は強くなかった。

「……ありがとう」僕は言った。

「そうです、是非召し上がってください。私がおろした大根で。炭火で焼いたサンマもひと味違いますよ」

 天城さんが唐突に顔を出して言った。

「死に体のくせに結構抵抗するものだから、こいつ。おろすのに手間取ってしまって。それは活きがいいってことだし、絶対においしいです。この大根」

 そうしてその日、僕の晩酌のツマミはサンマになった。


 焼きあがったサンマと小鉢に盛られた大根おろしをちゃぶ台に置いて、台所から缶ビールと、コップと箸を持ってきた。皮の焦げ目が目にもおいしい。缶ビールを飲み終えたら早々に日本酒に切り換えよう。ワタをつつきながら日本酒を飲むのだ。思いがけず手に入った酒肴に、僕の気分は高揚していた。宇山氏には黙っていよう。

 缶ビールをコップに注いだ時、何かの音が聞こえたような気がした。コップを置いて耳を澄ます。金属がきしむような小さな音が、細く高く響くのが聞こえた。長く尾を引いて、いつまでも鳴りやまない。神経を逆なでするような、ガラスを引っかくような音。声のように聞こえなくもない。

 僕はコップのビールをひと口飲んで、天城さんの側の部屋の壁を見た。小さな音だけれど気になる。音はかすれるように次第に小さくなり、やがて消え入るように聞こえなくなった。

「……さてと」

 僕は声に出して言ってみた。そうしてサンマの身をくずし、大根おろしに箸をのばした。

 翌朝、大根の姿が見当たらなかった。洗った後、流しに二本置いてあったはずなのに。

 ふとドアを見ると、そこに取り付けられている郵便入れの受け口に、削り取られた大根が白くこびりついていた。

 きっとここから逃げ出したのに違いない。

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