第6話 洞
目の前に大きな木があった。桜だった。その向こうに池が見えた。手を振れば向こう岸にいる人が気がつく程度の広さだった。池を囲むように桜は並んでいて、水面に向かって太い枝を伸ばしていた。桜の濃い緑の葉が、季節が初夏であることを示していた。
池の周囲は雑木林だった。郊外の宅地開発で、そこだけが取り残されたといった風情だった。雑木林の周りには、造成された畑にたくさんの建売住宅が建てられ、新たに舗装された道路もある、そんなことが想像される雑木林だった。
池に沿って小道があった。公園にあるような整備された遊歩道ではなく、踏み固められた土に雑草も生えなくなり、自然とできあがったあぜ道だった。その小道を僕は歩いていた。さっきまで、自宅のアパートから最寄り駅に向かっていたはずだったのに……。
歩く先に東屋が見えてきた。屋根と柱だけでベンチもない、畑のすみに建てられた農具入れのような、粗末な小屋だった。東屋に少女が一人立っていた。肩で切りそろえられたまっすぐな黒髪、麦わら帽子に半袖の白いワンピース、顔も腕も紙のように白い。近づいていく僕をじっと見ている。中学生くらいだろうか。
「君は誰?」僕は、また同じ質問をする。
少女は答えない。
「歳は?」
無言。
訴えかけるような目で見られていると、次第に見覚えのある顔のようにも思えてくる。自分が中学生の頃というと二十年前。同級生の顔をいくつか思い浮かべてみた。人づき合いが苦手で友達の少なかった僕に、思い出せる顔はわずかな数だった。
仰ぎ見た空は雲ひとつなく、まぶしいくらいの青空で、周りからは葉ずれの音も聞こえない。まるで時間が止まったみたいにしんとしている。視線を戻した時、目に入ったのは、忙しなく自動改札を行き交う人の姿だった。最寄り駅の入り口に立っていたのだ。
僕の身にこんなことが起きるようになったのは、ここ一ヵ月の間で、これで三度目だった。街中を歩いていると、その現実から地続きのように、あの池のほとりの小道に踏み入っているのだった。三度ともあの少女に会い、同じことを問いかけ、気がつくと元いた場所に戻っていた。これは白昼夢といものだろうか。
平日の午後一時。僕は米をといでいた。寝起きで腹が空いていて、食事をとるつもりだった。先月末に仕事を辞めてから、大体毎日明け方頃まで起きていた。それから寝て、空腹で目を覚ますのが昼頃、そういう生活サイクルになっていた。暇を持て余しているから白昼夢など見るのだろうか。食事の支度をしながら、そんなことをぼんやりと考えた。仕事を辞めたのは、何か将来的な展望を見据えてとか、キャリアアップを狙ってとか、そうしたビジョンがあったわけではなく、単に「働く」ということに嫌気がさしただけだった。もう十分大人といえる年齢の人間がすることにしては、ずい分と子供っぽいことだったと、今さら自嘲気味になる。辞めた後、気分が一新できたかといえば、そういうこともなく、労働意欲はさらに減退するばかりか、日々の暮らしも何となく無気力になっていた。それでも腹は減る。日々繰り返してきた習慣は、機械的に行えるようだった。
雨の中、夜道を急いだ。まったく間抜けなことをしたものだ。夕飯の支度中、包丁で指を切ってしまった。左手の人差し指からあふれる血は、なかなか止まらず、かなり深く切っているようだった。ティッシュを何枚も指に巻きつけ、この時間でも開いているドラッグストアに向かった。歩いて五分ほどのはずなのに、やけに遠く感じられる。信号待ちをしていた時、差していたカサ越しに落ちてくる雨粒を見上げた。そぼ降る雨に街灯がにじんでいた。信号が変わり足を一歩踏み出すと、池のほとりの小道を早足で歩いていた。
「こんな時に……」
左手を押さえながら、もう歩き慣れた小道を行く。
小屋には灯りが点っていた。梁からぶら下がった裸電球に少女は黄色く照らされていた。
「また来てしまったけれど、生憎と今日はゆっくりしていられないんだ」
当然のように少女に話しかけた。
「戻る方法を知らないかな?」半ばひとり言のようにつぶやく。
「血」少女が初めて口をきいた。
「あの時も、たくさんの血を見た」僕の目をじっと見たまま言った。
「あの時からずっと私はここにいて、どこにも行けないの。けれど、それももう終わり。ここはもうすぐ消滅するから」
その声を聞いて僕は困惑した。声自体より、話し方やその抑揚に聞き覚えがある気がしたのだ。話す内容など元より分からない。
「でも消滅はやっぱり怖い。救われないもの」少女の言葉は続く。
「あなたに助けて欲しいの」
僕は口もきけず、ただ立ち尽くすばかりだった。
少女はワンピースのポケットからハンカチを取り出すと、僕の左手の人差し指をきつくしばった。白いハンカチが赤く染まってゆく。僕はその様子をただ眺めていた。顔を上げた時、ドラッグストアの前に立っていた。左手の人差し指には、血に染まったハンカチが巻かれていた。
白昼夢と考えていたできごとが、僕の現実とつながってしまった。そうは思ったものの、その境界は曖昧で、何が現実なのだか分からない気分になっていた。ただ、何らかの対処をとらなければならないと、強く感じていた。少女は助けを求めていたのだ。どうしたらよいのだろう?
わずかに交わした言葉から推し量るに、僕と会ったことがあるのではないだろうか。どこかで、ずっと昔に……。昔? 子供の頃? 僕は姉に聞いてみることを思いついた。年が五つ離れていた姉に、僕はよく遊んでもらっていた。今では会う機会も少ないけれど、たまに連絡を取りあっていて、仲はよい方だと思う。姉の性格からして、こうした事態に寛容なように思われた。この事態が、姉の許容範囲に収まっていればよいのだけれど。
電話にでた姉は、開口一番「あら、めずらしい」と言った。
ひさしぶりの電話に、近況報告(会社を辞めたことは言わなかった)や適当な世間話をしつつ、どう切り出したものやら、と僕は迷っていた。
「で、用件は何?」
それまでの会話の流れを断ち切るように姉が言った。僕はとうとう観念して、この一ヵ月ほどの間に自分の身に起きた不思議なできごとを話した。話を聞き終えた姉は、しばらく黙っていた。それは、電話口で僕が「もしもし?」と確認しなければならないくらいの間だった。
「卯木メイコさん」
「えっ?」
「卯木メイコさん。メイちゃん」姉は繰り返した。
「昔住んでいた家、覚えてる? あなたが小学校に上がる時に引っ越したよね。それまで住んでいた家。私はメイコさんって呼んでたけど、あなたはメイちゃんって呼んでた。お隣のお姉さん。中学生だった。うちが共働きだったから、よく遊んでもらってたの。思い出したかな。近くのため池が、お気に入りの遊び場所になってて、よく連れてってもらったっけ。ため池は子供だけで行くな、危ないって、そう言われてたから、連れてってもらえてうれしかったな」
そこまで話すと姉は黙った。そして、
「かわいそうだったね、メイコさん」と言った。
僕が小学校に上がる前まで住んでいた家は、周りに田んぼや小川や畑のある、自然豊かなところにあった。そこは当時、宅地開発が始まりつつあったような場所でもあった。都心へ電車で二時間以内に行けるのであれば十分に通勤圏、と言われ始めた頃だ。周りにあった畑は次々に造成されて、続々と建売住宅が建っていった。工事車両も頻繁に出入りしていた。その頃の僕は、工事のない休日に、おもしろがって骨組みだけの家に入り込み、一人遊びをしたことを覚えている。
「メイコさん……メイちゃん」僕は電話口でつぶやいた。
「五月の末だったと思うけど、学校から帰ってきて、またいつものため池に三人で遊びに行ったの。雲ひとつない晴れた日だったのを覚えてる。暑いくらいだったから……。やることはいつも同じ。ザリガニを釣ったり、小さな魚を網ですくったり。そんなふうにして夕方まで遊んで。その帰り道――」
途中から僕は話を聞いていなかった。姉の言葉に引き込まれるように記憶をたぐるうち、自分で完全に思い出したのだ。その帰り道――。
姉が前を歩き、僕はその後ろをメイちゃんと手をつないで歩いていた。そこへ工事車両のトラックが突っ込んできた。居眠り運転だったということは、中学生になってから聞いた。すべてがあっという間のできごとだったはずだ。葬儀の時、わけも分からないまま、メイちゃんの眠る棺に白い花を入れたことも思い出した。僕は、その後の話もそこそこに、姉に礼を言って電話を切ってベッドにもぐり込んだ。
翌朝七時。僕は三十年ぶりに生まれた町の駅に降り立った。ホームは朝の通勤客で、さざめいていた。一刻も早くと気が急いていたのだ。改札を抜け、駅の正面から続くまっすぐな道を歩く。駅前にはロータリーと大型店舗のスーパーマーケットができていた。目的の場所は調べてあった。ここから三十分ほども歩くだろうか。あの場所へ行ってみたからといって、何がどうなるかは分からない。でも来ずにいられなかったし、来れば何かが分かるような気がした。
十分も歩くと住宅街になり、住宅街を過ぎると景色は田園風景に変わった。平たい田園風景の続く道を歩く。その先に、小動物がうずくまっているような緑のかたまりが見えた。宅地開発の波に、そこだけ取り残されたような雑木林だ。あの中に池があったはずだ。僕は自然と早足になった。最後はかけ足になって、林の中へ踏み入った。池へ続く踏み固められた細い道を行く。
木々の切れたところで、目の前に大きな桜の木が一本現れた。桜は桜並木のように池の周囲へ続いている。対岸に見える東屋に人影が見えた。あれは……。僕は池を巡る小道を走りだした。
少女に会って、僕はどうすればよいのだろう。考えても仕方ない。分かっていることは何もないのだから。走りながら同じことを繰り返し考える。考えながら葉桜に見え隠れする東屋を目指した。
少女は立っていた。こちらへ背を向けて池の方を見ている。
「メイちゃん……」思わず僕は言った。口をついて出てしまったその言葉に、僕自身が驚いた。
「思い出してくれたのね」メイちゃんが言った。
「来てくれてありがとう。明日には消滅してしまうところだったの。間に合ってくれてうれしい」
「僕はどうすればいいんだろう?」
メイちゃんが振り向いた。とても悲しそうな目をしている。
「来てくれただけで十分」
そう言うと右手を差し出した。
「私の手を握って」
言われるままに、僕はメイちゃんの手を握った。
どのくらいの時間、そうしていただろう。僕の見ている目の前で、メイちゃんは次第に輪郭を失っていった。靄がかかったように見えにくくなり、僕は空いている左手で何度も目をこすった。
「来てくれて本当にありがとう」
メイちゃんは重ねて言った。ますます悲しそうな目をして。
「これで私の魂は救われる」
メイちゃんは今やほとんど後ろの風景に同化して見えた。
「ありがとう、さようなら。そして、ごめんなさい」
「ごめんなさい?」
悲しそうな目が、わずかに淡くほほえんだように見え、一瞬の後、メイちゃんはかき消すように見えなくなった。いや、いなくなったのだ。気配がまったく感じられない。
メイちゃんは救われたのだろうか? そんなことは僕にはまったく分からなかったけれど、望むことをしてあげられたと思うことにした。
メイちゃんがいなくなって、この場所は空気が変わった。虚ろな空気に満ちている。静かな池と桜並木、東屋、僕。この場所にはそれしか存在しない。わけもなくぞっとして背中に悪寒が走った。僕は来た道を急いで戻った。
出口が、ない。
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